外伝・今日のシシルシさん18
「へー。じゃあ赤いおぢちゃんお留守番で矢鵺ちゃん嘆きの洞窟行くんだー。いいなー」
赤面必死だった保健室から戻って来たハルツェは、部屋へと向かう手前のトイレで、シシルシの声を聞いて思わずトイレ前で身を隠した。
別に隠れる意味はなかったのだが、思わずシシルシに見つからないように動いてしまったのだ。
横をすれ違った女生徒が不思議そうな顔をしていたが苦笑いだけ返しておく。
「シシーも行きたかったなぁ。あ、でもでもこっちはこっちで楽しーよ。若萌ちゃんも来るー?」
どうやら誰かと話しているようだ。しかし、シシルシの前には壁しかない。
個室には入っておらず、かといって個室にいるだろう人物に向って話しかけているわけでもないようだ。
おそらくだが遠方の誰かと連絡を取っているのだろう。魔法か何かで行ったのだとハルツェは勝手に納得する。
「え? こっちの状況? んー、他のメンバーはロバちゃんが収集してるからそっちから聞いてね。シシーの方はね、貴族院でお友達一杯だよ。一声かければ沢山集まるの。うん。そうだねー。まだそこまで友好度は高くないからもっと調教しなきゃだね」
調教? 今までの会話内容からかけ離れた単語に思わず疑問符を浮かべるハルツェ。
一瞬シシルシの視線がこちらに向いた気がしたが、シシルシは会話を続けているので気のせいだったかもしれない。
ハルツェは心臓が高鳴るのを押さえながら必死に聞き耳を立てる。
「ふふん。そうなんだよー。トリアットとかいうのが邪魔でねー。男子はもうちょっと時間かかるかなぁ。アレをどうにかすればすんなりオトせると思うよ。でも王様もお馬鹿さんだよねー。だって……未来の貴族様を洗脳する機会をくれるんだからなァ」
ゾクリとするような声音にハルツェは自身の心臓が止まったような気分を味わった。
今のは本当にシシルシの声だったのだろうか? そんな疑問すら思ってしまう程に、今までのシシルシとはかけ離れた冷徹な声だ。
「女子? 令嬢共の方は伯爵令嬢二人が真っ先に俺様に靡いたからな。ほぼ完遂だ。後はルームメイトの一人がなぁ。ちょいと俺様の本心に気付いてるみてぇでなぁ。一応男使って搦め手つかっちゃいるが、場合によっちゃ排除……しなくちゃなぁ、なぁ、ハルちゃぁん?」
そっと覗いた瞬間だった。深淵の覗くような三つ目でハルツェにニタリと笑みを向けるシシルシと眼が合った気がした。
あまりの恐怖で意識がブツンとブラックアウトした。
……
…………
……………………
っ!?
意識の覚醒と共にハルツェは起き上がる。
慌てて周囲を見回すが、白いカーテンで仕切られたその場所は、見覚えが余りない場所だ。上を向けば白い天井。
自分は白いベッドに眠っていたらしい。
どこか謎の施設に連れて行かれたのだろうか?
慌てて周囲を見るが、カーテンで仕切られているせいで周囲が分からない。
慌てて起き上がりカーテンを開く。
「あ、起きましたか」
カーテンを開いた先には、木造りの椅子に腰かけていた男が一人。
騎士爵の男でハルツェを御姫様抱っこで保健室に連れて来た人物だ。
「え? あ、あの?」
「少しうなされていたようですが、大丈夫ですか?」
「え? あ、はい?」
少し安堵を覚える。
どうやらここは保健室らしい。
ということは、自分は起きて教室に戻ったつもりだったのだったが、それは夢だったのかもしれない。
シシルシが寮のトイレで普通の声であんな話をしている訳もないだろう。誰に聞かれるか分からないのだし。
シシルシが恐ろしいものかもしれないと何度も思っていたせいで変な悪夢を見ていたのだろう。
そう思うと、心がいくらか楽になるハルツェ。
眼を閉じ、ふはぁっと息を吐いて眼を開くと、それを見て苦笑している騎士爵の男と眼が合った。
「ふふ、あ、いや失礼。あまりにも安堵した顔をしていらっしゃったので。何か悪夢でも?」
「え? あ、はい。どうもシシルシ様を恐れるあまり本当に恐ろしい存在だという悪夢を見てしまったようですの。恐がりすぎるのも考えモノですの」
恥ずかしげに頬を掻くハルツェ。相手の男はかなりイケメンなので苦笑する顔も惚れ惚れする程に良い顔をしている。
見つめ合うだけで思わず気恥しくなってしまう。
「あ、あの、本日はわざわざ目覚めるまで居ていただいたようで、ありがとうございました」
「いえ。騎士見習いとして令嬢を護衛する貴重な体験をさせていただきましたし、お礼など必要ありません。あの、先程件のシシルシ様がいらっしゃってですね。貴女が起きたなら自己紹介をしておけと言われたのですが……」
「まぁ。それでしたらぜひとも。私は子爵家令嬢ハルツェ・メーニクスですの。よろしくですの」
「はい。私はクレランス・ロレンツィアと申します。以後、お見知りおきをハルツェお嬢様」
クラレンスは椅子から立ち上がると、ハルツェの前までやって来て膝を折って座ると、ハルツェの手を取り、その甲にそっと口付ける。
騎士が王女等に行う忠誠の証であった。
「ひゃぅっ!? あ、あのえと、クラレンス様!?」
「失礼。それでは私はお暇させていただきます。放課後の訓練を抜けて来ましたので。お次はトイレで倒れないようお気を付けて」
そう言って颯爽と去って行くクラレンス。
顔を真っ赤にしながらもハルツェはふと、気付いた。
クラレンスにお姫様抱っこで保健室に連れて来られた一度目は、トイレで倒れた訳ではない。それは夢の中で起こったはずの……
全身から、滝のように汗が噴き出るのを、彼女は止める術を知らなかった。




