第23話 魔女は人生で最も美味しいパイに出会う
広い食堂で食事をとるのはテネリとレナートのふたりだけだ。給仕を務める侍従も今は下がらせていて、他に誰もいない。
「あの、こないだのことなんだけど」
「こないだ?」
「薬、飲んだでしょ。あのとき私なんか変なこと……あっいや、なんでもない、忘れて!」
奇行に走った自覚はあるものの、具体的かつ詳細に何をしたのかまでは覚えていない。それを聞いた方がいいのか、覚えていないままのほうが幸せなのか、難しい問題だ。
「あれは……そうだな、すごく可愛かった」
「は? え?」
「大丈夫、知ってるのは俺だけだ。死ぬまで俺の心に留めておこう。テネリのおかげで薬の作用もわかったし感謝している。ありがとう」
セリフ自体はいたって普通の冷静な回答なのに、レナートの顔は真っ赤で、大きな手で口元を覆って俯いてしまった。
笑いをこらえているのか、吐き気をこらえているのか、テネリにはわからない。ただ、詳細を明らかにするべきでないことだけはよくわかった。
落ち着こうとワインを口に含むと、立ち直ったらしいレナートが咳ばらいをした。
「今日はドナテロとなにを?」
「お城の庭師のおじいさんがたくさんハーブをくれたの。それで、ドゥラクナの魔法薬の効果を薄める薬を作ろうと思うんだけど――」
「できるのかっ?」
レナートが顔を上げてテネリを見る。キラキラした翠の目がテネリには眩しい。
魔女は他の魔女や人間がどうなろうとあまり気にしないというのに、人間はどうして赤の他人に優しくなれるのだろう。
テネリはそれが羨ましくて人間に紛れて生きてきたというのに、どうも根本的な部分を理解できていない気がするのだ。
「2日もあればできるかな。そういう協力の対価に、私は安心して生活できる環境をもらえるんでしょ」
「ああ、そうだ」
レナートは眉を顰めつつも頷く。
そう、これは契約結婚だ。テネリにとっては平穏な生活を得るための。レナートにとってはソフィアの脅威となる魔女を排除するための。
「だが陛下はこの結婚をまだお認めくださらない。ここ数日はドゥラクナの件やベッファの件に追われて、説得する時間もなかなかとれなかった」
「ていうか普通は許可とってからコッチに話持ってくるんじゃないの」
「俺もまさか国家機密まで明かしてしまうとは思わなかった」
テネリはレナートと目を合わせて深く溜め息を吐いた。全部アレッシオが悪い、ということで意見が一致したようだ。
「王様がずっと許さなかったら?」
「大丈夫、その点は手をまわして来た。明日、陛下の茶会があるから一緒に行こう」
「なにしたの?」
数日かけて説得できなかったものを、どんな手を使えば大丈夫だと断言できるようになるのか、テネリにはさっぱり見当もつかない。
「それは明日のお楽しみだな」
口の端を片方だけ上げて笑う姿に、テネリは呆れながら銀器を置いた。
「国に忠誠誓ってるからここまでするの?」
「忠誠なんか誓わない。俺はアレッシオのスペアだからな」
「スペア?」
レナートの返事はなく、テネリも銀器を握り直す。微かに皿と銀器の触れる音だけが響いた。
言わんとすることはなんとなくわかる。翠の目を持っているからだ。
例え聖王の印がなかろうと王位継承順位はアレッシオに次ぐ二位。自分の意志で忠誠を誓ったわけでもなく、生まれながらに国のために全てを捧げて生きることが定められているのだ。
せめて、テネリがレナートの前に現れなければ……いや、ソフィアが魔女だと誤認されなければ、こんなことにはなっていなかっただろうに。
「魔女裁判のとき、ソフィアと話さなかったの? レナートなら女性の審問官を呼ぶこともできたんじゃない?」
「魔女のいないこの国では聖騎士団と言ってもその実、便利な遊撃部隊なんだ。あのとき、カエルラとの国境で諍いが起きて、俺たちは前線の援護に回っていた」
「カエルラ……」
「ドゥラクナの件も、カエルラと通じていたらしいと早馬が来た」
レナートとテネリはお互いに目を合わせて深く頷いた。何もかも、最初から仕組まれていたのだ。曇天の魔女はリベルを殺し、カエルラを奪ってリサスレニスをどうにかしようとしている。
「もうリサスレニスの中心部まで侵食されてるね」
「そうだな。のんびりしている暇はないだろう」
ノックの音にレナートが返事をすると、給仕が顔を出した。デザートの用意ができたらしい。
「お二人が屋敷で食事をご一緒されるのは初めてのことですから」
そう言いながら侍従がテーブルに並べたのは豪華なクリームパイだった。
「うわぁ……!」
テネリは容姿こそハタチ前後にしか見えないが、実際は200年も生きてきたのだ。美食と言われるものは大抵、口にしたことがある。
だが、見ただけでテネリを心から歓迎しているとわかる食べ物に出会ったのは初めてだった。
目の前にそっと置かれた皿には、粉砂糖で飾られた黄金色のパイ。周囲を色とりどりのフルーツが囲んでいる。シロップに漬けてあったのか、キラキラと輝いて目にも美しい。
ナイフを入れるとサク、と音がする。切り分けたところから白いクリームがとろりと溢れ、テネリはそれを生地で掬い取るようにして口に放り込んだ。
「んー!」
パイ生地の香ばしい香りのあとからふわふわのクリームの甘さが追いかけてくる。落っこちそうなほっぺを手で押さえ、鼻から抜けるバターの香りを味わう……と、すぐそばでクスクスと笑う声が聞こえた。
「いい顔をする。パイが好きなのか?」
「これは特別」
そう言いながらテネリが視線を感じて扉のほうへ目を向けると、隙間からいくつもの目が食堂を覗き込んでいる。が、バタバタとすぐにいなくなってしまった。
「今のは?」
レナートが給仕に尋ねると、彼は困ったように笑った。
「お食事中のテネリ様の表情が素敵だと、私どもの間で噂になっておりまして」
「なっ――」
「それは間違いないが、今後はゆっくり食べさせてやってくれ」
伸びて来たレナートの手がテネリの口元についたクリームを拭った。




