第29話「問いかけと優しい風(2)」
小部屋を出たキオは、冷え冷えとした冬の廊下を歩きながら、自分の心臓がまだ早鐘を打っていることに気づいた。
渡り廊下の窓ガラス越しに、夕闇に沈みゆく中庭が見える。冬枯れの木々が、藍色に染まる空を背景に黒いシルエットを描いていた。
『......終わった』
心の中で呟くと、全身を縛り付けていた見えない糸が、ふっと緩むのを感じた。
『ああ。よく耐えた、キオ』
シュバルツの声が、労わるように優しく響く。
『シュバルツ......あの人、変わったのかな』
歩きながら、キオは問いかけた。
七年前のベゼッセンとは、明らかに違っていた。キオの意思を尊重しようとしている。謝罪の言葉も、嘘には聞こえなかった。
『......』
シュバルツは、すぐには答えなかった。
長い沈黙の後、重みのある低い声が返ってくる。
『人の心は、俺にも完全には読めない。だが、一つだけ言えることがある』
『なに?』
『七年という歳月で、人が根本から変わることは稀だ。表面は変わっても、核心は変わらないことが多い』
キオの足取りが、少しだけ遅くなった。
『つまり......』
『警戒を解くな、ということだ。今日の態度が本物かどうか、見極めるには時間がかかる。焦って信じる必要はない』
『......うん』
キオは小さく頷いた。
信じたい気持ちはある。もしベゼッセンが本当に変わったのなら、それは素晴らしいことだ。七年前の悪夢を、過去のものとして葬れるかもしれない。
けれど——シュバルツの言う通りだ。
焦る必要はない。時間をかけて、じっくりと見極めればいい。
『それに』
シュバルツが力強く付け加えた。
『お前には俺がいる。友人たちもいる。あの男が何を企んでいようと、お前を傷つけることは許さない』
その言葉に、キオの胸がじんわりと温かくなった。
『ありがとう、シュバルツ』
『礼はいらない。......さあ、皆が待っている。早く戻ろう』
キオは顔を上げ、寮への道を急いだ。
吹き抜ける冬の風が火照った頬を撫でる。冷たいけれど、今のキオには不思議と心地よかった。
―――
寮に近づくと、中庭に人影が見えた。
男子寮と女子寮の間にある、小さな庭園。冬枯れの花壇を囲むように置かれたベンチに、見慣れた四人の姿があった。
「あ、キオ!」
真っ先に気づいたのはカリナだった。弾かれたように立ち上がって手を振る彼女の周りでは、火の精霊メラメラちゃんが赤い炎をパチパチと揺らめかせている。
「戻ってきた!」
ルイも振り返り、ぱっと安堵の表情を咲かせた。彼女の肩には、フレアがちょこんと止まっている。二体の炎の精霊が放つ熱が、冬の寒さから四人を守る暖炉の役目を果たしているようだった。
「こんな寒い中、待っていてくれたの?」
キオが駆け寄ると、オーウェンが静かに頷いた。吐く息が白い。
「中で待っていようかとも思ったが、男子寮と女子寮では別だからな。ここが一番都合が良かった」
「メラメラちゃんとフレアちゃんが暖めてくれてるから、全然寒くないよ!」
カリナが胸を張ると、メラメラちゃんが誇らしげに火花を散らした。
「それで、大丈夫だった? 何かされなかった?」
ルイが心配そうに覗き込んでくる。
「うん、大丈夫。ちゃんと話を聞いてもらえたよ」
キオが答えると、セドリックが胸を撫で下ろして大きく息を吐いた。
「よかった......。何かあったらすぐに助けに行こうって、みんなで待機してたんだ」
「え、そうだったの?」
キオは驚いて友人たちを見回した。
「当たり前でしょ!」
カリナが腰に手を当ててふんぞり返る。
「キオが心配だったんだもん。スバルがいるとはいえ、あの先生と二人きりなんて......」
「僕たちは、いつでもキオの味方だ」
オーウェンが静かに、しかし力強く言った。
「何かあれば、遠慮なく頼ってくれ」
友人たちの真っ直ぐな想いが、冷え切っていた心にじわじわと染み渡っていく。
「みんな......ありがとう」
キオは、心からの笑顔を浮かべた。
「本当に、何もなかったんだ。竜人の精霊について質問されて、答えただけ。......それから」
少し言葉を切って、キオは続けた。
「叔父さん......ベゼッセン先生が、昔のことを謝ってくれた」
「謝った?」
ルイが目を丸くする。
「うん。厳しくしすぎた、やり方が間違っていた、って」
友人たちは顔を見合わせた。信じられない、といった空気が流れる。
「それは......本当なのかな」
オーウェンが慎重な口調で言った。
「分からない。でも、少なくとも今日は、無理強いされることはなかった」
キオは正直な感想を口にした。
「シュバルツも、すぐに信じる必要はないって言ってた。時間をかけて見極めればいいって」
「スバルさんの言う通りだね」
ルイが深く頷く。
「焦らなくていいよ、キオ君。私たちがついてるから」
「そうそう! 何かあったら、あたしたちがぶっ飛ばしてあげるんだから!」
カリナが拳を握り、ぶんぶんと振ってみせる。
その勢いに、キオは思わず笑ってしまった。
「ありがとう、カリナ。でも、先生をぶっ飛ばしたら退学になっちゃうよ」
「あ、そっか......」
カリナが真顔で考え込む。
「じゃあ、精霊たちにこっそりやってもらう?」
「それも駄目だと思う......」
セドリックが苦笑しながら突っ込みを入れる。
冬の中庭に、穏やかな笑い声が広がった。
メラメラちゃんとフレアが放つ炎の光が、友人たちの笑顔を温かく照らし出している。
キオは、この瞬間を噛みしめるように、大切な友人たちの顔を見渡した。
あの頃とは違う。
今の自分には、シュバルツがいる。友人たちがいる。
何があっても、きっと大丈夫だ。
「さて、そろそろ寒くなってきたし、解散しようか」
オーウェンが空を見上げた。いつの間にか、頭上には星が瞬き始めている。
「うん。みんな、今日は本当にありがとう」
「また明日ね、キオ君」
「おやすみー!」
ルイとカリナが手を振りながら女子寮の方へと歩いていく。メラメラちゃんとフレアが、主人たちの周りをくるくると飛び回り、夜の闇に光の尾を引いていった。
「僕たちも戻ろう」
オーウェンに促され、キオとセドリックも男子寮への道を歩き始めた。
夜も更け、静寂が寮を包み込む頃。
自室のベッドに横たわったキオは、ぼんやりと天井を見つめていた。
隣では、シュバルツが窓際の椅子に腰掛け、静かに夜空を眺めている。月明かりが、彼の黒い鱗を銀色に縁取り、神秘的な輝きを放っていた。
「シュバルツ」
「何だ」
「今日......ヴェルメが、僕の頭を撫でたでしょ」
「ああ」
「あれ、どういう意味だったのかな」
シュバルツは少し沈黙してから、低い声で答えた。
「分からない。だが......あの精霊に、悪意は感じなかった」
「うん、僕もそう思った」
キオは寝返りを打ち、シュバルツの方を向いた。
「なんだか......守ろうとしてくれてるみたいだった。変だよね、ベゼッセン先生の精霊なのに」
「精霊は、契約者の意思に従うものだ。だが、同時に独自の意志も持っている」
シュバルツの紫の瞳が、暗闇の中で静かにキオを見つめ返した。
「ヴェルメがお前に何を感じたのか、俺には分からない。だが......」
「だが?」
「あの精霊は、何かを伝えたかったのかもしれない。言葉を持たない者なりの、方法で」
キオは、頭に残る冷たい籠手の感触を思い出した。
冷たいけれど、優しかった。
まるで、壊れ物を扱うような、小さな子供を守るような手つき。
「......ヴェルメも、何か思うところがあるのかな」
呟くように言うと、シュバルツは静かに頷いた。
「精霊もまた、心を持つ存在だ。契約者と常に同じ考えとは限らない」
その言葉が、妙に心に引っかかった。
ベゼッセンとヴェルメ。契約者と精霊。
二人の間には、外からは見えないどんな関係があるのだろうか。
考えているうちに、まぶたが鉛のように重くなってきた。今日は色々なことがありすぎて、心身ともに疲れ切っている。
「......おやすみ、シュバルツ」
「ああ。ゆっくり眠れ、キオ」
シュバルツの低い声に包まれながら、キオは深い安らぎの中へ、穏やかな眠りへと落ちていった。
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