第29話「問いかけと優しい風(3)」
同じ頃。
ベゼッセンは、学園内に用意された自室へと戻っていた。
特別講師として滞在する間、あてがわれた客員用の個室だ。質素だが生活に必要なものは揃っている。窓からは月明かりが差し込み、室内を青白く冷ややかに照らしていた。
扉を閉め、ほっと息を吐いた瞬間——
ベゼッセンの動きが凍りついた。
誰もいないはずの自分の椅子に、人影がある。
「おやおや、お帰りなさい」
聞き覚えのある、芝居がかった声。
月の光ような白と闇に染まったような黒を混ぜたような髪。冷たい美貌に浮かぶ、人を小馬鹿にしたような笑み。
パラッツォだった。
ベゼッセンの椅子に深く腰掛け、まるで自分の城であるかのようにくつろいでいる。
「......勝手に入るな」
ベゼッセンは低く吐き捨てた。声には隠しきれない苛立ちが滲む。
「おやおや、そう怖い顔をしないでくださいな」
パラッツォは椅子の肘掛けに頬杖をつき、愉快そうにベゼッセンを見上げた。
「今日のご様子を、少し覗かせていただきましてねぇ」
「......」
「いやあ、よかったですねぇ、ベゼッセン様」
パラッツォの声が、毒を含んだ蜜のように甘くなる。
「駒鳥ちゃん、最後に笑ってくれたじゃないですか」
その言葉に、ベゼッセンの肩がわずかに揺れた。
「ふふ、七年ぶりの笑顔でしょう? あなたに向けられた笑顔は」
パラッツォは優雅に立ち上がり、音もなくベゼッセンの周りを歩き始めた。
「謝罪も、なかなかの演技でしたよ。『厳しくしすぎた』『やり方が間違っていた』......ふふふ、まるで本当に反省しているかのようでした」
「......茶化すな」
「おや、怒りましたか?」
パラッツォがわざとらしく首を傾げる。
「でもでも、私は褒めているんですよ? 本当に。『優しい叔父』という仮面、お見事です。周囲の教師たちも、すっかり騙されているようですしねぇ」
ベゼッセンは無言で、まとわりつくようなパラッツォの視線を睨み返した。
「ああ、そうそう」
パラッツォは窓際へと移動し、空に浮かぶ月を見上げた。
「ホリデーの間は、駒鳥ちゃんとは接触できませんねぇ。残念ですが、仕方ありません」
その声には、微塵も残念そうな響きはない。むしろ、楽しみを先延ばしにする子供のような高揚感が混じっている。
「ですが——」
振り返ったパラッツォの顔に、ゆっくりと、三日月のような笑みが裂けた。
「ホリデー明けには、大きなイベントがあるでしょう?」
「......何の話だ」
「おや、ご存知ないのですか?」
パラッツォは大げさに驚いてみせた。
「彼らがメインで開催する、国を挙げてのイベントですよ」
彼ら。
その言葉が、妙に鼓膜に引っかかった。
「一年で最も華やかな、あの行事です。ふふ、彼らにとっては晴れ舞台でしょうねぇ」
ベゼッセンの眉が、微かに動く。
「......あれか」
「ええ、ええ。あの行事です」
パラッツォの笑みが、さらに深く、暗くなる。
「大勢の人が集まる。貴族も平民も、国中から。警備も厳重になりますが......だからこそ、混乱も起きやすい」
月明かりが、パラッツォの白い髪を白銀に輝かせた。
その瞳が——一瞬、飢えた獣のように怪しく光る。
「楽しみですねぇ」
その声は、甘く、優しく、そして——底知れぬ悪意に満ちていた。
「とても、とても、楽しみです」
パラッツォは両手を広げ、まるで舞台役者のように朗々と言った。
「どんな舞台になるのか......ああ、考えただけで震えが止まりませんねぇ」
窓から差し込む月明かりが、パラッツォの横顔を照らす。
その笑みは——月さえも凍りつかせるような、残酷な美しさを湛えていた。
ベゼッセンは何も答えなかった。
ただ、冷たい目でパラッツォを見つめている。
「おや、ベゼッセン様は乗り気ではありませんか?」
パラッツォが不思議そうに首を傾げる。
「でも、いいんですよ。あなたは今のまま、『優しい叔父』を演じ続けていてください。それが一番ですからねぇ」
パラッツォは再び窓際に立ち、夜空を見上げた。
「さあ、幕間は終わりです」
歌うように呟く。
「次の幕が上がる時が、楽しみですねぇ......ベゼッセン様」
振り返った時には、パラッツォの姿はもう消えていた。
まるで最初からそこにいなかったかのように。影すら残さず、気配ごと掻き消えていた。
ベゼッセンは一人、月明かりの中に立ち尽くしていた。
窓の外では、冬の星々が冷たく瞬いている。
「......」
彼は何も言わず、ただ窓の外を見つめた。
パラッツォが座っていた椅子に、ゆっくりと腰を下ろす。座面には、まだ微かな温もりが残っているような気がして不快だった。
彼らがメインで開催する、国を挙げてのイベント。
一年で最も華やかな行事。
その言葉が、頭の中で反響する。
「......何を企んでいる」
誰に向けるでもなく、空虚な空間に呟いた。
パラッツォの真意は分からない。あの悪魔が何を考えているのか、ベゼッセンにも読み切れない。
ただ一つ、確かなことがある。
あの男は——何かを仕掛けようとしている。
キオを巻き込む、決定的な何かを。
「......」
ベゼッセンは目を閉じた。
まぶたの裏に浮かぶのは、今日のキオの姿だった。
怯えながらも、最後に見せてくれた小さな笑顔。
あの笑顔を——
守りたいのか。
それとも——
その答えは、ベゼッセン自身にも分からなかった。
部屋の隅で、ヴェルメが静かに佇んでいる。
首なし騎士は、何も言わない。何も言えない。
ただ、肩口から立ち上る闇色の霧が——まるで主人の迷いを映すように、静かに、静かに揺れていた。
窓の外では、冬の月が冷たく輝いている。
ホリデーまで、あと数日。
そして、その先に待つ——彼らの祭典。
静寂の中、ベゼッセンはただ一人、深まる夜の闇を見つめ続けていた。
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