第3話 魔女は過去に思いを馳せる
元々ローブの下には目立たない普通の服を着ていたし、髪色も魔法で変えた。炎や薔薇に気を取られた民衆は、魔女がのんびり広場から歩き去ったことなど気付きもしないだろう。
たった一人、レナートだけはテネリを引き留めることもなく「南東の森に小屋がある」と囁いて紙袋を返してくれたけれども。
小屋は奥まった場所にあったが、魔女にとってそれを見つけるのも鍵を開けることさえ雑作もない。
建物のそばで捕まえたカエルとタヌキを前に愛用の杖を取り出した。
「あなたの名前はラナラーナ、お掃除・薪割り・お風呂の準備をお願いね。あなたの名前はウル、屋敷のお仕事ぜーんぶお願い」
テネリが歌うように杖を縦に横に振ると、彼女を見上げていたカエルとタヌキが人間の子どもくらいの大きさの、二足歩行の姿に変わる。
ラナラーナと名付けられたカエルは満足げに飛び跳ねて、小屋の外へと飛び出して行った。ウルは家具に被せてあった埃避けの布を引っ張って体に巻きつける。
「せっかくだから、もっとヒトらしい姿と衣服がほしいのヨ」
「東の大陸に住むタヌキは自分で人間に化けられるみたいよ。あなたのご先祖も東から渡ってきたんでしょ?」
「難しいことはわかりませんのヨ」
頬の毛を膨らませるウルの目の前でテネリが杖を振ると、体に巻き付けた白い布がメイド服によく似たワンピースへと変じる。見てくれも小柄ではあるが人間の女にしか見えない姿になって、ウルは尻尾を振って喜んだ。
ふわふわの尻尾を左右に振りながら部屋を出るウルの背中に、猫のミアがわざとらしく溜め息を吐いて見せた。
「あの尻尾、毟りたくなるわ」
「優しくしてあげてよ。私はあの尻尾好きだし」
「ふーん! どうでもいいけど」
ミアは紙袋からふわふわのパンを引っ張り出して咥えると、森の中へと姿を消した。彼女はテネリの友達で母親代わりで、そして偵察担当だ。魔女が静かに暮らそうと思ったら、厳重な警備は必須になる。
「あーっ! それ私のふわふわパンっ」
楽しみを奪われたテネリは、代わりにネコのクリームパンを一口齧ってソファーへ腰かけた。ふっと息を吐くと髪色が戻り、瞳孔の形が変わる。花眸。花の形に似た瞳もまた魔女特有のものだが、髪色よりずっと厳重に秘匿されている事実だ。
ここは小屋と言うには大きな建物で、テネリの以前の住まいが優に5つは入るほど。家具ひとつとっても庶民には手が出せないような高価なものだ。
恐らく貴族の狩猟小屋だろうとあたりをつけて目を閉じる。
以前住んでいたのは、ここリサスレニス聖国の西にあるカエルラという小さな国の、さらに隅っこにある小さな村だった。かれこれ80年ほど過ごした、故郷とも呼べる場所。
森に囲まれた小さな村は質素で前時代的な暮らしぶりだったが、魔女であるテネリを温かく受け入れてくれた。
だがその温かさが彼らにとっては仇となる。教会から遣わされる異端審問官、および教会所有の武力であるカエルラ国教騎士団の探索から、テネリを庇ってしまったのだ。
都市の事情から切り離された田舎だから、彼らは国教騎士団のやり方を知らなかったし、一般的な人間が魔女をいかに恐れているか、知らなかった。
午前中に国教騎士団がやって来るという情報がもたらされたが、日が沈む前にはもう、騎士によって村の地主が殴りつけられていた。人々が集まって魔女を匿う相談をする暇はどこにもない。
テネリは取る物も取り敢えず、長く過ごした小さな家を後にした。村の多くの人はテネリの家から離れた場所で騒ぎを起こし、残った数人だけが見送りに来た。
魔女がいた痕跡は見送りに来た人々がどうにかしただろう。だがそれはつまり、彼らの常備薬さえ捨ててしまうことに他ならない。
「人間にも作れる膏薬や風邪薬のレシピくらい、誰かに教えておけばよかったなぁ」
思っていたよりしょっぱいクリームパンを口に押し込んで、テネリは無心に顎を動かした。先にお茶を準備しておけば良かっただろうか、ウルは用意してくれるだろうか、とぼんやり考える。
「人間より自分のこと心配しなさいよ。魔女が逃げたって大騒ぎなんだから。リサスレニスまで魔女狩りがあるなんてね」
いつの間に戻って来たのか、ミアがテネリの口元についたクリームを舐め取った。
「おかえり、ミア。この国には魔女も滅多に寄り付かないから情報が少ないよね」
「はん! 情報があったって、誰もアンタには教えてくれないでしょうけどね」
ミアが髭をピンと張って意地悪そうに鼻を鳴らす。この猫は正直すぎるのが玉に瑕だ。
「でもおかしいと思わない? もう何年も聖女の目覚めを待ってたのに、魔法を使う女の子がいたからって最初に魔女を疑うかなぁ」
「あら、その軽い脳みそは何にも覚えてないのね! 集会で曇天の魔女が言ってたじゃない。『薔薇の魔女が動きやすくなるように、お手伝いしてあげる』って」
「どういうこと? ……えっ。もしかして曇天の魔女が仕組んだの?」
多くの魔女は人間が嫌いだ。そしてヒトと共生するテネリのことも嫌っていた。けれども、冗談で済まないようなイタズラをするのは大好きだった。
「アツいーっ!」
どこかでラナラーナの悲鳴が聞こえ、テネリはカエルに風呂の支度をお願いしていたことを思いだした。




