間話02「ベゼッセン視点_歪んだ慈愛」【第一章 完】
とある一室、ベゼッセン・シュバルツ・ヴァーグナーは窓の外に広がる夜の帳を見つめていた。その闇は、彼の心を覆う静寂のようだった。
机の上には、今日の講義で使った資料が整然と積まれている。専門家として、指導者として、完璧にこなした一日だった。
しかし、心は落ち着かない。
胸元のサファイアのブローチに、無意識に手が伸びる。一見普通の装飾品だが、実はロケットペンダントになっており、中には大切な写真が収められている。
開けることはしない。開けてしまえば、また、あの感情に飲み込まれてしまうから。
「おやおや、どうされましたか?ベゼッセン様」
不意に、部屋の隅の闇が蠢いた。
月光を思わせる、冷たいガラス細工のような美貌が闇の中から現れる。白磁のように滑らかな肌と対照的に、闇夜のような黒と虚無のような白が混ざった髪が、照明を吸い込む。
その身を包むのは、機能的でありながら、流れるような優雅さを纏った漆黒の衣。
「......何の用だ。パラッツォ」
ベゼッセンは表情を変えずに問いかける。
パラッツォ。
ベゼッセンと契約を結んだ上級悪魔。
この悪魔との関係は複雑だ。必要だから契約を結んでいるが、心から信頼しているわけではない。いや、こいつを信用することはないだろう。
「ふふ、冷たいですねぇ。久しぶりにお顔を拝見しようと思いまして」
パラッツォは芝居がかった仕草で肩をすくめた。
「それに......報告もございます。あなたが気にかけているあの子のことですよ」
その言葉に、ベゼッセンの視線が鋭くなる。
「キオのことか」
「ええ。学園での様子を観察してまいりました。ふふふ、なかなか興味深い光景でしたよ」
パラッツォは愉快そうに笑いながら、椅子の背もたれに寄りかかった。
「報告しろ」
ベゼッセンの声には、抑えきれない焦燥が滲む。
「おやおや、随分と......お急ぎですねぇ」
パラッツォは意地悪く間を置いてから、ゆっくりと語り始めた。
「あの子は......元気に学園生活を送っていますよ。友人たちと仲良く過ごし、勉強にも熱心で。ああ、なんとも微笑ましい......いえ、『順調な』学園生活ですねぇ」
ベゼッセンは小さく息をついた。
キオが元気に過ごしている。それは喜ばしいことだ。
7年前の悲劇、あの子は両親を目の前で亡くした。
しかし、この7年であの子はその苦しみを乗越え、学園へと入学することが出来た。
報告書を見れば、キオが学園生活を楽しんでいることがわかる。安堵と、喜びと、そして......友人たちへの深い信頼。
ただ、そんな純粋な気持ちを、自分には向けてくれない。
「......友人、と言ったな」
「ええ。それはもう、賑やかな交友関係ですよ」
パラッツォは楽しそうに続ける。
「平民の娘、異国から来た娘、平民の少年、そして王族の少年......ふふ、なんとも多様な......いえ、『雑多な』友人関係ですねぇ」
ベゼッセンの眉がわずかに動く。
「平民......?」
「ええ。ルイ・リンネルという娘です。料理が得意な、控えめだが芯の強い子ですねぇ。7年前、キオ君が行方不明になった時に彼を見つけたという......覚えていらっしゃいますか? ああ、覚えてないかもしれませんね。 あの頃のあなたは荒れてましたから」
あの頃のことは、鮮明に覚えている。
忌まわしき光景に自身の晒した醜態も、全て覚えている。
7年前、両親が亡くなった為、キオと末の双子たちをヴァーグナー家で面倒を見ていた。そんなある日、キオはヴァーグナー家を飛び出した。
その理由を、ベゼッセンは今も問えないでいる。
だが、そんなキオを次兄のノックスが必死の捜索の末に見つけ出した。
キオが保護されていたのは「リンネル」という洋食屋で、その情報はノックスから聞いたものだ。その店の娘は、たしかルイという名前だった。
「......ああ、あの娘か」
「そして、カリナ・マージェンという異国の娘。明るく純真で、既に故郷の精霊と契約している特殊な子です。セドリック・モイヤーという平民の少年は、努力家で知識欲旺盛。オーウェン・ゴルト・リンドールという王族の少年は、体調に難がありますが、友情を重んじる誠実な子ですねぇ」
パラッツォは一人一人の名前を挙げ、その特徴を語る。
「ああ!最近はゲルプ一族の少年少女とも仲良くなったみたいですよー。ふふ、キオ君は本当に......誰にでも優しいのですねぇ。平民だろうと、異国の者だろうと、分け隔てなく接している。ああ、なんとも......」
「彼女にそっくりだな」
ベゼッセンは静かに呟いた。
パラッツォが一瞬、動きを止める。
「......彼女、ですか」
「ああ」
ベゼッセンの声には、複雑な感情が滲んでいた。
嬉しさと、悲しさと、そして......言葉にできない何か。
「ふふふ......確かに」
パラッツォは意味深に笑う。
「だからこそ......心配だ」
ベゼッセンは窓の外を見つめたまま、続けた。
「あまりに優しすぎる。誰にでも心を開いてしまう。それは......危険だ」
「危険、ですか?」
「ああ。この世界は、そこまで優しくない。善意だけでは、身を守れない」
ベゼッセンの声には、確信が込められている。
「キオには......もっと貴族たちとの交流を深めてほしいのだが」
「ほう......」
「身分にふさわしい相手と付き合い、将来のことを考えるべきだ。平民や異国の者と親しくすることは......」
そこまで言って、ベゼッセンは言葉を止めた。
いや。
違う。
本当は、そんなことはどうでもいい。
キオが誰と付き合おうと、それ自体は問題ではない。
ただ......
「......いや、交流など必要最低限でいい」
ベゼッセンは独り言のように呟いた。
「キオにとって余計なものは、必要ない」
パラッツォが興味深そうに首を傾げる。
「おやおや......先ほどと言っていることが違いますねぇ」
「......」
ベゼッセンは答えない。
自分でもわかっている。矛盾していることは。
だが、どうしても整理できない。
キオには、幸せになってほしい。
だが、それは......
「身分にふさわしい相手と結ばれ......」
ベゼッセンは静かに続ける。
「そして、私と共に幸せに暮らす。それが、キオにとっての幸せだ」
「ふふふ......それが家族、ですか」
パラッツォの声には、微かな嘲りが混じっている。
「ああ、そうだ。家族だ」
ベゼッセンは力強く頷いた。
「キオには、兄妹もいる。セク、ノックス、ルーア、ネロ......みな、大切な家族だ」
両親の特徴をそれぞれ継承した、キオの兄妹達を思い浮かべる。
「キオはきっと、家族のことが大好きだ。だから、兄妹たちと一緒にいることを望むだろう」
「ふふ、もちろんですとも。同じシュバルツ一族ですからねぇ」
「そうだ。私たちは同じシュバルツ一族なんだ。」
ベゼッセンは頷く。
「だから......キオには、家族と共に幸せに暮らしてほしい」
それは、正しい願いのはずだ。
家族を大切にすることは、間違っていない。
だが......
「ただ」
ベゼッセンの声が、わずかに低くなる。
「キオのことを一番に考えている家族は、私だ」
「......」
「誰よりも、私が、キオのことを想っている」
その言葉には、確信と、そして......何か、歪んだものが混じっていた。
「だから......キオにも、それをわかってもらわなければならない」
パラッツォは黙って、ベゼッセンを見つめている。
その目には、愉快そうな光が宿っていた。
「ああ、そうだ......」
ベゼッセンは呟き続ける。
「私だけが、キオを本当に理解している」
「私だけが、キオを守ることができる」
「私だけが......」
その時、パラッツォが口を挟んだ。
「そうそう、もう一つ報告がございました」
「......何だ」
「ジルヴァ一族の者が、キオ君に接触したようですよ」
ベゼッセンの表情が、わずかに変わる。
「ジルヴァ......?」
「ええ。ルドルフ・ジルヴァ・ハイリヒという少年です。キオ君に、平民や異国の者と親しくするのはいかがなものか、と忠告したようですねぇ」
「......」
「ふふ、興味深いですねぇ。あなたと同じことを考える者がいるとは」
ベゼッセンは眉をひそめた。
「私とは違う」
「おや?」
「私は......キオのことを思って......」
そこまで言って、ベゼッセンは言葉に詰まった。
何を思っているのか。
何を望んでいるのか。
言葉にしようとすると、すり抜けていく。
「......」
ベゼッセンは黙り込んだ。
パラッツォは満足そうに微笑む。
「それにしても......キオ君は、本当に愛されていますねぇ」
「......何が言いたい」
「いえいえ。ただ、友人たちにも、ジルヴァ一族にも、そしてあなたにも......こんなに多くの人に想われているなんて、幸せな子ですねぇ、と」
パラッツォは楽しそうに笑う。
「ふふふ......さて、私はこれで失礼いたします。また、何かございましたら報告に参りますねぇ」
そう言って、パラッツォは闇の中に溶けるように消えていった。
―――
静寂が戻った部屋で、ベゼッセンは再び窓の外を見つめた。
キオは、元気に学園生活を送っている。
友人たちに囲まれ、笑顔で過ごしている。
それは......喜ばしいことだ。
喜ばしいはずだ。
だが。
「......」
胸の奥に、言葉にできない何かが渦巻いている。
嬉しさと、悲しさと、そして......
キオが、自分以外の誰かと笑っている。
自分以外の誰かに、心を開いている。
それが......
「......」
ベゼッセンは胸元のサファイアのブローチに、そっと手を当てた。
「......キオ」
小さく、名前を呟く。
夜空色の髪。紫の瞳。
彼女と同じ顔。彼女と同じ瞳。
「......わからない」
ベゼッセンは小さく呟いた。
自分の気持ちが、わからない。
キオの幸せとは何か。
彼にどうなってほしいのか。
ただ一つ、確かなことは......
「私だけが、キオを守れる」
その言葉だけが、確信として胸にある。
他の誰でもない。
私だけが。
―――
深夜の闇の中、ベゼッセンは一人、窓の外を見つめ続けた。
学園の方角を、じっと。
そこにいるはずの、夜空色の髪を持つ少年を思いながら。
歪んだ慈愛が、静かに、しかし確実に、ベゼッセンの心を蝕んでいく。
それが正しいことなのか、間違っていることなのか、ベゼッセン自身にも、もうわからなかった。
ただ、キオのことを思う。
それだけが、真実だった。
月明かりが、ベゼッセンの顔を冷たく照らしていた。
第一章 完
次話より第二章『絆と葛藤の深化』開始です
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