第13話「使命と望みとスパイスを(2)」
「僕も同じだよ、フォルケ君」
キオが、夜の静けさにも似た、深く優しい声で微笑む。
「シュバルツの名前が重いのは、僕もよく分かる。周りから期待されること、常に注目されること......それが、どれだけ息苦しくて、プレッシャーになるか」
エルヴィンが、驚いたように顔を上げた。
「でも、フォルケ君は、僕に正直に話してくれた。それがどれだけ勇気がいることか、僕には分かる。それだけで......もう十分だよ」
キオは、心からの、何の曇りもない笑顔を向けた。
「これからは、ただの友達として話そう。家のことも、身分のことも、全部忘れて」
その言葉が、エルヴィンの心の最後の砦を壊した。彼の目から、堰を切ったように、大粒の涙がこぼれ落ちた。それは、隠しようもなく頬を伝い、彼の膝の上に落ちた。
「ネビウス様......っ」
嗚咽が漏れる。彼は慌てて制服の袖で乱暴に涙を拭った。
「あのね、フォルケ君」
キオはそんな彼を見て、少し照れくさそうに、わざと明るい声で続けた。
「フォルケ君じゃなくて、エルヴィン君って呼んでいい?」
「え......?」
エルヴィンが、涙で濡れた顔を上げて、目を見開く。
「だって、友達なら、名前で呼びたいんだ」
その言葉に、エルヴィンの顔に、今まで見たことのないような、驚きと、戸惑いと、そして心からの喜びが入り混じった複雑な笑顔が浮かんだ。
「はい......! はい! ありがとうございます、ネビウス様!」
エルヴィンは涙を拭いながら、それでもまだ「ネビウス様」と呼んでしまう自分に気づき、少し躊躇った後、恐る恐る口を開いた。
「その......僭越ですが、私も......キオ様、と......」
彼は、自分の言葉に驚くように顔を真っ赤に染める。
「『様』は......どうしても外せませんが......お名前で、お呼びしてもよろしいでしょうか」
「もちろん!」
キオが、花が咲くように嬉しそうに頷くと、エルヴィンは本当に、心の底から救われたように、泣きながら笑った。
「ありがとうございます......キオ様」
「よろしくね、エルヴィン君」
二人は、すっかり暗くなった空の下、夕焼けの最後の名残である紫色の光の中で、固く握手を交わした。エルヴィンの手は、まだ少し震えていたが、キオの手の温かさが伝わると、その震えもゆっくりと収まっていった。
しばらく二人で、ひんやりとした秋の夜の空気を吸い込みながら、ぽつぽつと輝き始めた星を眺めていた。気まずい沈黙ではなく、心地よい静寂が二人を包む。
キオがふと何かを思いついたように、エルヴィンに向き直った。
「そうだ、エルヴィン君」
新しい呼び方を使うのが、なんだか嬉しくて、キオは少し声を弾ませた。
「今度、みんなで喫片茶店に行かないか?」
「喫茶店......ですか?」
エルヴィンは、まだ少し涙の跡が残る目で、きょとんとしている。
「うん。カフェ・ソレイユっていうお店なんだけど、今度10周年のお祝いがあるんだ」
キオの目が、星の光を映して期待に輝く。
「そこでしか食べられない、猫の形のケーキが出るらしいよ。僕、すごく楽しみにしてるんだ」
「猫の形......!」
エルヴィンが、その意外な言葉に、興味深そうに身を乗り出した。貴族の彼にとって、そういった庶民的な店の話題は新鮮だったのかもしれない。
「本当ですか! それは......ぜひ、ご一緒させてください、キオ様!」
心から嬉しそうな表情だった。新しい呼び方を使えることも、そして何より、キオから「みんな」の輪に誘ってもらえたことも、すべてが嬉しいのだろう。その声は、先ほどの緊張が嘘のように弾んでいた。
「オーウェンも、ルイも、カリナも、セドリックも行くよ」
キオが仲間たちの名前を挙げると、エルヴィンは「はい、はい」と深く頷いた。
「それから......ベアトリスさんって知ってるかな?」
キオが少し首を傾げる。
「エルヴィン君と同じゲルプ一族の子なんだけど」
「べ............ベアトリス嬢ですか」
エルヴィンの顔が、一瞬で引きつった。
穏やかだった表情が、まるで石になったかのように固まる。目が、若干泳いでいる。
「はい............知って、います」
その声は、明らかに震えていた。語尾が微妙に裏返っている。
「彼女も一緒なんだ」
キオが無邪気に言った瞬間、エルヴィンの額に、じわりと汗が浮かんだ。
「あれ......? エルヴィン君、顔色が......」
キオが心配そうに覗き込む。
「い、いえ......! 何でも、ありません......!」
エルヴィンは慌てて笑顔を作ろうとするが、その笑顔は完全に引きつっている。両手を、ぎゅっと握りしめていた。
「大丈夫? 体調悪い?」
「だ、大丈夫です......! 全然、大丈夫、です......!」
声が二回も裏返る。
「ベアトリス嬢とは......幼なじみで......」
エルヴィンは、何とか言葉を絞り出す。汗が、こめかみを伝って落ちた。
「同じゲルプ一族ですから......よく、顔を......合わせる、というか......」
一言ごとに、微妙な間が空く。
そして、エルヴィンは深呼吸をして、なんとか笑顔を作った。その笑顔は、明らかに無理をしている。
「と、とにかく......! 楽しみに、しています......!」
その声は、明らかに強張っていた。
キオは、エルヴィンのその様子を不思議そうに見ていたが、彼が何かを隠していることに気づきつつも、今は深く追及することはせず、ただ優しく微笑んだ。
「そっか。それじゃあ、みんなで楽しもうね、エルヴィン君」
「はい......!」
「きっと楽しいよ。あの店のケーキ、本当に美味しいから」
キオの、何の裏もない優しい言葉に、エルヴィンは複雑な表情のまま、力なく頷くことしかできなかった。
やがて、空がすっかり深い藍色に染まり、星々の光が強くなる頃、二人は寮へと向かって、冷たくなった石畳の道を歩き始めた。中庭の木々は、もうシルエットでしかその形を判別できない。
キオは、穏やかな笑顔で、満天の秋の夜空を見上げている。新しい友情が始まったことへの、静かな喜びを噛み締めていた。
一方、エルヴィンは......複雑な表情で、自分の足元を見つめながら歩いていた。彼の革靴が、敷石をカツ、カツと硬い音を立てる。
『ああ、頭が痛い............。やっとキオ様と話せたのに......』
心の中で、エルヴィンは深くため息をついた。
でも、その憂鬱な表情の中には、確かに消し去ることのできない喜びも混じっていた。キオと、本当の友達としての一歩を踏み出せたという、確かな喜びが。
寮の灯りに照らされて、二人の影が、夕暮れ時よりもずっと濃く、長く道に伸びていた。
夜空に、数え切れないほどの星が瞬いていた。まるでダイヤモンドの粉を撒き散らしたかのように、どこまでも澄み渡っている。
キオは、自室の寮の窓を開け、その冷たい夜気を吸い込みながら、星を見上げていた。
今日、また一人、友達ができた。
そのことが、心から嬉しかった。
『シュバルツ』
心の中で、シュバルツに語りかける。
『ああ、キオ。良い一日だったな』
シュバルツの深く、優しい声が、心に直接響く。
『うん。エルヴィン君と、本当の友達になれた気がする。彼は、すごく苦しんでた』
『そうだな。お前が彼の重荷を、少し軽くしてやれたのだろう。お前は、確実に前に進んでいる』
「ありがとう、シュバルツ」
キオは、夜空で一番強く輝く星に向かって、小さく微笑んだ。
明日も、きっと良い日になる。
そう信じながら、キオは夜の冷気に身震いし、静かに窓を閉じた。
夜空色の髪を持つ少年の青春は、こうして確かな絆を育みながら、続いていく。
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