間話05「ルドルフ視点_天使の教え」
精霊召喚儀式が終わってから数日後のある日の夜――。
弾かれたように、ルドルフ・ジルヴァ・ハイリヒは目を覚ました。
全身が嫌な汗で濡れている。彼は荒い呼吸を繰り返しながら、暗い天井を睨みつけた。
窓枠ごしに射し込む月明かりが、乱れたシーツの白さを冷ややかに浮かび上がらせている。まだ、夜は明けていない。
『また......あの夢を......』
ルドルフは震える指先で、脂汗の滲む額を押さえた。
夢の残滓が、まるで現実の記憶のように鮮明に脳裏へ焼き付いて離れない。
精霊召喚儀式が行われた大広間。
固唾を飲んで見守る無数の貴族、そして平民たち。その視線が注がれる召喚陣の中心に、キオ・シュバルツ・ネビウスは立っていた。
そして――光だ。
視界を白く染め上げるほどの、圧倒的な光。
その奔流の中から現れたのは、竜人の姿をした精霊だった。
濡れたような黒い鱗。天を突く黒い角。威圧的な黒い翼。
ただそこに在るだけで周囲をひれ伏させるような、絶対的な威厳。
キオがその竜人と手を取り合った瞬間、世界が震えたような気がした。そこで意識が途切れ、目が覚めたのだ。
『あれは......間違いなく......』
肌に張り付く不快なシャツを脱ぎ捨て、ルドルフは水差しの水をあおった。冷たい水が喉を通り落ちていく感覚に集中し、高鳴る鼓動を鎮めようとする。だが、脳裏にはあの光景がリフレインしていた。
神々しい姿。圧倒的な力。支配者たる威厳。
そして――あの竜人を見つめるキオ様の表情。
「素晴らしい......」
熱に浮かされたように、ルドルフはあえいだ。
「素晴らしい......あれこそが......キオ様に相応しい精霊......」
歓喜で震えが止まらない。
竜人――神の眷属とも称される最高位の精霊。それが顕現し、キオ様の傍らに立つ。これほど美しい、完成された絵画のような光景が他にあるだろうか。
しかし――。
ルドルフは自身の胸を強く握りしめた。
『この......高揚は、なんだ......』
歓喜、賞賛、畏怖。
それらの感情のさらに奥底で、黒く重い何かが蠢いている。説明のつかない焦燥。胃の腑が焼けるような熱。
夢の中で二人が手を取り合った瞬間、ルドルフの心臓は早鐘を打った。
これは崇拝だ。神聖な奇跡を目の当たりにした信徒の、あまりにも自然な反応だ。
『そうだ......これは......神への畏敬の念に他ならない』
言い聞かせるように、何度も頭を振る。
「落ち着け......落ち着くんだ......」
けれど、胸の奥で燻る残り火は消えない。
キオ様の姿がちらつく。
あの高貴な御姿。気高く、何者にも穢されるべきではない存在。
あの方が――。
「......違う!」
叫び声が、夜の静寂を切り裂いた。
「落ち着け......ルドルフ......お前は正しい信仰心を持っている。これは、ただの......」
言葉を探して、空中に手を彷徨わせる。だが、この得体の知れない感情に当てはまる言葉など、どこにも見つからない。
その時だった。
「ルドルフ様」
柔らかな声が、部屋の空気を震わせた。
ハッとして顔を上げると、窓辺に淡い光の球が浮いている。
光はゆっくりと人の形を成し――純白の翼を広げた、あまりにも美しい存在へと変わった。
大天使ルシエル。ルドルフの契約精霊だ。
ルシエルは慈悲深い微笑みを浮かべ、音もなくルドルフの元へ歩み寄る。
「また、あの夢を御覧になったのですね」
「ああ......ルシエル......」
すがるようにルドルフは頷いた。
「あの光景が......瞼に焼き付いて消えないんだ」
「当然です」
ルシエルは、さも当たり前のように肯定した。
「あれは......真に神聖な光景でしたから」
寝台の端に腰を下ろし、ルシエルはルドルフの肩に手を置く。
「キオ様があのような精霊を召喚されたこと、それはまさに奇跡。あなたが心を乱されるのは、魂が震えている証拠ですよ」
「そうだ......そうなんだ......」
肯定の言葉に、ルドルフは救われたように息を吐く。
「あれは素晴らしい光景だった......キオ様に相応しい......真に相応しい精霊が......」
だが、言葉とは裏腹に、ルドルフの表情は苦渋に歪んでいく。
「でも......僕は......」
「ルドルフ様?」
「僕は、何を......」
握りしめた胸の布が、ギリギリと悲鳴を上げる。
「キオ様のことを考えると......胸が、ざわつく......」
彼は頭を抱え込んだ。
「それは崇拝だと、信仰心だと、そう思っていた......でも」
声が微かに震える。
「平民の少年たちと笑い合うキオ様の姿を思い浮かべると......」
拳に力がこもる。
「異国の少女と親しげに話すキオ様を想像すると......」
ダンッ!!
衝動的に机を叩きつけた音が、鈍く響いた。
「許せないんだ!」
せきを切ったように、ルドルフは叫んでいた。
「キオ様は......もっと......御自分の立場を考えていただかなくては! あんな平民どもと......あんな異国の者と馴れ合うなど......!」
肩で息をしながら、虚空を睨む。
「キオ様は特別なんだ......もっと、もっと高い場所におられるべき方なんだ......!」
吐き出した言葉の熱に、ふと我に返る。
これは......本当に信仰心から来る「義憤」なのか?
それとも、自分の理想を押し付けているだけなのか――。
「ルドルフ様」
迷いを断ち切るように、ルシエルが呼んだ。
見上げれば、そこには変わらぬ穏やかな笑顔があった。
「あなたは......何も間違っていません」
「ルシエル......」
「あなたの考えは正しいのです」
諭すような、静かな響き。
「私は......あなたの考えを尊重します。あなたのその感情こそを、理解しています」
「本当に......?」
「ええ」
ルシエルは深く頷き、ルドルフの瞳を覗き込んだ。
「わかりますよ、ルドルフ様。あるべき場所に、あるべき存在がいない......その虚しさ。もどかしさ。そして......正当な怒り」
ルドルフは息を呑んだ。
『そうだ......そうなんだ......』
ルシエルの言葉が、心の奥底で絡まっていた感情の糸を、的確に解きほぐしていく。
「キオ様は特別な御方です」
ルシエルは厳かに続ける。
「シュバルツ一族の至宝。そのような御方が......地を這う平民と同じ目線で語り、笑う......それは」
一度言葉を切り、澄んだ声で断言した。
「秩序の乱れです」
「秩序の......乱れ......」
ルシエルが相槌を打つ。
「そうです」
「神が定めた美しい秩序。それを乱すことは......世界全体の調和を崩す過ちにも繋がります」
「......そうだ......」
ルドルフの瞳から、迷いの色が消えていく。
「そうなんだ......僕は......ただ秩序を守りたいだけなんだ......」
「ええ。あなたは正しいのです」
「でも......」
まだ、心のどこかが警鐘を鳴らす。
「でも......僕は......」
胸を押さえる手が震える。
「ルドルフ様」
ルシエルが、その震える手を両手で包み込んだ。人肌とは違う、陶器のような冷たさと滑らかさ。
「自分を傷つけてはいけません」
「ルシエル......」
「あなたの感情は純粋です。一点の曇りもありません」
静かな雨のような言葉が、心に染み込んでいく。
「あなたは......ただキオ様を正しい道に導きたいだけ。それは、なんて高潔な使命感なのでしょう」
「使命......感......」
「そうです。もっと......ご自分と、ご自分の正義を信じなさい」
「あなたは正しい。あなたの考えは間違っていません。あなたの感情は、誰よりも純粋です」
「そう......なのか......」
「ええ」
ルシエルの微笑みが、すべてを許していた。
「ですから......苦しまないで。自分を責めないでください」
張り詰めていた糸が切れ、ルドルフの表情が和らぐ。
『ああ......そうだ......僕は......間違っていないんだ』
『僕は......ただキオ様を......正しい道へ......』
「わかって......ます......」
震える声で、ルドルフは応えた。
「僕が......キオ様を導かなければ......」
「そうです」
「間違いは......正さねばなりません」
「本来あるべき、美しい秩序の元に......」
ルドルフは立ち上がった。
その背筋には、もう迷いはない。
「そうだ......僕は......僕がやらなければ......! キオ様を、正しい場所に......!」
彼の瞳には、狂信にも似た決意の光が宿っていた。
「ええ。それがあなたの使命です、ルドルフ様」
ルシエルは満足げに目を細める。
「私は......いつでも、あなたと共にいます」
「ありがとう......ルシエル......」
ルドルフは深く安堵の息を吐いた。
自分の怒りは不純なものではない。正義なのだ。
あの平民たちとの関係は間違いであり、それを正すことこそが、選ばれし自分の役割なのだと。
ルシエルの言葉によって、歪んだ論理は強固な信念へと塗り固められてしまった。
ルシエルは、慈愛に満ちた笑顔のままルドルフを見つめている。
その純白の翼が、月明かりの中でふわりと揺れた。
パサリ。
一枚の羽が、音もなく舞い落ちる。
床に落ちたその羽に――ほんの一瞬。
インクを垂らしたような、どす黒いシミが滲んだ。
純白の中に、決して混ざり合ってはならない闇が生まれたかのように。
しかし、そのシミは瞬きする間に消え失せる。
まるで、最初からそこには清浄な白しかなかったかのように。
ルシエルは微笑み続けていた。
「さあ、ルドルフ様。もう一度お休みになってください」
「ああ......そうだな......」
ルドルフは寝台へと戻る。
心は晴れやかだった。
『僕は、正しい』
『キオ様を、導く』
『それが......僕の使命』
安らかに目を閉じる主人を、ルシエルは静かに見下ろしていた。やがてその姿は光の粒となり、夜の闇へと溶けて消えていく。
部屋には再び、月明かりと静寂だけが残された。
――気づくことはない。
その優しい言葉の裏に潜む、甘美な毒に。
ルドルフは、ルシエルの言葉を信じて眠りについた。
自分が正義の側にいると信じて。
そして――その信念がやがて、誰よりも大切に思う人を傷つける刃になるとは、夢にも思わずに。
静かな夜が、更けていった。
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