第35話 聖騎士様は王子様に釘をさす
珍しい種類の野犬が某伯爵家へ迷い込んだ事件から一週間が経過して、レナートは緊張した面持ちで味の感じられない紅茶を喉に流し込んでいた。
ノックの返事を待たずに入室したのはアレッシオだ。レナートはソファーから立ち上がることもせず、片方の眉を上げる。
「あれ、歓迎されてないね」
「わざわざコッチまで来るんですからイヤな予感しかしませんよ」
レナートが身に着けているのは光沢のある薄鈍色の上下。袖や襟元には金色の刺繍が入って、クラバットは可愛いピンク色をしている。
「それマダム・ベッカのデザインだろ? 準備は完璧って感じだね」
「で、なんの話ですか? 婚約式の直前に」
「なにって、最終確認だよ。式を終えたら本格的に後戻りできないからね」
アレッシオは大股でレナートの目の前まで来て、どっしりとソファーへ腰を下ろした。レナートが目配せをすると、カリオが機敏にお茶の準備を始める。
「最初から後戻りなんてさせるつもりなかったでしょうに」
「僕とレナートの仲じゃないか。今なら、王太子権限でどうとでもしてあげられるけど?」
表情こそいつも通りのヘラヘラとした軽薄さが滲んでいるが、瞳の奥には確かに従兄弟に対する心配が見え隠れしている。
テネリとの結婚はいばらの道だ。王家の血脈に魔女を迎え入れたと発覚すれば、国中がパニックになるだろう。聖王派の発言権もなくなるはずだ。
ベリーニ家に魔女が潜んでいることもわかった今、テネリの協力は必須ではない。だが。
「必要ありません」
「……ま、僕らが誓約を更新したらすぐにも離婚できるように手を回しておくね」
「それも必要ありません」
「え? 誓約更新まで2年はかかるんだ。それまで彼女が問題を起こさなかったなら、レナートが見張ってなくてもいいんだよ? ソフィアのレディーズメイドとして王宮に置いたっていい」
レナートはじろりとアレッシオを睨め付ける。
やはりアレッシオにとってテネリは扱いの難しい道具程度でしかないらしい。彼女にだって感情があることも、最大の弱点になり得る秘密を打ち明けるほど真摯にリサスレニスに向き合ってくれていることも、わかっていない。
「彼女のことは彼女が望む限り、俺の妻として生涯そばに置きます」
「なに、どうしちゃったの。もしかして本気で好きになっちゃったとか?」
カリオがテーブルに紅茶を並べた。その手元を眺めながら、レナートはアレッシオの言葉を反芻する。好きになったのかと改めて問われると、答えに窮するのだ。好き、というのはどういう感情を言うのだろうか。
「彼女は……可愛い」
「いや、わかるけど、それは」
「俺が俺でいられるのは彼女の前だけだ」
翠の目の持ち主ではなく、アレッシオのスペアでもなく、ただのレナート・アルジェントとして存在することが許されるのは、家族を除けば彼女の前でだけ。
翠の目のせいでテネリと結婚することになったレナートに、彼女は「お気の毒」と言った。それはレナート・アルジェント個人が尊重されないことを指している。レナート本人でさえ、立場上あたりまえのことだと考えていたのに。
毒草を触ってはいけないのは、王位継承権者だからではなく苦しむことになるから。テネリはレナートにそうも言った。
薬の影響で心細いときにレナートの名を呼んで縋ったのもまた、レナート個人を頼っていたのだと信じている。いつの間にかテネリはレナートにとって、自分が自分であるための拠り所となっていた。
アレッシオは首を微かに横に振りながら嘆息した。
「やっぱさぁ、魔女に操られてたりしない?」
「仮にそうだったらどうします?」
紅茶に伸ばしたアレッシオの手が止まり、顔を上げた。レナートとアレッシオの視線がぶつかる。
どれだけの時間そうしていたか、レナートにはわからない。だがそんなに長いことではないだろう。アレッシオは口元に笑みを浮かべてカップを手に取った。
「すまなかったね、『主張する者が証明せよ』は初代の言葉だ。気を付けるよ」
「お願いします。俺も殿下をぶん殴りたくないんで。……それよりそれ、初代聖王カジミールが、当時婚約者だった初代聖女を魔女と疑われて言った言葉ですね」
「そ。『一度でも他者を傷つけたか』ってね」
「聖女が魔女と勘違いされる、か」
「ところで本題だけど……ベリーニ伯爵の件はまだどうにもできないね。事情を知る関係者は疾しいことをしている自覚があるようで、誰も尻尾を出さないんだ」
レナートも深く頷く。魔法薬の使用だけでも極刑の可能性がある。だがそもそもの話として色に溺れて政治的な便宜を図った事実など、何が何でも隠したいだろう。
「どこから切り崩しましょうか」
「そうは言っても、この式を終えたら僕とソフィアは聖都を発つからね」
仕掛けるには時期が悪いのは確かだ。アレッシオがいないだけならまだしも、レナートも領地へ戻る予定になっている。
魔女が相手では、翠の目の持ち主か聖女が動かなければ取り逃がすのは必然だろう。しかし結界が脆くなっている以上、レナートとテネリの結婚こそ最優先の課題だ。
「部下に見張らせておきますが……俺とテネリが無事に結婚してからでないと、動きづらいですね」
突然踏み込んで魔女を捕縛するという手もないではないが、失敗した場合にフォローに費やす時間がない。
レナートが眉を下げたとき、控室の外をドタドタと走る足音があった。
「お嬢様のお部屋はどこですのヨー?」
毒気を抜かれる声に、レナートはくつくつと笑いながらカリオを案内に向かわせた。




