第50話 魔女は故郷を訪れる
ミアがカバンの中から這い出て、空飛ぶカーペットの端から下を覗き込んだ。
「ちょっと、もうカエルラじゃないの。アンタ飛ばし過ぎよ!」
「ポミエル村に寄ろうと思って。そこでちょっと休憩するから大丈夫。ライアンのことボブじいさんに言わないといけないしね」
プスと音を立てて息を吐き、またカバンの中へ潜り込む。
作戦会議のあと、小屋と屋敷とを複数回往復して薬を運び、少しの仮眠だけで早朝にノルドを出た。食事と睡眠以外の時間はずっと飛び続けている。
「まだ二日よ、今夜はゆっくりしてよね」
「わかってる。明日には首都カエリーにつくし、何かあっても困らないくらいには回復優先させるよ」
見慣れたリンゴの木を見つけて、テネリはゆっくりと降下を始めた。飛行中ずっとテネリを困らせていた太陽はまだ沈みきってはおらず、辺りはオレンジ色に染まっている。
「お……おお、テネリじゃないか。無事だったか」
降り立ったテネリに最初に声を掛けたのはボブじいさんだ。彼の後ろにはテネリの畑があり、ライアンの代わりに世話を続けてくれていたのだと知る。
「美味しいパン買って来たから、一緒に食べよう」
「もちろんだとも。昨日の残りで済まないがスープとハムもある」
ボブじいさんと連れ立って彼の家へ入ると、空の薬瓶がいくつか転がっているのが見えた。
「今日は薬いくつか作って行くね」
「帰って来たわけじゃ……ないんだな。ライアンはお前に会えたか?」
ボブじいさんが鍋を火にかけ、戸棚から取り出した塩漬け肉をカットする間に、テネリはテーブルに皿を並べる。
思えばテネリは彼が生まれる前からこの家のことを知っている。そして、彼にもう何度も会えないかもしれないことも。
「うん、また畑を手伝ってもらった。連れて帰って来たかったんだけど……もう少しだけ、畑見ててほしくて」
「そうか。無事に会えたのならよかった」
「ぜんぶ終わったら、ちゃんと帰って来させるから」
返事の代わりに肉とスープがテーブルに並べられた。テネリもカバンから白いふわふわのパンを引っ張り出して乗せる。
ボブじいさんは肉の切れ端とちぎったパンを皿に乗せ、ミアの前に置いた。
「いい表情をするようになったな」
「表情?」
「人間らしい顔だ。怒ってるし焦ってるし、それに不安と恐れを抱いている」
「ああ。どんな気持ちかって言葉にするのは難しいね。私もこんなの初めてだよ。冷たくて熱いものが体中をぐるぐるしてる」
ミアがテーブルに乗ってテネリのグラスに顔を突っ込み、水を飲んだ。それはいつものことで、ボブじいさんもテネリも咎めはしない。
「何があった?」
「んー。……師匠を殺した魔女が、今度は私の友達を誘拐した」
「その友達はすごく大切な人なんだね」
ボブじいさんの言葉に頷いて、それからふたりは静かに食事をとった。このポミエル村で生活した80年の間で、何度となく重ねてきた時間だ。言葉はなくとも居心地はいい。
「私が片付けるよ、ボブじ――」
「久しぶりに『ボブ』と呼んでもらえると嬉しいな」
ライアンを育てるようになってから、ボブはいつの間にかボブじいさんになっていた。テネリは「ボブ」と呟いて食器を水桶へ突っ込む。
「テネリの不在中に、カエルラの騎士服を着た男が訪ねて来た。戻ったらこれを渡してほしいとね」
節くれだった手に乗っているのは、真鍮の鍵だ。だがただの鍵ではない。
「リベルの……師匠の魔力を感じる」
「彼は、『死んだらテネリに渡してくれ』と頼まれていたらしい。だが約束を果たす前に自分が死んでしまいそうだからと言っていたよ。それは儂も同じだというのにね」
「ありがと」
「ライアンには、自分の思うように生きろと伝えてくれるか。儂もそうやって生きてきた。おかげで終ぞ伴侶を得ることもなかったが幸せだった。幸せだったよ」
ボブはテネリの頭をポンポンと優しく叩いてから、扉を開いた。外はすっかり暗くなっていて、どこからか虫の声が聞こえる。
「ボブ」
「なんだ?」
「また来るから」
「ああ、待っているとも。だが、儂のことよりお前にヒトらしい表情を教えてくれた友達をちゃんと大切にするんだよ。さあ明日も大変なんだろう、ゆっくりお休み」
ボブがミアの名を呼ぶと、黒い猫が家の中から飛び出してテネリのカバンに飛びついた。
ふたりと一匹の「おやすみ」の言葉を合図に扉が閉じられ、テネリは自宅に戻る。
きちんと整理された室内で、きちんと処理されたハーブを手に薬を煎じていく。ボブや村のみんなの常備薬だ。魔力がなくとも作れる簡単な薬のレシピを記して、日付が変わった頃にテネリはやっとベッドに入った。
ずっと身体をぐるぐる巡っている激情を抑え込むように、ぎゅっと目をつぶる。目をつぶるとレナートの顔が思い出され、舌打ちをしてミアを抱き締めながら寝た。




