第31話「温かな帰郷(2)」
重厚な扉をくぐると、ふわりと温かな空気が全身を包み込んだ。
外気の凍てつくような寒さから一転、屋敷の中は春のような陽気に満ちている。
磨き込まれた床板の年季の入った匂いと、あちこちに飾られた花瓶から微かに漂う冬の花の甘い香り。廊下の壁に飾られた絵画や調度品は、キオの記憶の中にあるそのままで、ブラケットのランプの灯りがそれらを優しく照らし出している。
歩くたびにきしむ床の音さえも、懐かしい調べのように耳に馴染んだ。
案内された広間には、大きく立派な暖炉があり、太い薪がぱちぱちとはぜる音を立て、あかあかと燃える炎が穏やかに揺れていた。
外の寒さが嘘のような暖かさと、芳しい紅茶の香りが漂う空間。西の空に傾きかけた太陽が、窓から長いオレンジ色の光を投げかけ、白い漆喰の壁に柔らかな影を落としている。空気中に舞う細かな塵さえも、光を受けて黄金色に輝いているようだった。
キオたちは暖炉の前に設えられた、座り心地の良さそうなふかふかのソファに腰を下ろした。上質な布地が沈み込み、旅の疲れを吸い取っていく。冷え切っていた手足の先から、じわじわと血が通い始め、体が芯から解れていくようだ。
「それで、学校はどうだった?」
湯気の立つ琥珀色の紅茶を一口啜り、カップをソーサーにコトリと戻しながら、セクが尋ねた。その視線は当主としての鋭いものではなく、弟を案じる兄の穏やかなものだった。
「楽しいよ。友達もできたし」
「手紙で読んだよ。ルイさん、オーウェン殿下、カリナさん、セドリック君......だったか」
「うん。みんな、本当にいい人たちなんだ」
キオは温まったカップの側面を両手で包み込み、その温もりを感じながら友人たちの顔を一人ひとり思い浮かべた。自然と口元が緩み、笑顔になる。
「ルイは料理が上手くて、いつも美味しいお菓子を作ってくれるんだ。オーウェンは王子様なのに全然偉ぶらなくて、困ってる人がいたら必ず助けてくれる。カリナは明るくて、一緒にいるとこっちまで元気になる。セドリックは努力家で、いつも一生懸命で......」
話しているうちに、キオの声にも熱がこもる。学園での鮮やかな日々が、この穏やかな居間の中に蘇るようだった。
「......キオ兄さま、目がキラキラしてる」
隣に座っていたルーアが、兄の顔を覗き込みながら嬉しそうに呟いた。
「学校が楽しいのね」
「うん。本当に楽しいよ」
その淀みのない言葉に、セクは安堵したように目を細め、張り詰めていた肩の力を抜いた。
「そうか。それは良かった」
弟が遠い地で辛い思いをしていないか、馴染めているのか。その懸念が払拭された瞬間だった。
「三日後には、ルイとベアトリスさんが遊びに来てくれるんだ」
「おお、それは楽しみだな」
セクが深く頷く。弟の大切な友人を迎えられることが、彼にとっても喜びであるようだった。
「ルイさんのお菓子、私も楽しみにしていますわ」
給仕が注ぎ足した紅茶の香りを楽しげに嗅ぎながら、リーリエも嬉しそうに微笑んだ。
「ベアトリス様とは同郷ですから、お会いできるのが楽しみです。どんな方なのかしら」
「ベアトリスさんは、すごく気品があって......でも、話すと面白い人だよ。恋愛小説が好きなんだって」
「まあ、素敵」
リーリエの翠色の瞳が、ぱっと輝いた。
「私も恋愛小説は好きですのよ。ぜひお話ししたいわ」
「きっと気が合うと思う」
共通の話題が見つかり、場がさらに華やぐ。
そんな中、ルーアがソファの上で身を乗り出した。
「ルイさんって、どんな人なの?」
純粋な好奇心を向けられ、キオは少しだけ表情を引き締めた。脳裏に浮かぶのは、優しく差し伸べられた手の温もりだ。
「優しくて、料理が上手くて......七年前にね、出会ったんだ」
「七年前?」
ルーアが不思議そうに小首を傾げる。
「うん。迷子になっていた僕を見つけてくれたんだ。それで、家に連れて帰って、温かいスープを飲ませてくれた」
「......素敵な方なのね」
ルーアは嬉しそうにキオを見つめる。その小さな胸の内で、会ったことのないルイへの感謝が芽生えているのが分かった。
「私、ちゃんとお礼を言わなきゃ」
「僕も......」
それまで黙って話を聞いていたネロが、小さく呟いた。膝の上で握りしめた拳に力がこもっている。
「キオ兄さまを助けてくれた人なら、僕たちにとっても大切な人だ」
その不器用だが真っ直ぐな言葉に、キオの胸がじんと温かくなった。血の繋がりだけではない、確かな絆を感じる。
「ありがとう、二人とも」
シュバルツは、少し離れた位置から黙ってその様子を見守っていた。
その紫の瞳は、まるで宝物を眺めるかのように穏やかだ。
暖炉の薪が崩れ、炎がはぜる音だけが、穏やかな時間の中に響いている。
窓の外はいつの間にか藍色の帳が下り、部屋の中は暖炉とランプの明かりだけが優しく揺らめく空間となっていた。
―――
夕食は、ネビウス家全員で囲む温かな時間だった。
食堂の天井からは豪奢なシャンデリアが吊るされ、その柔らかな光の下、長いテーブルには色とりどりの料理が並んでいる。
屋敷のコックが腕を振るった料理の数々だ。肉汁を湛えて艶やかに輝くローストビーフ、こんがりと黄金色の焼き色がついた根菜のグラタンからはチーズの濃厚な香りが立ち上り、そして湯気を立てる冬野菜のスープが食欲をそそる。
温かな料理の香りと熱気が、冷え込み始めた夜の食堂に満ちていた。
「スバル様、お肉はお好きですか?」
リーリエが尋ねると、シュバルツは静かに頷いた。
「ああ、肉は好きだ。だが、このローストビーフは特に美味いと思う」
「ふふ、料理長が腕をふるった料理ですからね。嬉しいですわ」
カチャカチャと銀食器が触れ合う音や、グラスに飲み物を注ぐ音、そして楽しげな話し声が響く。
普段は静かなネビウス家の食卓も、今夜ばかりは賑やかだ。
ルーアは終始、キオの隣に座って離れなかった。美味しい料理に舌鼓を打ちながらも、その視線はずっと兄に向けられている。
ネロは反対側の席に座り、自分の食事を進めながらも、時折キオの皿に緑黄色野菜をこっそりと乗せては、「ちゃんと食べてください」と小言を言っている。
「ネロ、それは僕の台詞じゃないの?」
苦笑しながら指摘すると、ネロはふいっと視線を逸らした。
「キオ兄さまは好き嫌いが多いから」
「......昔ほどじゃないよ」
「トマト、まだ苦手でしょう」
皿の端に寄せられた赤い果実を指差され、図星を突かれたキオは言葉に詰まった。
「スバルさまは、キオ兄さまの好き嫌いを直してくれてるの?」
フォークを咥えながら、ルーアが興味津々といった様子で尋ねる。
「ああ。努力はしている」
シュバルツが優雅な手つきでグラスを傾けながら答える。
「大変なのね」
「まあ、それなりには」
「スバル......」
キオがジト目を向けると、シュバルツは素知らぬ顔で肉を口に運んだ。その表情には、微かな笑みが浮かんでいるようにも見える。
そんな子供じみたやり取りを、セクとリーリエは芳醇な赤ワインが入ったグラスを傾けながら、微笑ましそうに見守っていた。
温かいスープの湯気越しに見る家族の笑顔。
何気ない会話と、響き合う笑い声。
キオの安寧がこの場所にあった。
最後までお読みいただきありがとうございます。
面白い、続きが気になると思っていただけましたら、
下の☆マークから評価や、ブックマーク(お気に入り登録)をしていただけると、執筆の励みになります!
(お気軽にコメントもいただけたら嬉しいです)
よろしくお願いします。




