間話04「トーマス視点_善意を纏う影」
キオたちが店を賑わせた、その翌日。
リンネル洋食屋には、午後の穏やかな時間が流れていた。窓から差し込む柔らかな陽射しが、磨かれた床に温かい光だまりを作っている。
ランチタイムの喧騒が嘘のように静まり返った店内で、店主のトーマスはカウンター周りの片付けをしていた。湿らせた布巾が、木のカウンターを滑る心地よい音だけが響く。
ディナータイムまでのこの小休止に、明日の仕込みを考えたり、新しいメニューを空想したりするのが、ささやかな楽しみだった。
その静寂を破って、カラン、とドアベルが軽やかな音を立てた。
「いらっしゃいませ」
反射的に顔を上げたトーマスの目に、一人の男性の姿が映る。仕立ての良い上着をまとった、見るからに身分の高そうな人物だった。
キオと同じような美しい黒髪。
すっと通った鼻梁に、知性を感じさせる落ち着いた眼差し。年は三十代後半といったところか。
その佇まいから、育ちの良さが滲み出ている。
『黒髪......シュバルツ一族の方か』
トーマスの胸が、とくん、と小さく鳴った。
昨日来店したキオの兄、ノックスは燃えるような赤髪だったが、あの凛々しい騎士と同じく、この男性からもただならぬ気品を感じる。昨日来たばかりのキオの親戚だろうか。
内心の動揺を悟られぬよう、彼は努めて柔らかな笑みを浮かべた。
「いらっしゃいませ。お客様、お一人様でいらっしゃいますか?」
「ええ。こちらのお店の評判は、以前からかねがね」
穏やかで、耳に心地よいテノールの声だった。
「それはありがとうございます。どうぞ、こちらのお席へ」
トーマスは男を窓際の明るい席へと案内する。椅子を引く音さえ、この空間では一つの音楽のように響いた。
「メニューでございます」
「どうも」
メニューを受け取った男は、指先まで洗練された仕草で、ゆっくりとそれに目を通し始める。
「本日のおすすめは、じっくり煮込んだビーフシチューに、旬の野菜のグリルを添えたプレートになります」
「では、それをお願いしよう。それと......食後にコーヒーを」
「かしこまりました」
注文を受け、トーマスは厨房へと戻る。仕込み済みの鍋をコンロにかけ、魔法で繊細な火加減を調整しながら、手際良く調理を進めていく。
ふと、昨日の賑わいが脳裏をよぎった。キオと彼の友人たちがテーブルを囲み、屈託なく笑い合っていた光景。あの子たちの笑顔は、この店の何よりの灯りだった。
特にキオ。七年前、あんなにも小さく、怯えた子鹿のようだったのに。今では立派に成長し、素晴らしい友人たちに囲まれている。
その事実が、トーマスには自分のことのように嬉しかった。
出来上がったシチューを純白の皿に盛り付けながら、彼の口元には自然と笑みが浮かぶ。
『あの子たちが幸せそうで、本当に良かった』
心の底から、そう思った。
「お待たせいたしました」
湯気の立つ皿をテーブルに置くと、男は「これは素晴らしい」と目を細めた。
「美味しそうですね」
一口、スプーンでシチューを口に運ぶと、男はゆっくりと頷き、感嘆のため息を漏らした。
「......素晴らしい。素材の味を見事に引き出している。魔法の使い方が実に絶妙ですね」
「お褒めいただき、光栄です」
「いえ、お世辞ではありませんよ。この味の深みは、長年の経験と、何より料理への愛情がなければ決して出せるものではない」
料理人として、これ以上に嬉しい言葉はなかった。
トーマスの頬が、照れと喜びで少しだけ熱くなる。
男は時折窓の外の街並みを眺めたり、店内の素朴な装飾に目をやったりしながら、静かに食事を楽しんでいるようだった。その穏やかな時間が、不意に彼の言葉で区切られる。
「実は」
男がカトラリーを置き、トーマスをまっすぐに見た。
「私、キオの叔父にあたる者でして...」
「えっ! あ、やはり、そうでございましたか」
思わず、トーマスの声が裏返った。
「キオ君の......叔父様でいらっしゃいましたか。昨日はお兄様のノックスさんもいらして、とても良くしていただきました」
「ええ。ノックスからも話は聞いておりますよ。ぜひ一度、お礼を兼ねてお店に伺いたいと思っていたのです」
男は穏やかに微笑む。その柔らかな物腰は、昨日の快活なノックスとはまた違う、洗練された大人の余裕を感じさせた。
「あの子から、七年前、大変お世話になったと聞いております。この場を借りて、深く感謝申し上げます。本当に、ありがとうございました」
「いえいえ!当然のことをしたまでです」
トーマスは慌てて首を横に振った。
「困っている子供がいたら、誰だって手を差し伸べますよ」
「いいえ、それができる人間はそう多くはありません」
男の目が、慈しむように優しく細められた。
「ましてや、それがシュバルツ一族の子供となれば、事情を知る者ほど躊躇するものです。ですが、あなたは分け隔てなくあの子を助けてくださった」
「当たり前です。どんな家の生まれでも、子供は子供ですから」
トーマスの実直な言葉に、男は深く頷いた。
「素晴らしいお考えだ。そして昨日も、あの子たちを温かく迎えてくださったと」
「ええ、本当に楽しい時間でした。キオ君も、お友達も、皆本当に良い子たちで」
トーマスは昨日の光景を思い出し、自然と饒舌になっていた。
「身分だとか立場だとか、そんな垣根なんて少しも感じさせないんです。ただ、友達として一緒にいるのが楽しくて仕方がない、という感じで。見ているこちらまで、幸せな気持ちになりました」
「それは、良かった」
男もまた、嬉しそうに微笑んでいる。
「キオは、本当に良い友人たちに恵まれたのですね。ルイさんも、とても聡明で心優しいお嬢さんだと聞いております」
「娘があの子の友人になれて、親としても本当に嬉しい限りです」
「きっと、あなた方の温かい育て方の賜物なのでしょう」
会話はごく自然に弾んだ。キオのこと、ルイのこと、学校での楽しそうな様子。男は終始、熱心な聞き役に徹し、時折、我がことのように嬉しそうな相槌を打った。
『ちゃんとした保護者の方がいて、キオ君も本当に幸せだな』
トーマスは、キオの境遇を心から案じてくれるこの紳士に、すっかり好感を抱いていた。
食事が終わり、香り高いコーヒーがテーブルに運ばれると、男の表情がふと、翳りを帯びた。心配と優しさが入り混じったような、複雑な色合いだった。
「実は......」
男が切り出した。
「保護者として、少しばかり悩んでいることがあるのです」
「悩み、ですか?」
「ええ。他ならぬ、キオのことでして」
男は窓の外へ視線を送り、まるで言葉を選ぶように、ゆっくりと語り始めた。
「キオはとても優しく、そして素直な子です。しかし、貴族社会の複雑なしがらみとなると、あの子のような実直な人間には少し荷が重い部分もありましてね」
男は困ったように眉を下げた。
「あの子が幸せであること、それは私やノックスも心から願っています。友人に恵まれ、楽しい学園生活を送っている。それは何物にも代えがたい、素晴らしいことです」
「はい」
「ただ......」
男はそこで一度、言葉を切った。
「我々にはどうしても、貴族という立場がつきまといます」
「立場......」
「ええ。あの子も、いつかはこの甘い時間の終わりを迎え、大人にならなければなりません」
その声には、深い憂いが滲んでいた。
「今の友人たちとの関係は、本当に宝石のように尊い。しかし、将来のことを考えると......この関係が、このまま続いていくのか。将来、キオが社会で孤立しないためにも......親しい者たちが、少しだけ道を示してやる必要があるのではないかと。これは、兄であるノックスも密かに案じていることなのです」
「ノックスさんも、ですか......」
昨日の、あの太陽のように明るく頼もしかった青年の顔が浮かぶ。彼もまた、キオの将来を思って心を痛めていたのか。
そう思うと、トーマスの胸はさらに締め付けられた。
「ええ。ですが、彼の実直な性格ゆえ、キオやご友人たちに厳しいことを言うのをためらっているようでして......。だからこそ、嫌われ役は私が引き受けようと」
男の表情が、まるで痛みでもこらえるかのように歪んだ。
「誤解なさらないでください。今の友人関係を否定するつもりは毛頭ありません。むしろ、生涯大切にしてほしいとさえ思っています」
「はい......」
「ただ......それと同時に、貴族社会での繋がりもまた、疎かにはできないのです。必要なのは、バランスなのです」
その言葉には、妙な説得力があった。
トーマスは黙って耳を傾ける。貴族の世界の複雑さなど、平民の自分には到底分かりはしない。だが、目の前の男が抱える悩みが、紛れもない本物であることは伝わってきた。
あの素晴らしい兄ですら悩んでいるのだ。事態は自分が思うより深刻なのかもしれない。
自分にもルイという娘がいる。親として、子供の将来を案じ、時に心を鬼にしてでも子の進むべき道を示す。その気持ちは痛いほどよくわかる。
「こんなお話をするのは、大変おこがましいとは承知の上で......」
男はテーブルの上で手を組み、わずかに頭を下げた。
「同じく子供の将来を思う者として、あなたにお願いがあるのです」
「お願い、でございますか」
「ええ」
男は顔を上げ、真摯な瞳でトーマスを見据えた。
「例えば、ルイ嬢がキオと過ごす時間を、ほんの少しだけ調整していただく、とか......」
その言葉に、トーマスは戸惑いを隠せなかった。
「調整、ですか」
「はい。今のままでは、キオは平民の友人たちとの時間ばかりを優先してしまうでしょう。それ自体は、決して悪いことではありません。しかし、彼には貴族としての付き合いも必要なのです」
男の声には、切実な響きが込められていた。
「全ては、将来キオが困らないために。そして......ルイさんにとっても、いずれ来る辛い思いをさせないために」
「ルイにとっても......?」
「ええ。今は身分の違いなく友人でいられても、成長するにつれ、立場の違いは残酷なまでに明確になります。その時、深く関わりすぎたがゆえに、ルイ嬢が傷つくことになるかもしれない」
その可能性を指摘され、トーマスの胸がちくりと痛んだ。
考えたくはないが、あり得ない話ではない。ルイも、いつかは現実を知るのだ。貴族と平民との間にある、見えないけれど確実な壁の存在を。
「だからこそ、今から少しずつ、互いのためにも適切な距離を保つこと。それもまた、大人の愛情ではないでしょうか」
男の言葉は、あくまで優しく、そして真剣だった。
『......キオ君のためだものな。あのノックスさんも心配されていることだ』
トーマスは、男の真摯な態度と、ノックスの名前を出されたことで、すっかり心を動かされていた。
『この方は、本当にキオ君のことを第一に考えていらっしゃる。素晴らしい保護者だ』
親として、子供の将来を憂う気持ちは、自分も痛いほど同じだ。
「......わかりました」
熟考の末、トーマスは静かに頷いた。
「キオ君のために、そして娘のためにも。私達にできることを、考えてみます」
「......!ありがとうございます」
男は、安堵したように深々と頭を下げた。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
「本当に、ありがとうございます。ご理解いただけて――」
直視したその瞳の奥が、妖しく揺らめいたように見えた。
「「心から、感謝いたします」」
その言葉が紡がれた瞬間、奇妙な現象が起きた。
男の声に、もう一つ、別の声が重なって聞こえたのだ。それは耳元で囁くような、冷たく粘り気のある響き。
そして、トーマスの視界が一瞬歪む。
目の前の紳士の姿に、まったく別の——白黒の髪の妖しく笑う男の影が重なって見えた。
「え......?」
トーマスが瞬きをした、次の瞬間。
——ガチャリ。
トーマスの魂の、その奥底で。
何かが軋むような、冷たい音がした。
まるで、重い錠前がかけられるような、鈍く、決定的な音。
だが、トーマスはその音の意味を知る由もなかった。
心の最も深い場所、意識の光さえ届かない領域で、何かが静かに変質していくことに、気づくはずもなかった。
「それでは、お会計をお願いします」
男がすっと立ち上がる。その時、ふわりと、どこからか熟したリンゴのような甘い香りが漂った気がした。
「ごちそうさまでした。美味しい料理と、大変有意義な時間を過ごせました」
「いえいえ、こちらこそ」
トーマスは、もはや何の疑いも抱かず、晴れやかな笑顔で男を送り出した。
「またのお越しを、心よりお待ちしております」
「ええ、ぜひ近いうちに」
男は優雅に一礼し、店を出ていく。
カラン。
ドアベルの音が、午後の静寂に優しく溶けていった。
一人になった店内で、トーマスは温かい気持ちのまま、後片付けを再開した。
『キオ君には、本当に良い保護者がいて良かった』
心からそう思う。あれほど真摯に子供の将来を案じているのだ。
『今度キオ君たちが来たら、今日の話をそれとなくしてやろう。大人として、言ってやるべきことがある』
それは、キオのため。
そして何より、愛する娘、ルイのためなのだから。
トーマスは、それが正しいことだと、固く、固く信じていた。
―――
日が傾き始めた、店の外。
陽の光が届かない、建物の間の路地裏の闇。
男——ベゼッセン・シュバルツ・ヴァーグナーは、そこに佇んでいた。
先ほどまでの温和な紳士の面影はどこにもない。彼の口元が、まるで月の光にでも照らされたかのように、ゆっくりと、白く歪んでいく。
その邪悪な笑みに、誰一人気づく者はいない。
トーマスの魂に深く刻まれた錠が、静かに、そして確実にその効力を発揮し始めていることを、まだ誰も知らなかった。
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