第23話「精霊を知る日(3)」
午後の授業を終え、終業を告げる鐘の音が校舎内に響き渡った。
廊下は解放感に浸る生徒たちの話し声や足音で瞬く間に賑やかになったが、キオたちはその喧騒を避けるように、いつしか馴染みの場所となりつつある校舎の屋上へと足を運んでいた。
重厚な鉄の扉を押し開けると、吹き抜ける風が前髪を揺らす。
空はすでに一面の茜色に染まり、夕暮れの柔らかな光がレンガ造りの校舎を温かな色合いで照らし出していた。昼間の熱気を冷ますように冷たくなり始めた秋の風が、訓練で火照った頬を撫でていき、心地よい涼しさを運んでくる。
「はあ......疲れた......」
キオは肩の荷物を下ろすように息を吐き出すと、屋上の隅にある木製のベンチへとなだれ込むようにへたり込んだ。背もたれに体重を預け、空を仰ぐ。
その隣には、漆黒の鱗を夕陽に輝かせながら、シュバルツがどっしりと腰を下ろした。その存在感と体温が、すぐ側にあるだけで安心感をもたらしてくれる。
「キオ君、大丈夫?」
心配そうな声と共に、ルイが顔を覗き込んできた。夕陽を受けて輝く瞳が、キオの顔色を案じるように揺れている。
「うん......大丈夫。ちょっと気疲れしちゃって」
キオは正直に答えた。肉体的な疲労よりも、ベゼッセンに向けられた視線や、彼が放つ独特の圧迫感に神経をすり減らしたことの方が大きかった。
「無理しないでね」
ルイの慈愛に満ちた優しい声音に、キオの頬が自然と緩む。
キオは力なく、けれど心からの感謝を込めて笑いかけた。
遅れて階段を上がってきたオーウェン、セドリック、カリナも屋上のスペースへと広がり、それぞれベンチや錆びついた手すりに思い思いに腰を下ろしていく。
彼らの周りにはそれぞれの精霊たちも寄り添い、主人の休息を共有していた。
「でも、今日の訓練、楽しかったね!」
カリナが夕陽に向かって両手を大きく突き上げ、気持ちよさそうに伸びをする。彼女の周囲では、メラメラちゃんたちが小さな光の粒子を撒き散らしながら追いかけっこをしていた。
「ああ、精霊との絆が深まった気がするよ。風の魔法を生み出す感覚が、以前よりも鋭くなった」
手すりに寄りかかっていたオーウェンが、傍らで羽を休めるソラリスの首元を撫でながら深く頷いた。ソラリスもまた、主人の手つきに目を細め、喉を鳴らして応えている。
「僕も、コロネともっと仲良くなれた気がします」
セドリックが膝の上のコロネを愛おしそうに撫でながら、嬉しそうに言った。コロネは「きゅう」と甘えた声を上げ、セドリックの指にすり寄っている。
みんなの明るい表情を見ていると、キオの心の奥底に沈殿していた重りが、少しずつ溶けて軽くなっていくような気がした。
「キオ君も、スバルさんと素敵な障壁を作ってたね」
ルイが先ほどの光景を思い出したように、感嘆の声を漏らした。
「あ、うん......スバルが手伝ってくれたからだよ」
キオは照れくさそうに頬を掻く。あの夜空色の障壁――シュバルツの魔力が流れ込んできた瞬間の、全能感にも似た高揚と、同時に感じたベゼッセンへの忌避感。それらが混ざり合い、複雑な余韻を残していた。
「俺とキオの魔力は、自然と共鳴する。当然のことだ」
シュバルツは短く答えると、茜色の空を見つめたまま動こうとしない。その太い尾が、パタン、パタンとリズムよく床を叩いているのは、彼なりに機嫌が良い証拠なのだろう。
「いいなあ。僕も、もっとコロネと共鳴できるように頑張ろう」
セドリックがやる気に満ちた瞳で拳を握りしめる。そのひたむきな姿に、周囲から温かな笑い声が漏れた。
しばらくの間、五人は移ろいゆく空を眺めながら、今日の出来事や授業の感想、他愛もない話に花を咲かせた。
風が運んでくる街の匂いや、遠くから聞こえる鐘の音。それらすべてが、放課後の穏やかな時間を彩っていた。
やがて、空の色が鮮やかな茜色から、一番星が瞬く深い藍色へと変わり始めた頃。
ふと思いついたように、ルイがポンと手を打った。
「そうだ、みんな。今度の休みの日、また私の家のお店に来ない?」
「リンネル洋食屋だね」
その名を聞いただけで、キオの脳裏にトーマスとアンナの笑顔と湯気を立てる美味しい料理の数々が浮かび上がり、自然と微笑みがこぼれる。
「うん。精霊たちも一緒に連れて行ったら、お父さんとお母さん、きっと喜んでくれると思うの。お店の裏庭なら、ソラリスやスバルさんもゆっくりできるし」
「それはいいわね! ルイのお父さんたちの料理、絶品だもの。みんなで食べれるのは嬉しいわ!」
カリナが期待に目を輝かせ、身を乗り出した。
「僕も行きたい! デザートもすごく美味しかったし......」
セドリックもお腹をさすりながら嬉しそうに同意する。
「うん! あと、前に伝言鳥でお父さんと話したんだけど、新作の料理を考えたから、ぜひ食べに来て欲しいって言ってたんだ。『学生さんたちが喜ぶような、ボリューム満点のやつを用意して待ってる』って」
「それはすごく嬉しいし、楽しみだね」
キオが声を弾ませると、それにつられてルイも満面の笑顔になる。美味しい食事と、気兼ねない仲間たちとの時間。それは何よりの楽しみだった。
「マーカスもトーマスさんの料理を絶賛していたからな。護衛として同行を頼めば、喜んで着いて来てくれそうだ。いや、むしろ料理の方が目的になるかもしれないな」
オーウェンが、普段は厳格な騎士であるマーカスの、料理を前にした時の崩れた表情を想像したのか、茶目っ気たっぷりに肩をすくめた。
その様子がおかしくて、みんなは顔を見合わせて声を出して笑った。屋上に、屈託のない笑い声が響き渡る。
「じゃあ、今度の休みに決定だね」
「楽しみ!」
五人は楽しそうに休日の計画を立て始めた。精霊たちもまた、主人たちの楽しそうな様子に呼応して、嬉しそうに淡い光を放ち、夕闇の屋上を幻想的に照らしている。
そこには、平和で、温かく、誰もが羨むような青春の輝きがあった。
だが。
その明るい喧騒のすぐ側――屋上へと続く出入り口の階段室。
夕闇よりもさらに濃い、光の届かない影の中に、ひっそりと佇む人影があった。
気配を完全に消し、闇に溶け込むように立っていたのは、ベゼッセン・シュバルツ・ヴァーグナー。
彼はキオたちの死角となる階段室の外壁に背中を預け、じっと立ち尽くしていた。
その長く白い指先は、胸元に飾られたサファイアのブローチを弄んでいる。冷たく硬質な宝石の感触を確かめるように、何度も、何度も、執拗に。
彼の姿は生徒たちからは見えない。だが、研ぎ澄まされた彼の聴覚は、分厚い壁の向こう側で繰り広げられる楽しげな会話、弾むような声のトーン、幸せそうな空気感を、鮮明に捉えていた。
「......楽しそうだね、キオ」
小さく、あまりにも小さく呟かれた言葉は、冷たい夜風にさらわれ、誰の耳にも届くことはない。
すぐ数メートル先では、キオたちの笑い声が続いているというのに、この場所だけが世界から切り離されたように温度を失っていた。
ベゼッセンは感情の読めない瞳で虚空を見つめたまま、ただブローチの冷たい感触を指の腹で愛で、漏れ聞こえる無邪気な声に耳を傾け続けていた。
一陣の風が吹き抜け、彼の漆黒の髪が微かに揺れる。
夕暮れの空は、すでに深い藍色に染まりきり、星々がその存在を主張し始めていた。
キオたちの明るい笑い声だけが、迫りくる夜の闇を拒むように、いつまでも屋上に響き渡っていた。
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