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夜空色の青春  作者: 上永しめじ
第二章「絆と葛藤の深化」
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第29話「問いかけと優しい風」



 前日に告げられた呼び出しの約束。それはまるで、胃の底に冷たい石を詰め込まれたような重苦しさとなって、一日中キオを苛んでいた。


 実技試験翌日の放課後。


 冬の短い日は早くも傾き、校舎の窓ガラスを深い茜色に染め始めている。廊下に伸びる影を踏みながら、キオは重い足取りで訓練場横の小部屋へと向かっていた。


 押しつぶされそうな不安の中で、隣を歩くシュバルツの存在だけが唯一の支えだった。



『キオ。俺がいる』


 心の奥深くに響く低い声。その温もりに触れ、強張っていた肩の力が少しだけ抜ける。


『......うん。ありがとう、シュバルツ』


 シュトゥルム先生が手配してくれたというその小部屋は、訓練場から渡り廊下を抜けた先にひっそりとあった。普段は使われていない教員用の談話室らしく、古びた扉の向こうからは、冬枯れの中庭が見えるはずだ。



 キオは一度深く息を吸い込み、肺を満たしてから扉をノックした。


「どうぞ」


 中から返ってきたのは、拍子抜けするほど穏やかな声だった。けれど、それだけでキオの心臓はビクリと跳ね上がる。


 意を決して扉を開ける。


 最初に目に入ったのは、窓際の机で書類の山に向かうベゼッセンの背中だった。ペンを走らせる音だけが、静かな部屋に響いている。



 そして——視界の端。


 窓から差し込む夕陽さえ届かない、部屋の薄暗い隅。

 そこに、黒い鎧の騎士が佇んでいた。


 首から上がない、無骨な鎧。その切断面である肩口からは、闇色の霧のようなものが陽炎のように立ち上っている。


 デュラハン——首なし騎士の精霊、ヴェルメだ。



 精霊召喚の儀式で遠目に見たことはある。ベゼッセンの使役する精霊であることも知っている。だが、こうして同じ空間で対峙するのは初めてだった。



「ああ、ネビウス君。来てくれましたか」


 顔を上げたベゼッセンが、申し訳なさそうに眉を下げる。


「申し訳ないのですが、少し書類の整理が終わらなくて。もう少しだけ待ってもらえますかね?」


「......はい」


 キオはかろうじて声を絞り出し、入口近くで立ち尽くすことしかできなかった。


 すかさずシュバルツが、キオを庇うように半歩前へ出る。その長い尾が、ベゼッセンからは見えない位置で、キオの腰にそっと巻きついた。



『警戒を解くな』


 内なる声が鋭く警告する。


『うん......』


 キオの視線は、石像のように動かない黒い騎士に釘付けになっていた。


 ヴェルメには顔がない。当然、表情を読み取ることもできない。


 だというのに、その佇まいは奇妙なほど穏やかだった。威圧感もなければ、刺すような敵意も感じられない。ただ静寂の一部として、そこに在る。



 不意に、ヴェルメが動いた。


 重厚な黒い鎧が、微かな金属音を立てる。ゆっくりとした歩調で、キオの方へと近づいてくる。


 シュバルツの全身に、バチリと緊張が走った。

 紫の瞳が針のように細まり、背中の翼がわずかに持ち上がる。巻きついた尾の力が強まり、喉の奥から威嚇の唸りが漏れそうになる。




 けれど——


 近づいてくるヴェルメからは、不思議と悪意が感じられなかった。


 敵意も、害意も。まるで、透明な風のようだ。

 首のない騎士は、キオの目の前でぴたりと足を止めた。


 そして、黒い鉄の籠手に包まれた手が、ゆっくりと持ち上がる。


 キオは息を詰めて身構えた。


 次の瞬間。


 ひやりとした冷たい籠手が、キオの頭にそっと触れた。



「え......?」


 優しく、撫でられている。

 まるで、迷子になった幼い子供をあやすかのように。


 キオは呆然と、自分の頭上に置かれた無骨な手を見上げた。疑問符が頭の中で渦を巻き、何が起きているのか理解が追いつかない。



 けれど——その手つきは、確かに優しかった。


 無機質な鉄の感触なのに、そこには不思議な温かみが宿っている。慈しむような、あるいは守ろうとするような、そんな感覚。


『......この精霊、悪意はないようだ』


 シュバルツの声にも、明らかな困惑が滲んでいた。



『でも、警戒は続けろ。この男の精霊だ』


 ペシッ。

 乾いた音が響く。


 シュバルツの尾が、しびれを切らしたようにヴェルメの腕を軽く叩いたのだ。


「......」


 ヴェルメは一瞬動きを止めた。それから、名残惜しそうにゆっくりと手を下ろす。


 首元の黒い霧が、少しだけしょんぼりと揺らいだように見えたのは気のせいだろうか。首のない騎士は無言のまま踵を返し、主であるベゼッセンの傍へと戻っていく。



「おや」


 書類から目を離したベゼッセンが、その様子に気づいて小さく笑った。


「ヴェルメ、スバル殿に叱られてしまったか」


 シュバルツは何も答えず、キオの前に立ちはだかったまま動こうとしない。




「さて、お待たせして申し訳なかったね」


 ベゼッセンはペンを置き、椅子から立ち上がった。邪魔な書類の束を脇にどけ、キオの方へ向き直る。


 その所作は洗練されており、あくまで「教師」としての仮面を崩していない。


 しかし、次の瞬間——彼が纏う空気が、微かに色を変えた。


「キオ」


 教師としての硬い敬語が消え、親しみを帯びた呼び名に変わる。


 その瞬間、キオの背筋に冷たいものが走った。


「改めてにはなるが、久しぶりだな。元気にしていたか?」


 その声は柔らかく、どこか懐かしむような響きすらあった。七年前——まだ何もかもが狂い始める前、優しかった頃の叔父の声。


「......はい」


 キオの唇から、かろうじて言葉が漏れる。声が震えそうになるのを、必死に喉の奥で押し殺した。


「そうか。......セクやノックスは元気か? ルーアとネロは?」


「......はい、皆、元気にしていると聞いています」


「そうか、良かった」


 ベゼッセンは、心の底から安堵したような表情を浮かべた。



 重い沈黙が落ちる。

 窓から差し込む夕陽が、室内を濃い橙色に染め上げていた。その斜陽の中で、ベゼッセンは静かに目を伏せる。


「......キオ」


 その声が、微かに震えた。


「七年前のこと......謝らせてほしい」


 キオは息を呑んだ。


 腰に回されたシュバルツの尾が、ぎゅっと強まる。



「お前に対して、私は......厳しくしすぎた」


 ベゼッセンは顔を上げ、逃げることなく真っ直ぐにキオを見つめた。


「兄さんと義姉さんを亡くして......私は、その代わりにならなければと焦っていた。お前を守らなければ、お前のためにと......そう思い込んでいた」


 言葉を探すように、一度口をつぐむ。


「でも、やり方が間違っていた。お前を怖がらせてしまった。......本当に、申し訳なかった」



 深く、頭が下げられる。

 キオは、何も言えなかった。


 その謝罪は、あまりにも本物らしく聞こえた。後悔に満ちた声色、苦渋に歪んだ眉、震える肩——その全てが、心からの懺悔に見える。


 もしかして。


 もしかしたら——ベゼッセンは、本当に変わったのだろうか。


 七年という歳月が、彼を変えたのか。

 あの頃の異常な執着は消え去り、今はただ純粋に「叔父」として、甥の身を案じているのだろうか。




『キオ』


 シュバルツの声が、冷水を浴びせるように鋭く響いた。


『人はそう簡単には変われない。警戒を解くな』


『......うん』


 キオは心の中で頷いた。信じたいという微かな希望と、信じられないという根深い恐怖が、胸の中で軋み合っている。



「お前が私を苦手としていることは、分かっている」


 顔を上げたベゼッセンが、穏やかな——けれどどこか寂しげな笑みを浮かべた。


「だから、今日も無理はさせないつもりだ。お前が嫌なら、すぐに終わらせよう」


 その言葉は、七年前のベゼッセンからは到底想像できないものだった。


 あの頃の彼は、キオの意思など一度たりとも聞いてはくれなかった。「お前のため」という呪文を唱え、キオの望みを全て踏み潰していた。



 今の彼は——違う。


 少なくとも、表面上はそう見える。



「......ありがとう、ございます」


 キオは、ようやくそれだけの言葉を絞り出した。


「では」


 ベゼッセンの纏う空気が切り替わり、再び教師のそれに戻る。


「竜人の精霊について、いくつか質問させてもらおうか。学術的な記録として残しておきたいこともあるのでね」



 そこからは、純粋に学問的な質疑応答が続いた。


 シュバルツとの契約時の繋がりについて。魔力の共有プロセスについて。実技試験で見せた空間魔法の原理。


 ベゼッセンの質問は的確で、知的好奇心に溢れていた。精霊召喚学の第一人者として、未知の存在に対する純粋な探究心が感じられる。


 シュバルツは、答えられる範囲で簡潔に応じた。警戒心は解かないまま、しかし必要以上に敵意を剥き出しにすることもなく。




 やがて質問が一通り終わった頃——窓の外は、すっかり夜の帳が下りていた。


「ありがとう、とても参考になりました」


 ベゼッセンが満足げに頷き、メモを閉じる。


「それでは、今日はこれで......」


 キオが安堵して踵を返そうとした、その時だった。



「キオ」


 ベゼッセンが、名を呼んだ。


 振り返ると、彼は窓際に立ち、残光の消えた夜空を背にしていた。逆光で表情はよく見えないが、その声色はひどく穏やかだった。


「......何でしょうか」


「ホリデーを、楽しんでおいで」


 その言葉は、どこまでも優しかった。

 ただの叔父としての、純粋な願いのように聞こえた。


 キオの頬が、少しだけ——ほんの少しだけ、緩む。

「......はい」


 小さく頷いて、キオは部屋を後にした。


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