第20話「精霊召喚儀式の始まり」
ほとんど眠れなかった。
窓の外に目をやると、まだ深い藍色の空に星々が瞬いている、真夜中と早朝の境のような時間だった。空の東側だけが、ごくわずかに薄い白さを帯び始めているが、完全に夜が明けるにはまだ時間がある。
『今日だ......』
心臓がドクドクと激しく鼓動する。その振動は、緊張と、抑えきれない期待と、そして漠然とした恐怖がごちゃ混ぜになった複雑な感情が、まるで胸を強い手で鷲掴みにしているかのようだった。
『キオ』
そのとき、内側からシュバルツの声が響いた。いつもより少しだけ低く、落ち着いた、それでいて芯のある声だ。
『今日、だ。俺にまかせろ、......召喚もベゼッセンも、すべてをな』
『本音を言うと怖い......。でも、頑張るよ』
キオが震えそうになる声をなんとか押し込めると、シュバルツは静かに応えた。
『そうだ。お前は一人じゃない。そのことを忘れるな』
その力強い言葉に、キオは張り詰めていた気持ちがほんの少しだけ緩み、落ち着きを取り戻すことができた。
簡単な準備を整え、部屋を出る。シュバルツの気配は、いつも通り、すぐ傍で脈打つように存在している。その確かな存在感だけで、キオにとっては大きな安心感と心強さになった。
―――
食堂へと向かう廊下は、いつもよりずっと静かだった。人気がなく、足音が妙に響く。今日の精霊召喚儀式のために、皆が遅くまで準備や心の整理をしていたのだろう。
食堂に着くと、奥の席に、すでにルイたちが座っていた。
「おはよう、キオ君」
ルイがいつものように穏やかな笑顔で手を振ってくれる。しかし、その瞳の奥には、キオを気遣うような、微かな心配の色が滲んでいるのが見て取れた。
「おはよう」
キオが席につくと、オーウェンがまっすぐな眼差しで、力強く言い切った。
「今日だな。僕たちがそばにいる。何も心配することはない」
「でも、わくわくする!どんな精霊さんたちが来てくれるんだろうね!」
カリナは、そんな緊張感を吹き飛ばすように、いつもの明るい声で場を和ませた。
「緊張するけど......。うん、みんなで頑張ろう」
セドリックが、控えめながらも決意を込めた静かな声で言った。
キオは、自分を見つめる友人たちの顔を一人ひとり見回し、小さく、しかし力強く頷いた。
「うん......大丈夫。ありがとう」
五人で、普段よりも静かながら、簡単な朝食を済ませた。それから、いよいよ儀式が行われる召喚大広間へと向かう。
廊下には、同じく儀式へと向かう一年生たちの姿が増えていた。彼らもまた、皆、胸に期待と不安を抱え、緊張した面持ちで粛々と歩いている。キオたちの周りだけが、友人同士の会話で少しだけ和やかな空気が流れていた。
重厚な扉をくぐり、いよいよ広間へと足を踏み入れようとした、その時だった。
「おはようございます。キオ様」
背後からかけられた声に、キオは思わずびくりと体を震わせ、反射的に振り返った。
そこにいたのは、ルドルフとセレネだった。
ルドルフは、穏やかな微笑みを浮かべている。しかし、キオの体は、彼の姿を見た途端、無意識のうちに反射的に強ばった。
『この人は......』
以前、ルイやカリナ、セドリックに向けられた、友人たちを値踏みするかのような冷たい視線と、傲慢な態度が、キオの記憶に鮮明に残っている。
「......おはようございます」
キオは、内心の緊張を悟られないよう、体は強ばらせつつも、かろうじて挨拶を返した。
「おはよう。ルドルフ君、セレネ嬢」
オーウェンが、キオとは対照的に、いつもの威厳ある態度で挨拶を交わす。
ルドルフとセレネは、丁寧に頭を下げた。
「おはようございます。オーウェン様」
「おはようございます。ご機嫌麗しゅう」
ルドルフは顔を上げると、まずキオに、そしてオーウェンに、優しげな表情を向けた。
「今日は精霊召喚儀式ですね。キオ様も......そしてオーウェン様も、さぞかし緊張されていることかと拝察いたします」
ルドルフが、心から気遣うような優しい声で言う。
キオは、努めて平静を装い、短い言葉で答える。
「......そうですね」
「まぁ、初めてのことだからな。当然だろう」
オーウェンもまた、変わらぬ威厳をもって返事をした。
「しかしながら、貴方様方であれば、きっとご安心いただけるかと存じます。必ずや、素晴らしい精霊様が、キオ様のもとへ......そして、オーウェン様のもとへ、おいでくださることと拝察いたします。その瞬間を、我々ジルヴァ一族も心より楽しみにしております」
その言葉自体は、温かく、期待に満ちている。だが、キオはどうしても、ルドルフという人間の根底にある傲慢さを感じ取ってしまい、警戒心を解くことができない。
そして、「素晴らしい精霊」への期待を込めたその言葉が、無言の重圧となってキオにのしかかった。
『シュバルツ......』
『落ち着け、キオ。深呼吸だ』
シュバルツの静かな声に導かれ、キオは小さく、長く息を吸い込んだ。
「ありがとうございます」
キオが短く答えると、ルドルフは満足したように微笑んだ。
「お互いに、よき儀式となりますよう、心よりお祈り申し上げます」
「ええ」
「そうだな」
キオとオーウェンは短く挨拶を交わした。そのとき、キオがふと横に立つセレネを見ると、一瞬だけ、パチリと視線が合った。セレネは、すぐに顔を真っ赤にして、恥ずかしそうに俯いてしまう。
「それでは、また広間の中で」
ルドルフとセレネは、キオたちに背を向け、先に広間の重厚な扉を開けて入っていった。
彼らの姿が見えなくなると、オーウェンがキオに顔を近づけ、小声で問いかけた。
「キオ、大丈夫か? 少し顔が強ばっていたぞ」
「......うん。大丈夫」
キオは、胸の奥にまだ残る緊張を押し込めるように頷いた。
「行こう」
ルイが優しく声をかけ、キオの手を軽く引いた。その温もりが、キオの緊張を再び少し和らげる。
五人は顔を見合わせ、そして意を決したように、きしむような音を立てる重厚な扉をくぐり、いよいよ精霊召喚大広間へと足を踏み入れた。
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