第17話「心の濁流」
――暗闇の中、キオは走っていた。
足元はおろか、自分の手先さえ見えない。ただ、背後から迫るナニカから逃げなければという本能だけが、強張る体を突き動かしている。
粘りつくような闇の向こうから、声がした。
『キオ、待ちなさい』
優しく、甘い声。けれど、その温もりこそが何よりも恐ろしい。
『おじさんのそばにいなさい。君を守ってあげるから』
ぬう、と闇から手が伸びてくる。掴まれたら、もう二度とこちらの世界には戻れない。
『キオ……』
ベゼッセンの指先が、キオの肩に触れた――。
「っは……!」
弾かれたように、キオは上半身を起こした。
荒い呼吸と共に、心臓が早鐘を打っている。額を伝う冷や汗が、ひどく不快だった。
「……夢、か……」
震えが止まらない手で顔を覆う。
窓の外は、夜と朝の境界線のような深い藍色に沈んでいる。時計の針は、まだ朝の五時を回ったばかりだった。
『キオ』
乱れた心音に重なるように、シュバルツの声が響く。
『また、あの夢か』
『うん……』
あの日、図書館でシルヴィア先生から告げられた名前――ベゼッセン・シュバルツ・ヴァーグナー。
精霊召喚儀式の主任指導者として、この学園にやってくるという男。
その事実を知った夜から、悪夢は執拗にキオを苛んでいた。まともに眠れない夜が続き、今日もまた、鉛のような疲労感と共に一日が始まってしまった。
『落ち着け。俺がいる』
『ありがとう、シュバルツ……』
キオは深く息を吐き出し、強引に肺の中の空気を入れ替えた。もう、眠気は消え去っている。
ベッドから降りて窓辺に立つと、東の空が白み始めていた。美しい朝焼けの予兆さえ、今のキオには不安を煽る色にしか見えない。
『あの頃とは違う。今のキオには友人たちがいるだろう』
『……分かってる。でも……怖いんだ』
―――
教室の扉を開けると、朝の気配を含んだ喧騒が流れ出してきた。
いつもならすぐにルイたちの輪に加わるのだが、今日のキオは足取りが重い。
「キオ! おっはよー!」
カリナの突き抜けるような明るい声が飛んでくる。
「おはよう、カリナ」
キオは口角を持ち上げて笑ってみせた。だが、その笑顔が張り付いたような不自然なものであることに、ルイたちはすぐに気づいたらしい。
「キオ君、大丈夫? 顔色が少し……」
ルイが眉を下げてキオの顔を覗き込む。
「うん、平気だよ。ちょっと寝不足なだけ」
誤魔化すような言葉に、オーウェンが無言でキオの肩を叩いた。その手のひらの温かさに、キオは少しだけ息をつく。
「無理するなよ」
「ありがとう」
席に着くとほぼ同時に、予鈴が鳴った。担任のシュトゥルム先生が、いつもの足取りで教室に入ってくる。
「おはようございます。席について」
短い号令と共に、教室の空気が引き締まる。先生は手元のスケジュール表に目を落としながら、淡々と告げた。
「さて、今日の予定の確認です。午後からは予定表通り、第二実技場で精霊召喚に向けた魔力調整の特別授業を行います。準備を忘れないように」
その言葉に、クラス中が期待に満ちた空気に包まれた。
「やっと今日からだね!」
「うん、精霊召喚までに出来るようにしないとね」
あちこちから弾んだ声が上がる中、キオだけが一人、ぼんやりと先生を見つめていた。
「あ……今日だったっけ……」
小さく呟き、一つため息をつく。
周囲の喧騒が、まるで水の中にいるように遠く感じる。
『キオ、予定表を見ていなかったのか?』
呆れたようなシュバルツの声が響く。
『……完全に抜けてた。今週、ずっとベゼッセンのことばかり考えてたから……』
日付の感覚さえ曖昧になっていたらしい。
魔力調整自体に不安はないが、こうも基本的なことが頭から抜け落ちている自分の状態が、ひどく情けなかった。
『大丈夫か? 寝不足で頭が回っていないようだな』
『……みたいだね』
キオは重たい瞼をこすり、なんとか意識を覚醒させようと試みた。
その後の午前中の授業は、キオにとって睡魔と倦怠感との戦いだった。
先生の説明は右から左へと抜け落ち、ノートの白いページだけが増えていく。頭の芯が痺れたように重い。
「……キオ?」
隣の席から、オーウェンが低く声をかけた。
「はっ……ご、ごめん」
「大丈夫か? さっきからペン、動いてないぞ」
「う、うん……ちょっとぼーっとしてて」
力なく返すと、オーウェンは心配そうに眉を寄せたが、それ以上は何も言わなかった。
―――
昼休み。五人はいつものように中庭のベンチに集まっていた。
柔らかな陽光が降り注いでいるが、キオの頭はまだ霧がかかったままだ。
「いよいよ午後から練習ね!」
サンドイッチを頬張りながら、カリナが無邪気に足を弾ませる。
「うん......精霊召喚に向けて、頑張らないと!」
セドリックも真剣な眼差しで頷いた。誰もが、自身の成長と未来に目を向けている。
「キオ君は……?」
ルイが遠慮がちに尋ねてきた。
「あ……うん、僕も……楽しみだよ」
キオは曖昧に相槌を打った。
授業そのものは問題ない。ただ、そこに来る「講師」の存在が、重くのしかかっている。
『キオ……』
シュバルツの気遣わしげな声がする。
『大丈夫……なんとかするから』
自分に言い聞かせるように呟くが、その声にはいつもの覇気がなかった。
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