第12話「立ちはだかる壁と道標(2)」
昼休み。
キオは、教室で再び令嬢たちに囲まれるのを避け、静けさを求めて図書館へ向かった。
高い天井まで続く書架。古い紙とインクの匂い。足音さえも吸い込んでしまうような静謐な空間が、今のキオにはありがたかった。
ふと、窓際の席に目をやると、ルイが一人、分厚い料理の本を熱心に読んでいる姿が目に入った。陽光が彼女の柔らかな灰色の髪を照らしている。
キオは目を輝かせて、ルイの元へ行く
「ルイ」
そっと声をかけると、ルイはびくりと肩を震わせて顔を上げた。
「あ、キオ君......」
ルイは慌てて表情を整えた。
「ごめん、今朝も休み時間も、みんなと全然話せなくて」
キオは断りを入れてから、ルイの向かいの席ではなく、隣の席に静かに腰を下ろした。
「本当は、朝からずっとみんなと一緒にいたかったんだ」
真っ直ぐなキオの言葉に、ルイの胸が小さく痛んだ。
『キオ君......』
あの時の、胸がぎゅっと締め付けられるような痛み。
ルイは再び、小さく首を振った。
気持ちを落ち着かせ、ルイはキオの顔を見る
「ううん、謝らないで」
ルイは、まるで自分に言い聞かせるように、控えめに答えた。
「キオ君はシュバルツ一族の本家......ネビウス家の人なんだから、貴族の方々との時間も大切にしなければいけないと思ってる」
ルイは少し俯いて、言葉を続けた。
「なのに......」
ルイの目にじわりと涙が浮かんだ。
「令嬢方にあんな風に言われた時、キオ君が......カリナのために怒ってくれて......本当に嬉しかった」
「当たり前だよ。友達があんな風に言われて、傷つけられるのを黙って見ているなんて、僕にはできない」
キオが、真剣な、少し怒りを含んだような表情で言った。
「カリナは何も悪くない。令嬢たちも、きっと本気で悪気はないんだと思う。でも、だからこそ、言っていいことと悪いことがある」
胸が温かいもので満たされていく。
でも同時に、胸の奥が、ちくりと針で刺されたように痛む。
「でも......」ルイは不安げにキオを見上げた。
「あれで、キオ君が令嬢方から反感を買ってしまったら......」
「え?」
キオはルイの言葉に目を丸くする
「私たちのせいで、キオ君が貴族社会で孤立してしまうようなことになったら......私たち、申し訳なくて......」
ルイは視線を落とし、自分の膝の上で固く握りしめた手を見つめた。
「現実に、レナ様たちが話していた『ローズ・ド・エクシェル』のような高級サロンに、私やカリナが入っていくなんて、想像もできないから」
声が震える。
「私たち平民と一緒にいることで、キオ君の選択肢が狭まってしまうのは......本当に、申し訳なくて」
ルイの心の中には、言葉にできない本音が渦巻いていた。
『キオ君には......ベアトリスさんのような、家柄も教養も釣り合う、立派な貴族の方がお似合いなのかもしれない』
胸がぎゅっと締め付けられる。苦しい。
でも、この気持ちは誰にも言えない。キオ君にも、カリナにも、セドリックにも。
『この......苦しい気持ちは......いったい、何......?』
「君たちに、そんな風に気を遣わせてしまって、申し訳ない」
キオが静かに言った。その声は、ルイの心を包み込むように優しい。
「でも、聞いてほしいんだ。僕にとって、君たちとの友情は何より大切なんだ」
キオは優しげな瞳でルイを見ている
「確かに、先日行った高級サロンは素晴らしかった。手入れの行き届いた綺麗な庭園に、美味しい紅茶。きっと、とても良い茶葉を使っていたんだろうと思う」
キオのその言葉に、ルイはますます俯いてしまう。
「でもね」
キオは、悪戯っぽく笑いながら続けた。
「僕は、前に学園の中庭でみんなと飲んだ、カリナが故郷から持ってきたあのお茶の方が、ずっとずっと美味しいと感じたよ」
ルイは顔を上げ、キオの目を見た
紫水晶の瞳に自分が写っている
「それに、ルイの作るジンジャークッキーもね」
キオの少し茶目っ気のある言い回しに、ルイは思わず「ふふっ」と小さく笑った。
「7年前、君の家族に出会った時、そこにあったのは身分とかじゃなくて、温かい心だった」
キオは穏やかな声色で、しかし確かな情熱を込めて続けた。
「あの時、君のお母さんは『困っている子がいたら助けるのは当然のことでしょう』って、当たり前のように僕を助けてくれた」
「僕も、同じ気持ちでいたい。身分とか立場とか、そういうものさしじゃなくて、一人の人間として、ルイたちと向き合いたいんだ」
キオはルイの目を真っ直ぐに見つめた。
「ルイ、僕は君たちとの時間を守りたい。それは誰かに言われたからじゃなく、僕自身の選択なんだ」
「令嬢たちも、決して悪い人たちじゃない」
「でも、僕が本当に大切にしたいのは......」
キオは一度言葉を切り、窓の外に広がる青空を見上げた。
「貴族だから、平民だからじゃなくて......ただ、人として好きになった、大切な関係」
「それが僕にとって、一番大切なものなんだ」
「......っ......ありがとう......」
ルイの目から、堪えていた涙がぽろぽろと溢れ落ちた。
「私も......私も、キオ君と友達でいたい......ずっと」
嬉しい。本当に、心から嬉しい。
でも、胸の奥底にある小さな痛みが、消えてくれない。
ルイは、自分の感情に名前をつけることができなかった。
ただ、キオの優しさが染み渡って、涙だけが後から後から流れた。
「ルイ......? 大丈夫?」
キオが心配そうにルイの顔を覗き込む。
「だ、大丈夫......嬉しくて......嬉しすぎて......」
ルイは慌てて涙を拭い、精一杯の笑顔を作った。
その笑顔は本物だったが、どこか切なさを帯びていた。
「じゃあ、教室に戻ろっか」
「うん......あ、ちょっと先に行ってて。すぐに追いつくから」
「うん、わかった」
キオが先に図書館を出ていく。
一人残されたルイは、読んでいた料理の本を胸に強く抱きしめた。
ルイは小さく息を吐いた。
この気持ちは、今はまだ、誰にも言うことはできない。
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