第22話「黒竜の眷属」
キオは一歩、また一歩と、石床の冷たい感触を確かめるように踏みしめ、召喚陣の中央へと進み出た。
広間に満ちる静寂は重く、肌にピリピリとした緊張感を運んでくる。周囲を取り囲む生徒たちの視線が、痛いほどに突き刺さる。嘲り、好奇心、あるいは哀れみ。様々な感情を含んだ無数の瞳が、ただ一点、キオの背中に注がれていた。
召喚陣の中心に立ち止まり、キオは一度、深く息を吸い込む。肺の中の澱んだ空気をすべて吐き出し、代わりに張り詰めた大気を胸いっぱいに満たしていく。
心臓の鼓動が、早鐘のように肋骨を叩いている。だが、不思議と恐怖はない。
『シュバルツ』
声には出さず、心の中で、魂の奥底に向けてその名を呼ぶ。
『ああ。やっと会えるな、キオ』
即座に脳裏に響いたのは、記憶にある通りの、温かく、そして大樹のように頼もしい声だった。
生まれたその瞬間から、片時も離れることなく魂を寄り添わせ、支え続けてくれた唯一無二の相棒。形のない声だけの存在だった彼と、ようやくまみえることができる。この瞬間を、どれほど夢に見、どれほど待ち望んだことだろう。
『派手に行くぞ。驚くなよ』
『ふふ、楽しみにしてる』
悪戯っぽく笑う相棒の気配に、キオの口元も自然と綻ぶ。
キオは静かに瞼を閉じ、外界の喧騒を遮断すると、体内の奥底で渦巻く魔力の奔流へ意識を向けた。
堰を切る。
そのイメージと共に、内なる扉を開き放つ。
瞬間、ダムが決壊したかのように溢れ出した魔力が、血管を駆け巡り、足元の刻印へと怒涛の勢いで流れていく。
石床に刻まれた幾何学模様が、ドクン、と脈打つように反応した。
――カッ!!
召喚陣が、音を立てて爆発的な光を放った。
視界を白く染めるような単純な輝きではない。それは、世界の色を塗り替えるほどの圧倒的な質量を持った光だった。
夜空色。
深く、どこまでも濃密で、すべてを吸い込みそうなほどに美しい群青の光が、キオの足元から噴き上がり、天へと突き抜けていく。
「なっ……!」
「うわっ、なんだこれ!?」
周囲で見守っていた生徒たちの、息を呑む音と驚愕の声が重なる。
光の柱は高い天井をも透過し、広間全体の景色を一瞬にして塗り替えていった。
昼間の太陽が差し込んでいたはずの明るい広間が、瞬きする間に夜の帳に包まれていく。石造りの天井は幻影のように消え失せ、そこには無限の宇宙が広がっていた。無数の星々が宝石のように瞬き、天の川のような光の帯が優美な曲線を描いて流れる。
キオの魔力と、召喚陣の向こう側から呼応するシュバルツの魔力が共鳴し、現実に「夜空」という概念そのものを創り出したのだ。
「これは……!」
「星空……!? 魔力が空間を変えたのか?」
「こんな召喚、見たことがない……」
呆然と空を見上げる生徒たちの呟きが、さざ波のように広がる。
満天の星々が見下ろす中、召喚陣の中央では、黒い光の渦が荒れ狂っていた。空間そのものが軋み、ねじれ、この世ならざるものの通り道を無理やり押し広げようとしている。
その嵐のようなエネルギーの渦の中心から、威厳ある影が静かに、しかし確かな存在感を持って滲み出し、実体を結び始めた。
翼。
最初に視界を覆ったのは、広大な、漆黒の翼だった。
バサリ、と重厚な音を立てて広げられたその皮膜は、単なる黒ではない。夜空そのものを切り取って貼り付けたかのように、翼の内で無数の星の輝きが散りばめられ、揺らめいていた。
翼が完全に開かれ、その威容を現した時、逆光の中からその主が姿を現す。
それは獣のように地に伏す姿ではなかった。
――竜人。
二本の強靭な足で大地を踏みしめ、直立するその姿。
夜の闇を溶かして固めたような、艶やかな黒の鱗が全身を覆い、その隙間から覗くのは、深淵をそのまま映し出したかのような、神秘的な紫の瞳。
額からは天を突くように鋭利な黒曜石の角が伸びている。
そして何より目を引くのは、その身に纏った衣装であった。
深い闇色と、高貴な紫紺で織りなされたローブ。縁に施された微かな魔力の紋様が、この存在が単なる力の化身ではなく、深淵な知性と強大な魔術を操る者であることを物語っていた。
背中には星を宿した巨大な翼が鎮座し、しなやかで強靭な尾が、足元の石畳を静かに、しかし確かな重量感を持って叩いた。
その存在感は、あまりにも圧倒的だった。
ただそこに立っているだけで、周囲の空気が重く沈み込むような錯覚を覚える。種族としての格、魂の密度が決定的に違う。誰もが本能的にそう理解し、喉をひきつらせ、息をすることさえ忘れて魅入っていた。
竜人は、ゆっくりとキオへと歩み寄る。
カツ、カツ、と重厚な足音が、静寂に支配された広間に響き渡る。その一挙手一投足から溢れ出る王者のような風格に、誰も声を上げることができない。
キオの目の前、手を伸ばせば届く距離で彼は立ち止まった。
自分よりも遥かに上背のあるその身体が、キオを見下ろす。紫の瞳が、射抜くようにキオを捉えた。
「俺の名はスバル。黒竜に仕えし、黒竜の眷属」
紡がれた言葉は、遠雷のように腹の底に低く響き、それでいて凪いだ海のように穏やかで、優しかった。威圧感の中に滲む、確かな親愛の情。
竜人――スバルは、紫の瞳を細め、愛おしげにキオを見つめる。
「お前の名は?」
真正面から見つめられ、キオは一瞬言葉を失った。
あまりにも立派で、美しく、高貴な姿。けれど、その瞳の奥にある色は、間違いなく彼だった。ずっと自分の中にいて、励まし続けてくれた彼そのものだった。
『シュバルツ……本当に君なんだよね?』
『ああ。やっと……やっと会えたな、キオ』
心に直接染み渡るその声に、張り詰めていた緊張が解けていく。
キオの視界が潤み、熱いものが込み上げてきそうになる。だが、今は泣くわけにはいかない。最高の相棒がこれほど堂々とした姿で現れてくれたのだ。その相棒に相応しい主として、胸を張らなければならない。
キオは震える唇をぎゅっと引き結び、涙をこらえて、まっすぐにスバルの瞳を見つめ返した。
「僕の名前は、キオ・シュバルツ・ネビウス。これからよろしく、スバル」
「ああ。お前と共に歩んでやろう」
二人が同時に手を差し出す。
キオの手と、スバルの少し大きく、硬質な皮膚に覆われた手が、固く握り合った。
互いの体温が、鼓動が、掌を通して伝わり合う。
瞬間――。
繋いだ手を中心に、黒い光が、いや、鮮烈な夜空色の光が爆発的に弾けた。
深く美しい闇の中で、無数の星が二人を祝福するように一斉に煌めく。光の奔流が渦を巻き、螺旋を描いて二人を優しく包み込んでいく。
契約の成立を告げる光。それは、この学園で行われてきたこれまでのどの召喚よりも美しく、幻想的で、荘厳だった。
やがて光が収束し、広間を覆っていた夜空の幻影も霧散していく。
あとに残ったのは、圧倒的な静寂と、確かな絆で結ばれた二人だけだった。
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