第17話「心の濁流(2)」
午後2時。一年生全員が招集された第2実技場は、独特の緊張感に包まれていた。
高い天井に、広々とした石造りの床。そこへ集まった生徒たちのざわめきが、期待と不安を含んで反響している。
壇上には、対照的な二人の教師の姿があった。
「皆さん、こんにちは。遅れずに集まってくれて何よりです」
よく通る、落ち着いた声が場を制する。シュトゥルム先生だ。彼は穏やかな表情で生徒たちを見渡した。
「精霊召喚儀式まで、あと数日。今日は皆さんの魔力を整え、万全の状態で儀式に臨むための調整を行います」
そして、隣に控える巌のような男を紹介する。
「隣にいるのは、皆さんもよくご存知のアイゼン先生です。万が一の魔力暴走に備え、防衛魔法のスペシャリストとして立ち会っていただきます」
紹介を受け、アイゼン先生が一歩前に出た。
制服が張り裂けんばかりに鍛え上げられた分厚い胸板と、丸太のような腕。歴戦の戦士のような覇気を纏っている。
「お前たち! 精霊召喚は神聖な儀式だが、魔力の暴走は命に関わる! 俺がいるからには安全は保証してやるが、気を抜くなよ! 心してかかれ!」
実技場にビリビリと響く豪快な怒鳴り声。けれどその言葉には、生徒を守るという確固たる意志が滲んでいた。生徒たちの肩から、ふっと余計な力が抜ける。
「それでは、魔力調整の実習を始めましょう」
シュトゥルム先生が手際よく指示を出し、小さな鉱石が生徒たちに配られていく。
「これは『灯石』。魔力に反応して発光する石です。強すぎず、弱すぎず、一定の出力で魔力を流し続ける練習に使います」
キオの手のひらにも、その小さな石が載せられた。ひんやりとした感触が伝わってくる。
「それでは、始めてください」
合図と共に、周囲でぽつ、ぽつと光が灯り始めた。柔らかい光、鋭い光、生徒それぞれの魔力の色が実技場を彩っていく。
キオも石を握り込み、意識を集中させた。
魔力を流す。ただそれだけの、普段なら呼吸をするようにできるはずの行為。
——なのに、今日は何かが違った。
魔力を練ろうとした瞬間、脳裏にどす黒い影が差す。
ベゼッセンの顔。歪んだ笑み。背筋が凍るような、あの時の恐怖が蘇る。
指先が震え始めた。
呼応するように、手の中の灯石が不規則に明滅する。チカチカと不安定な光が、キオの動悸と重なった。
『キオ、落ち着け! 魔力が乱れているぞ!』
シュバルツの声が頭に響く。
『私は......大丈夫、だ......』
必死にそう言い聞かせる。けれど、心臓の早鐘は止まらない。
「ネビウス君、少し力が入りすぎですね。もう少しリラックスして」
シュトゥルム先生が近づき、優しく声をかけてくれた。
わかっている。力を抜かなきゃいけない。でも、意識すればするほど、耳の奥であの声が再生される。
『キオ、こっちにおいで......』
『だめだ......来ないで......!』
額から冷たい汗が流れ落ちる。視界が狭まっていく。
「ネビウス?」
今度はアイゼン先生の怪訝そうな声。
「大丈夫、です......」
乾いた唇を噛み締め、キオは石を握り直した。
その時だった。
ふっ、と視界の端に何かが映った気がした。
ベゼッセンの手が、ぬらりと自分へ伸びてくる光景。
あの時の絶望的な恐怖が、奔流となって理性を飲み込んだ。
『やめて......ッ!』
心の叫びが、制御不能な魔力となって溢れ出す。
——パリンッ!!
鋭い破裂音が実技場を切り裂いた。
魔力の許容量を超えた灯石が弾け飛び、鋭利な破片となって四散する。
「危ない!」
誰よりも早く反応したのはアイゼン先生だった。
一瞬で展開された赤茶色の光の壁——防衛魔法が、生徒たちを飛礫から遮断する。パラパラと乾いた音を立てて、破片が光の壁に弾かれた。
シン、と実技場が静まり返る。
全員の視線が、一点に集中した。
キオは顔面蒼白で、自分の手を見つめていた。ジンジンと痺れる指先が、小刻みに震えている。
「ネビウス君!」
駆け寄ってきたシュトゥルム先生が、キオの手を取って確認する。
「あ......す、すみません......」
喉が詰まり、まともな声が出ない。
「怪我はありませんか?」
「はい......でも、すみません......」
「謝る必要はありません。ですが......もう少し集中が必要です。魔力暴走は、一歩間違えれば大事故になりますよ」
穏やかな叱責。それに続いて、アイゼン先生の太い声が落ちてきた。
「ネビウス、顔色が悪いぞ! 万全でない状態で魔法を使うのは危険だ。自分の状態を把握し、引くことも覚えろ。今は休め!」
厳しいが、身を案じる言葉に、キオは身を縮こまらせた。
「いえ、大丈夫で......」
「いや、今のままでは身にならん! 一度保健室で頭を冷やしてこい!」
反論の余地はなかった。今の自分には、魔力を制御する自信なんて欠片も残っていない。
「先生、私が付き添います」
凛とした声が上がり、ルイが手を挙げていた。
「......そうですね。リンネルさん、お願いします」
「はい」
ルイに促され、キオはふらつく足取りで出口へと向かう。
背中に、クラスメイトたちの視線を感じた。
『キオ、無理をするな』
シュバルツの沈痛な声。
すれ違いざま、オーウェンが何も言わずにポンと肩を叩いてくれた。
カリナとセドリックも、不安そうに眉を寄せてこちらを見つめている。
「あとでな」
「無理しちゃダメだよ」
「ゆっくり休んで」
みんなの優しさが、今は逆に胸に刺さった。
―――
重厚な扉を閉めると、廊下は嘘のように静かだった。
窓から差し込む午後の日差しが、やけに眩しい。
ルイと二人、並んで歩く。
足音だけが響く沈黙の後、ルイが気遣わしげに口を開いた。
「キオ君......大丈夫?」
「ごめん、ルイ。練習の邪魔しちゃって」
「謝らないで。私、キオ君のことが心配なの」
ルイの真剣な瞳を直視できず、キオは俯いた。
保健室に辿り着いたが、室内はもぬけの殻だった。あいにく先生は不在らしい。
「ちょっと待ってて。隣の準備室を見てくるね」
「あ、いいよ悪いから......」
「ううん、すぐ戻るから。キオ君は座ってて」
ルイは背中を押すように微笑むと、パタパタと駆けていった。
一人残されたキオは、パイプ椅子ではなく、白いシーツの掛かったベッドの縁に腰を下ろした。消毒液の匂いが鼻をつく。
『シュバルツ......』
『ああ、キオ』
『僕、また失敗した......みんなに迷惑かけて、危険な目に遭わせて......』
『お前のせいじゃない。あれは事故だ』
シュバルツの声は優しい。けれど、キオの自己嫌悪は深まるばかりだった。
しばらくして、ルイが戻ってきた。少し息が弾んでいる。
「準備室に書き置きがあったよ。先生、別の実習場で怪我をした子がいて、そっちに行ってるんだって。処置が終わったらすぐ来てくれるって」
「そっか......。ありがとう、ルイ」
ルイは近くの丸椅子を引き寄せ、キオの隣にちょこんと座った。
「キオ君......本当に、どうしたの?」
覗き込むような優しい問いかけ。それに触れた瞬間、張り詰めていた糸が切れそうになった。
「ごめん......」
「だから、謝らないでってば」
ルイが困ったように首を横に振る。
「私、キオ君の友達だもん。友達が辛そうにしてたら、放っておけないよ。何か......抱えてること、あるんでしょ?」
その言葉に、視界が滲んだ。
誰にも言えないと思っていた。でも、どうしたらいいかわからなかった。
「ルイ......」
「話したくなるまで待つよ。......あ、そうだ」
ルイは場の空気を変えるように、ふんわりと笑った。
「昔ね、お母さんが教えてくれたの。『苦しくて辛い時は、楽しかったことや美味しいもののことを考えるといいわよ』って」
「楽しかったこと......?」
「うん。何でもいいの」
ルイは指折り数えながら、楽しそうに話し始めた。
「例えば、この間作ったポトフが最高に上手くできたなー、とか。初めて入ったお店で店員さんにオススメされたブイヨンがすごく良い味だしてたなー、とか」
「それから......滅多に手に入らない珍しい果物をカリナからお裾分けしてもらって、それがほっぺたが落ちるくらい甘くて、幸せだったなー、とか」
他愛のない、けれど温かい日常の話。
それを聞いているうちに、キオの強張っていた肩の力が少しずつ抜けていく。冷え切っていた心に、小さな灯火がともるような感覚。
「ふふ......」
不意に、小さな笑みがこぼれた。
「あ、よかった。キオ君、やっと笑ってくれた」
ルイが心底安心したように目を細める。
「ありがとう、ルイ。......少し、落ち着いたよ」
キオは深く、ゆっくりと息を吸い込んだ。肺の中の淀んだ空気が入れ替わっていく。
そして、意を決して顔を上げた。
「ルイ......みんなに、聞いて欲しいことがあるんだ」
「みんなに?」
「うん。この苦しい気持ち......もう一人で抱えきれなくて。辛いんだ」
キオの瞳に宿った決意の色を見て、ルイも真剣な表情で頷いた。
「うん。みんな、きっと聞いてくれるよ。だって、みんなキオ君のこと、大切に思ってるもん」
「本当に?」
「もちろん。だから、大丈夫」
ルイの春の日差しのような笑顔が、踏み出せずにいたキオの背中を、優しく押してくれた。
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