第8話「ベアトリスの提案(2)」
教室のざわめきがふっと途切れ、生徒たちの視線が入り口に集まる。そこに立っていたのは、陽光のように鮮やかな黄色の髪を美しく編み上げた、気品あふれる少女だった。
ベアトリス・ゲルプ・リーデル。
彼女は落ち着いた足取りで教室に入ると、すぐにキオとオーウェンの姿を見つけ、まっすぐに二人の方へ歩いてくる。
「リンドール様、ネビウス様、おはようございます」
凛とした、それでいて柔らかい声だった。
「おはよう、ベアトリス」
オーウェンが王族らしい威厳を保ちつつも、親しみを込めて応える。
「おはようございます、ベアトリスさん」
キオも丁寧に挨拶を返した。
ベアトリスは優雅に一礼すると、少し緊張した面持ちでキオに向き直った。
「突然で申し訳ございませんが......キオ様、放課後にお時間をいただけませんでしょうか」
その翠色の瞳には、強い意志の光が宿っていた。真剣そのものだ。
「どうしても、お話ししたいことがございまして」
「わかりました。どちらで?」
キオは少し驚きながらも、落ち着いて答えた。
「図書館でよろしいでしょうか。静かな場所で、ゆっくりとお話ししたいのです」
「はい、放課後に図書館で」
「ありがとうございます」
ベアトリスは安堵の表情を浮かべると、再び丁寧にお辞儀をして、自分のクラスへと戻っていった。
彼女の気品ある後ろ姿が廊下に消えると、オーウェンが小声で尋ねた。
「何の話だろう」
「わからない......でも、すごく真剣そうだった」
キオも首を傾げた。
『もしかして、お茶会のこと?』
それとも、まったく別の話だろうか。いずれにせよ、放課後にはわかるだろう。
その時、担任のシュトゥルム先生が教室に入ってきた。
「皆さん、席に着いてください。今日は魔法史について学びます」
授業開始の号令が、ざわついていた空気を断ち切る。キオはひとまず招待状を鞄にしまい、ノートを開いた。
しかし、授業が始まっても、キオの頭の片隅にはベアトリスの真剣な表情が浮かんでいた。
昼休み
キオは食堂で手早く昼食を済ませた後、オーウェンと一緒に中庭のベンチに座っていた。そこは生徒たちの喧騒から離れた、色づいた木々に囲まれた静かな場所だ。
頭上ではカサカサと葉が擦れる音がし、秋の心地よい風が二人の髪を揺らしていく。
「ベアトリス嬢のこと、少し知ってることがある」
オーウェンが不意に口を開いた。
「本当?」
「ああ。彼女は、ゲルプ一族リーデル家の令嬢だ。父親は、ゲルプ一族の中でも特に影響力がある人物でね」
オーウェンは周囲に誰もいないことを確認してから続けた。
「父親からの期待が、かなり大きいらしい。優秀な娘だから、家のために尽くすよう厳しく育てられたと聞いている」
「そうなんだ......」
キオは少し考える。ベアトリスは、自分の意志で生きられているのだろうか。
「それと、これは噂なんだが......」
オーウェンは声を潜めた。
「最近、彼女の父親が、シュバルツ一族との......特に本家であるネビウス家との関係を深めたいと考えているらしい」
「ネビウス家......つまり、僕の家と?」
「そうだ。詳しくはわからないが、貴族社会では『ネビウス家の三男がどんな人物か』が、かなり話題になっているらしい」
キオは驚いた。自分のことが、知らないところでそんなふうに噂になっているなんて。
「もしかしたら......君との関係について、何か話があるのかもしれない」
「関係って......どういう?」
「わからない。でも、彼女は賢い子だ。きっと、よく考えた上での話だろう」
オーウェンの言葉に、キオの胸にずしりと重いものが乗った気がした。
「落ち着いて話を聞くといい。君の気持ちに正直に答えればいい」
「......うん」
二人がそこまで話したところで、遠くからカリナの明るい声が聞こえてきた。
「キオ! オーウェン! そこにいたのね!」
カリナがルイとセドリックを連れて、こちらに駆けてくる。
「みんなで昼休み過ごそうよ!」
「ああ、ちょうど良かった」
オーウェンが笑顔で応じる。五人は芝生に座り、他愛もない話をして過ごした。ルイが作ってきたクッキーを分け合い、カリナの面白い話にみんなで笑い合う。
こんな時間が、キオは一番好きだった。
でも、心の片隅には、放課後のベアトリスとの約束が重く引っかかっていた。
『いったい、何の話なんだろう......』
放課後
キオは少し緊張しながら、図書館へと向かった。
高い天井まで続く本棚に囲まれた、古書の匂いが漂う静寂の空間。西日の差し込む窓際の席に、ベアトリスがすでに座っていた。
彼女は本を読んでいるようだったが、キオの革靴が床を鳴らす音に気づくとすぐに顔を上げた。
「キオ様、お待ちしておりました」
「お待たせしました」
キオが向かいの席に座ると、ベアトリスは読んでいた本を静かに閉じた。
「いえ、私も今来たところですわ」
少しの沈黙が、二人の間に落ちる。
ベアトリスは一度、深く息を吸い込んだ。意を決したような表情だ。
「突然のお願いで、申し訳ございません」
彼女は真っ直ぐにキオを見つめて続けた。
「実は......父から、言われたことがございまして」
「お父様から?」
「はい。シュバルツ一族との......特に本家であるネビウス家との関係を深めるようにと。特に、同学年であるキオ様と親しくなるようにと、強く言われております」
ベアトリスは、家の事情を隠すことなく、淡々と、しかし誠実に語った。その率直さに、キオは少し驚いた。
「それで、私なりに色々と考えてみたのですが......」
ベアトリスは少し言葉を選ぶように間を置いた。
「最近、貴族社会で噂になっているそうです。キオ様が、身分を超えて交友していらっしゃると」
「......そうなんですか」
キオは、昼間のオーウェンの話を思い出し、少し身構えた。やはり、そういう話になっているのか。
「それに対して、様々な意見があります。『ネビウス家の三男は、分け隔てなく接する素晴らしい方だ』と言う方もいれば......」
ベアトリスは少し言いにくそうに続けた。
「『貴族としての自覚が足りない』と批判する方もいます」
「......」
「私は、キオ様のお考えを否定するつもりはございません。むしろ、素晴らしいことだと思います」
ベアトリスの瞳には、誠実な光が宿っていた。
「でも、このままでは......いずれ、キオ様も、そしてお友達の方々も、困ることになるかもしれません」
「困るって......どういうことですか?」
「卒業後、それぞれの立場が明確になった時に......」
ベアトリスは慎重に言葉を選んだ。
「平民の方々は、平民の世界に戻ります。貴族は、貴族社会に戻ります。その時、『貴族と親しかった平民』『平民と親しかった貴族』として......どちらの世界にも、完全には受け入れられなくなる可能性があります」
キオの胸を、冷たいものが走り抜けた。
『そんな......』
「もちろん、学校にいる間は問題ありません。ここは、身分を超えて学べる素晴らしい場所ですから」
ベアトリスは優しく微笑んだ。
「でも、卒業後は......現実が待っています」
キオは黙って聞いていた。大人として、彼女の言うことは痛いほど理解できる。それは、この世界の厳しい現実だ。
「それで......」
ベアトリスは居住まいを正し、背筋を伸ばした。
「もし、私がキオ様の婚約者になれば」
「え......」
「周囲も納得します。『婚約者がいるから、他の交際に興味がない』のだと」
ベアトリスの瞳は、真剣そのものだった。
「形だけの婚約です。お互いの私生活を束縛するつもりはございません。キオ様が他の方と親しくなることを妨げるつもりもありませんし、私も同様にいたします」
「ベアトリスさん......」
「父の期待に応えることも、確かにあります」
彼女は正直に続けた。
「でも......私自身も、キオ様の考え方を守りたいのです。学校で築いた友情を、壊したくない」
ベアトリスの声には、心からの誠実さが込められていた。彼女は、家の事情だけでなく、キオのことを考え、友達を守ろうとしてくれている。
『ベアトリスさんは、僕のことを考えてくれている』
『友達を守ろうとしてくれている』
『大人として考えれば、これ以上なく合理的な提案だ』
キオは静かに目を閉じ、差し込む西日の温かさを瞼に感じた。
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