第12話「立ちはだかる壁と道標」
秋も深まり、朝の空気はひんやりと肌を刺す。ベアトリスとのお茶会の翌日、キオが教室の扉を開けると、いつもの席にルイ、カリナ、セドリックの三人が集まっているのが見えた。
「キオ、おはよう!」
カリナが真っ先に気づき、太陽のような笑顔で大きく手を振った。その明るい声が、まだ静かな朝の教室に響き渡る。
「おはようございます、キオ君」
セドリックも柔和な笑みで挨拶を返してくれた。
ルイは少し離れたところから、静かに会釈をした。その表情にはいつもの穏やかさがある。だが、どこか遠慮がちな、一歩引いたような空気が漂っているのをキオは不思議に思った。
「おはよう、みんな!」
キオは嬉しさに顔をほころばせ、三人のところへ真っ直ぐに向かおうとした。
その瞬間だった。
「キオ様、おはようございます!」
鈴を転がすような、しかし芯の通った華やかな声が響いた。レナ・ロート・カルメンとアイリス・ブラウ・エーデルが、数人の取り巻きの令嬢たちを連れて教室に入ってきた。
彼女たちは他の生徒には目もくれず、一直線にキオのもとへと歩み寄る。そして、まるで示し合わせたかのように、あっという間にキオの周囲を優雅に取り囲んだ。
キオと、その先にいるルイ、カリナ、セドリックとの間に、目には見えない、しかし確実な「壁」ができた。
「先日のお茶会以来、キオ様ともっとお話ししたいと思っておりましたの」
レナが、上品な笑みを浮かべる。
「キオ様は音楽にもお詳しいと伺いましたが、今度おすすめの楽団など教えていただけますか?」
アイリスも負けじと、知的な興味を装って尋ねる。
キオは「ええ、もちろん」と丁寧に応えながらも、内心では焦っていた。
『ルイたちのところに行きたいのに......!』
友人たちの方を見ると、三人は少し困ったように遠巻きにこちらを見ている。
その空気を破ったのは、カリナだった。
「あ、キオ! この前の魔法史の内容なんだけどさ、ちょっとわかんないとこあって!」
カリナが、まるで令嬢たちの存在など全く気にしていない様子で、明るい声を張り上げた。彼女は堂々と「壁」の内側に入り込もうとする。
そのあまりに臆面のない行動に、令嬢たちが一瞬、動揺した表情を見せた。
「あら......マージェンさん。私たちがいま、キオ様とお話ししている最中ですのに」
アイリスが、あからさまに不快感をにじませた冷ややかな声で言った。
「だって友達なんだもん! 別にいいでしょ? ねえキオ、聞いてる?」
カリナは一歩も怯まない。その真っ直ぐな瞳がアイリスを射抜く。
「マージェンさん......少しは礼儀というものを......」
レナがやんわりと、しかし明確な非難を込めて眉をひそめる。
「異国の方には、この国の貴族社会の作法は難しいのかもしれませんわね。ですが、ここは学び舎であると同時に、社交の場でもあるのですから」
アイリスが追い打ちをかけるように、皮肉めいた口調で言った。
「何それ! 私たちだって......!」
カリナがムッとして言い返そうとした。空気が一気に険悪になりかける。
「アイリスさん、レナさん」
その時、キオが穏やかに、しかし凛と響く声で呼びかけた。
令嬢たちがハッとして一斉にキオを見る。
キオは、貴族として完璧な、美しい微笑みを浮かべていた。だが、その紫の瞳は、一切笑っていなかった。
「カリナは僕の大切な友人です。彼女の故郷の文化や作法を軽んじるような言葉は、僕としては少し、いえ、とても悲しく思います」
その穏やかだが拒絶を許さない毅然とした態度に、令嬢たちが息を呑むのがわかった。
「それぞれの文化や背景を尊重し合い、理解しようと努めることこそが、真に教養ある貴族の姿ではないでしょうか」
レナとアイリスが、カッと顔を赤くする。
「も、申し訳ございません......キオ様。そのようなつもりでは......」
「いえ、きっとお二人に悪気はなかったのだと思います」
キオの表情が、いつもの優しい笑顔に戻る。
「ただ、カリナも僕の友人として、皆さんにも大切にしてもらえると嬉しいです」
その絶妙な空気の変化に誰もが戸惑っていると、教室の扉が開き、オーウェンが入ってきた。
彼は一瞬で緊迫した状況を察し、いつもの穏やかだが威厳のある声で言った。
「おはよう、皆。朝から随分と賑やかだな」
「オーウェン様!」
令嬢たちが慌てて背筋を伸ばし、淑女の礼をとる。
オーウェンはふわりと微笑むと、カリナの頭にぽん、と軽く手を置いた。
「カリナ、少し話がある。キオはレナたちとお話し中みたいだし、後で僕とセドリック、ルイの四人でゆっくり話そう」
「う......うん、わかった」
オーウェンにそう言われると、カリナも少し落ち着きを取り戻した様子で頷いた。
カリナはキオに向き直り、少し照れたように小声で言った。
「......ありがと、キオ」
「当たり前だよ」
キオが心からの笑顔で微笑み返した。
少し離れた場所で、セドリックが「さすがオーウェン君......場を収めるのが上手い」と小声で呟くのが聞こえた。
ルイは、ただじっと、キオの姿を見つめていた。その表情は驚きと感謝に彩られている。
『キオ君......カリナのこと、あんなにはっきりと守ってくれた......』
胸が温かくなる。だが同時に、ふと、ある光景が脳裏をよぎった。
――昨日、街角で偶然目にした、キオとベアトリスが馬車の前で親しげに微笑み合う姿。
あの時感じた、胸の痛み。
ルイは慌てて首を横に振った。その記憶を、心の奥底に無理やり押し込める。
『私......どうしちゃったんだろ』
授業が終わる鐘が鳴った。キオは「今度こそ」と、ルイたちの席へ向かおうとした。
「みんな、ごめん。さっきはちゃんと話せなくて......」
キオがそう言いかけた、まさにその言葉を遮るように、再び華やかな声が響いた。
「キオ様!」
振り返ると、またしてもレナとアイリスたちが立っていた。彼女たちは朝の気まずさを微塵も感じさせない完璧な笑顔を浮かべている。
「先ほどお話ししようとしていた『ローズ・ド・エクシェル』という会員制サロンのことなのですが。新しくできたばかりで、とても評判がよろしいの。近々、そこで開かれる勉強会にキオ様もご一緒できたらと......」
「ちょっと待ってよ! 今、キオが私たちと話そうとしてたところでしょ!」
カリナが我慢しきれないといった様子で、令嬢たちとキオの間に割って入った。彼女は全く臆していない。
アイリスが、今度こそ我慢ならないというように、冷たい視線をカリナに向けた。
「マージェンさん。先ほども申し上げましたが、これは貴族同士の会話です。あなたは......」
「アイリスさん」
キオが、先程より少しだけ低い、静かな声で再び呼びかけた。
令嬢たちがびくりと体を緊張させる。
キオは、朝と同じ優雅な微笑みを浮かべていた。
「『貴族の会話』という言葉は、僕には少し排他的に聞こえてしまいますね」
その場がしんと静まり返る。
「僕は、友人たちとの会話も、皆さんとの会話も、どちらも同じように大切にしたいと思っています。」
その毅然とした態度に、アイリスが唇を噛み、「......申し訳、ございません」と小さく謝罪の言葉を口にした。
「レナ、アイリス。二人とも、少し落ち着いてくれないかな」
絶妙なタイミングで、オーウェンがふわりと間に入った。
「キオもこうして友人たちと話したがっているんだ。見てわからないかい? 『ローズ・ド・エクシェル』の話は、放課後でもいいんじゃないかな」
「......オーウェン様がそう仰るのでしたら」
レナたちが、少し不満そうながらも素直に引き下がる。
「カリナも、気持ちはわかるよ。でも、もう少し穏やかにね」
オーウェンが優しく諭す。
「むー......。オーウェンには負けるわ」
カリナは渋々といった様子で腕を組んだ。そしてキオに向かって、また小声で「ありがとね、キオ」と呟いた。
『令嬢たちも悪い人じゃないと思う。でも、私の友人を軽んじるのは許せない。カリナが傷つくのは、私が許さない』
キオは内心で強く決意した。
「キオ君......本当にすごいな」
セドリックが感心したように言う。
「キオ君......ありがとう」
ルイが、か細い声で感謝を伝えた。でも、その表情はすぐに不安げに曇る。
「でも、私たちのせいで、キオ君が令嬢方と......」
教室の隅。
一番後ろの席から、エルヴィン・ゲルプ・フォルケが、その一部始終を冷めた目で見つめていた。
『ネビウス様......まただ。平民を守るために、ご自身の『貴族としての立場』を使った』
『あの微笑み......穏やかだったけど、明確な意志と、逆らうことを許さない力がこもっていた』
『でも、令嬢方を無下にすることもなく、友人も守った......。すごい、な......』
エルヴィンの黄色の瞳が、わずかに揺れた。
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