第16話「精霊召喚と迫り来る影(3)」
心温まる対話の余韻に浸っていた、その時だった。
「あら、キオ君」
柔らかな声がして、キオは顔を上げた。
そこに立っていたのは、水色の髪を三つ編みにして前にたらした、メガネをかけた女性。タレ目の優しい表情が、まるで聖母のような雰囲気を漂わせている。
図書館の司書、シルヴィア・ブラウ・リンデン先生だ。
「こんにちは、シルヴィア先生」
「こんにちは。今日もお勉強熱心ね」
シルヴィア先生は、にこやかに微笑みながらキオの席の横に立った。
「精霊召喚のことを調べてるのかしら?」
「はい。今日、シュトゥルム先生から告知があって」
「そうなのね。ふふ、楽しみでしょう?」
先生の目がきらきらと輝いている。精霊召喚儀式のことを話す時、先生自身もわくわくしているようだった。
「ええ、とても」
「ふふふ、みんな緊張するものよ。でも大丈夫。素敵な精霊さんがきっと来てくれるわ」
シルヴィア先生は本を抱えたまま、嬉しそうに話を続ける。
「そういえば、儀式で召喚魔法を指導してくれるのは、あなたと同じシュバルツ一族の方達よ。知らないかしら?」
「うーん......僕はあまり同じ一族の人達と接点がなかったんです。だからよく知らなくって......」
「あら、そうなの?」
キオは苦笑した。
シュバルツ一族にも他のロート一族やゲルプ一族のように様々な家があり、ネビウス家はその本家にあたる。けれど、昔いろいろあったせいで、自分自身はあまり他の家の人達とは会ったことがなかった。基本的には長兄のセクや次兄のノックスが接点を持っていたくらいで、自分や下の双子達はからっきしだった。
そんなキオを見て、困った顔をしていたシルヴィアだったが、ぱっと顔を明るくして口を開いた。
「あ、でもでも。主任の方はきっとあなたも知ってる人よ!」
「え......主任ですか?」
「ええ、そうよ。確か......お名前は......」
シルヴィア先生が思い出すように少し首を傾げる。
その瞬間、キオの胸に、理由のわからない冷たい予感が走った。
「ベゼッセン・シュバルツ・ヴァーグナーだったかしら? あなたの叔父さんよね?」
――世界が、凍りついた。
その名前を聞いた瞬間、一気に自分の体の熱が失われるのを感じた。
耳の奥で、心臓の音だけが異様に大きく響いている。
「よかったじゃない、叔父さんが来てくれるなら、キオ君も安心して儀式に参加できるわね」
シルヴィア先生は嬉しそうに笑っていた。キオの顔色の変化に、まるで気づいていない。
「はい......あ......りがとうございます」
ただその言葉を喉から絞り出すだけで精一杯だった。
「あら、キオ君? 顔色が少し......」
シルヴィア先生が心配そうに顔を覗き込む。
「あ、いえ、大丈夫です。ちょっと......緊張しただけで」
キオは必死に笑顔を作った。
「そう? じゃあ、お勉強もほどほどにね」
「はい......」
シルヴィア先生はそのまま図書館を出て行った。
扉が閉まる音がした瞬間、キオはその場で崩れ落ちた。
「ベゼッセン......」
その名前を口にするだけで、震えが止まらない。
『まさか、あの人が』
はあ、はあ、と自分の口から荒い息が漏れる。
『あの人が指導者に来るなんて、嘘だ』
こんなにもここは寒かっただろうか。
『なぜ? どうして? 嫌だ。どうしよう。なんで』
心臓が自分のものではないかのように激しくのたうち回る。
まぶたの裏に焼き付いてしまった、あの頃のことが思い出される。
手が震える。本を持っていることすらできなくなって、机の上に置いた。
寒いはずなのに汗が止まらない。背中に嫌な汗が流れていく。
喉からせりあがってきそうなものを、なんとか押しとどめるので精一杯だった。
図書館の静寂が、かえって自分の荒い呼吸を際立たせる。
深呼吸しようとした。でも、うまくできない。胸が締め付けられるようで、空気が入ってこない。
『キオ!』
シュバルツの声が心の中で響く。温かく、力強い声だった。
『キオ! 聞こえるか!』
『シュ......バルツ......』
『大丈夫だ。俺がいる。キオ、俺の声に集中しろ』
シュバルツが何度も、何度もキオの名前を呼ぶ。
『キオ。キオ。俺はここにいる。お前は一人じゃない』
その声に、少しずつ意識が戻ってくる。
『息を吸え。ゆっくりでいい。俺に合わせろ』
シュバルツの導きに従って、キオはゆっくりと息を吸い込んだ。胸が苦しい。でも、シュバルツの声がある。
『そうだ。吐いて......また吸って......いいぞ、キオ』
何度か呼吸を繰り返すうちに、少しずつ震えが収まっていく。
『......シュバルツ......』
『大丈夫だ。俺がいる』
キオは図書館の椅子に座り直し、がっくりとうなだれた。
『でも......怖いよ......』
『わかっている。あの頃のことは、忘れられるものじゃない』
『なんで、あの人が......』
キオの声は、心の中でさえ震えていた。
『......キオ。聞いてくれ』
シュバルツの声が、静かに、けれど力強く響いた。
『あの頃とは違う。お前にはもう、友人たちがいる。そして......俺がいる』
『......』
『精霊召喚儀式で俺が顕現すれば、もう声だけの存在じゃない。お前のすぐそばで、お前を守ることができる』
その言葉に、キオの心に小さな光が灯った。
『七年前、俺は何もできなかった。お前が苦しんでいるのに、声をかけることしかできなかった。あの時の悔しさは、今でも俺の中にある』
『シュバルツ......』
『だから、今度こそ守る。絶対にだ。何があっても、お前を守ってみせる』
シュバルツの声には、揺るぎない決意が込められていた。
キオは深く息を吐いた。まだ体は震えている。でも、さっきよりはずっとましだ。
『......ありがとう、シュバルツ』
『礼はいらない。俺たちは......ずっと一緒だ』
窓の外では、すでに夕暮れが迫っていた。図書館の中に、橙色の光が静かに差し込んでいる。
精霊召喚への期待と、七年前の恐怖。
二つの感情が複雑に絡み合いながら、キオの心を揺さぶっていた。
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