とある日のお話「歌声と王冠」
これは、精霊召喚の儀式から少し遡った、ある秋の日の午後のお話。
オーウェンは重い足取りで校舎の廊下を歩いていた。
午前中の授業中に感じた目眩が、まだ尾を引いている。昼食も喉を通らず、ほとんど残してしまった。
加えて、王族としての公務による疲労も蓄積しているのだろう。
『……少し休もうか』
そう思って足を止めかけた時、食堂の前から明るい声が聞こえてきた。
「音楽室ってどこにあるの?」
褐色の肌に、キャラメル色の髪。そして宝石のような抹茶色の瞳。
カリナだ。彼女が通りがかりの上級生に元気に尋ねている。
その姿を見た瞬間、オーウェンは自分でも不思議なほど自然に足を向けていた。
「カリナ」
「あ、オーウェン!」
振り向いた彼女の屈託のない笑顔。それを見ただけで、鉛のように重かった心が少しだけ浮き上がるのを感じた。
不思議だ。いつもならこの時間は、誰とも会わずに自室で休みたいと思うはずなのに。
今は、彼女と一緒にいたいと思った。
「音楽室を探しているのか?」
「うん! この学校の楽器を見てみたくて」
「それなら案内しよう。僕もちょうど、そっちの方に用があったんだ」
嘘だった。
でも、どうしてもこの時間を手放したくなくて、自然とそんな言葉が口をついて出た。
音楽室は北棟の端にある。
二人並んで廊下を歩きながら、オーウェンはカリナの横顔を盗み見た。
彼女は窓の外の景色を興味津々に眺めている。
午後の柔らかな秋の日差しが、彼女のキャラメル色の髪を透かし、褐色の肌を黄金色に輝かせていた。
『綺麗だな……』
ふと浮かんだ感想に、オーウェン自身が驚いた。
思考が熱を帯びる。熱のせいか、それとも――。
『……頭がぼーっとしているな』
オーウェンはそう自分に言い聞かせ、胸の動悸を誤魔化した。
音楽室の重い扉を開けると、そこには静寂と、窓から切り取られた燃えるような紅葉の景色があった。
カリナは部屋の中央に鎮座するグランドピアノに駆け寄る。
「わあ、大きなピアノ! 故郷にはこんな立派な楽器はなかったわ」
目をキラキラと輝かせる彼女を見て、オーウェンの頬が自然と緩む。
カリナのこういうところがいい。
何を見ても新鮮に驚き、素直に喜び、心を動かす。幼い頃から感情を押し殺すよう教育されてきた自分には、眩しすぎるほどの輝きだ。
「せっかくだから、少し一緒にいてもいいか?」
「もちろん! 一人より二人の方が楽しいもの」
カリナが花が咲くように笑う。
その言葉が、どれほど嬉しいか。
オーウェンは窓際の椅子に腰を下ろした。彼女の自由な時間を邪魔しないよう、少し距離を取って。
けれど視線だけは、どうしても彼女を追ってしまう。
「カリナの故郷には、ピアノのような楽器はあったのか?」
「うーん、基本的には吹いたり叩いたりする楽器が多かったかな。持ち運べるくらいの大きさのものがね。その方が気軽に演奏できるし、すぐに歌ったり踊ったり出来るし!」
言うが早いか、カリナはふわりとスカートを翻し、軽やかなステップを踏み始めた。
即興の歌を口ずさみながら、くるくると舞う。
その姿は、まるで異国の舞姫のようだった。
自由で、風のようで、誰にも縛られない美しさ。
「カリナは歌が本当に上手だな。この前の授業で聴いた時も、皆が驚いていた」
オーウェンが感嘆の声を漏らすと、カリナは踊りを止めて照れくさそうに笑った。
「ありがとう! でも故郷では、歌は生活の一部だったから。朝も夜も、みんなで自然に歌うのよ」
そう言って、彼女は再びピアノに向かい合った。
恐る恐る、人差し指で鍵盤を押す。
――ポーン。
「ドの音だわ。これは分かる!」
続けて、いくつかの鍵盤を適当に叩く。
調律の整ったピアノから、でたらめだが楽しげな不協和音が響く。
城での生活では、音楽とは完璧で洗練された芸術でなければならなかった。
けれど、カリナが奏でるこの自由な音には、そんな堅苦しさはない。
『楽しいから、やる』
そんな単純で純粋な理由で何かをすることが、自分にはどれだけあっただろう。
「先程の歌もそうだが……故郷では、どんな歌を歌っていたんだ?」
「色々あるわよ。朝の歌、海の歌、踊りの歌……」
故郷を思い出し、カリナの瞳が遠くを見るように潤む。
「一番好きなのは、家族の歌かな。お母さんがよく歌ってくれたの」
その横顔に、ふと寂しさが滲んだ気がした。
「聴かせてもらえるだろうか?」
オーウェンは身を乗り出した。王族としての興味ではない。ただ、彼女の声を聴きたかった。
「いいわよ! あ、でも……ちょっと大きな声を出す歌だから、迷惑にならないかな?」
カリナがキョロキョロと周囲を気にする。
「大丈夫だ。ここには僕しかいない」
できるだけ優しく、安心させるように告げると、カリナは一つ深呼吸をして――歌い始めた。
最後までお読みいただきありがとうございます。
面白い、続きが気になると思っていただけましたら、
下の☆マークから評価や、ブックマーク(お気に入り登録)をしていただけると、執筆の励みになります!
(お気軽にコメントもいただけたら嬉しいです)
よろしくお願いします。




