第31話「温かな帰郷」
馬車が砂利道を踏む規則的な音が、ゆっくりと静まっていく。
車輪が止まる時の軋みと共に、長い旅路の終わりが告げられた。
窓の外に広がるのは、見覚えのある懐かしい風景だった。収穫を終えて静まり返った広大な農地、その脇を流れる川に架かる古い石造りの橋。そして枯れ草色が混じるゆるやかな丘陵の上に、堂々と佇む壮麗な屋敷。
ネビウス邸。シュバルツ一族の本家として知られる、キオの生まれ育った家だ。
白い石壁と深い青色の屋根が、冬の重たい曇り空の下でも毅然とした威厳を放っている。庭木の枝にはうっすらと雪が残り、吐く息のような白い靄が漂っていた。
「到着いたしました、キオ様」
御者の落ち着いた声が響いた。
キオは深呼吸をして、馬車の扉に手をかけた。革の手袋越しにも、外気の冷たさが伝わってくる。道中でシュバルツと交わした会話を思い出す。全てを話す必要はない、楽しかったことを話せばいい——その言葉が、緊張で固まりかけた心を少しだけほぐしてくれた。
扉を開け、冬の鋭く冷たい空気が頬を撫でる。
肺の中まで澄み渡るような、故郷の冬の匂いだ。
その瞬間だった。
「キオ兄さまーっ!」
甲高い声と共に、屋敷の扉から小さな影が猛然と駆け寄ってきた。
寒さで頬を赤く染め、黒髪を二つに結った少女が、弾丸のようにキオの腰に飛びついてくる。
「ルーア!」
キオは驚きながらも、足を踏ん張り、しっかりと妹を受け止めた。コート越しに伝わる体温と重みが、愛おしさを掻き立てる。
「おかえりなさい! ずっと、ずーっと待ってたの!」
ルーアは金色の瞳を潤ませて輝かせながら、キオの腕にぎゅっとしがみついた。十歳になったばかりだが、その甘えん坊ぶりは相変わらずだ。吐く息が白く弾んでいる。
「ルーア、はしたないぞ」
落ち着いた声が響いた。
少し遅れて歩いてきたのは、ルーアと瓜二つの顔をした少年だった。同じ艶やかな黒髪に金色の瞳。双子の弟、ネロだ。整えられた服の襟元を少し気にしながら、彼はゆっくりと近づいてくる。
「お兄さまが来たばかりなのに、いきなり抱きつくなんて......」
ネロは眉をひそめながらも、その金色の瞳はどこか落ち着かなげにキオを見つめている。視線の端々から、隠しきれない喜びが滲み出ていた。
「でもっ、私、キオ兄さまに会いたかったんだもん!」
「僕だって......」
ネロは言いかけて、口をつぐんだ。そして、くすりと笑うキオの顔を見て、寒さのせいだけではない赤みで少し頬を染めた。
「......僕も、待ってました」
ぼそりと呟くように言いながら、ネロはキオの反対側の腕に、そっと手を添えた。弟の手のひらの温もりが、じんわりと伝わってくる。
「ただいま、二人とも」
キオは両腕に愛らしい双子を抱えながら、優しく微笑んだ。
その温かい光景を、馬車から降りたシュバルツが静かに見守っていた。
夜空を切り取ったような黒い鱗に、深い紫の瞳。額から優美に伸びる黒曜石のような角。黒を基調とした上質な長衣を纏ったその姿は、夕暮れ迫る冬景色の中で、ひときわ異彩を放ちつつも凛とした存在感を放っていた。
不意に、ルーアがシュバルツの存在に気づいた。
「あっ! もしかして......」
大きな瞳がさらに輝きを増す。
「スバルさま!?」
「......ルーア、さま、って」
ネロが呆れたように呟く。
ルーアはキラキラとした目でじっくりとシュバルツを見る。
「キオ兄さまの手紙に書いてあった通りだわ。とても、素敵な方ね!」
ルーアはキオの腕を離し、シュバルツの前に立った。
「初めまして! キオ兄さまの妹のルーアです!」
スカートの裾をつまみ、ぺこりと丁寧にお辞儀をする。その動作は、十歳の少女とは思えないほど洗練されていた。普段の甘えん坊ぶりとのギャップに、キオは思わず目を丸くする。
「初めまして。スバルだ」
シュバルツが静かに頭を下げる。その低く響く声に、ルーアは頬を染めた。
「お声も素敵......」
「ルーア、そういうことを言うな」
ネロが妹の袖をきゅっと引っ張る。そして自分もシュバルツの前に進み出て、背筋を伸ばしてきちんとした礼をした。
「ネロ・シュバルツ・ネビウスです。兄がお世話になっております」
「こちらこそ。キオから話は聞いている」
シュバルツが穏やかに応えると、ネロは少し緊張しながらも、安堵したように白いため息を吐いた。
「......スバルさまは、キオ兄さまのことをどう思ってらっしゃるんですか?」
ネロは緊張したようにシュバルツに尋ねる。損なネロからの質問に、シュバルツは優しい笑みを浮かべた。
「ああ。大切な存在だと思っている」
その言葉に、ネロの表情がふわりと和らいだ。
ルーアはシュバルツの周りをくるくると回り始め、興味津々で観察している。
「ねえねえ、スバルさまは何がお好きなの? 甘いものは食べる? お肉とお魚ならどっちが好き?」
「ルーア、質問攻めにするな」
「だって気になるんだもん!」
「食べ物に特に好みはないが......キオの好物は何でも美味いと思う」
シュバルツの答えに、ルーアは「きゃあ!」と黄色い歓声を上げた。
「素敵! キオ兄さまと同じものが好きなのね!」
「......そういう意味ではないと思うが」
ネロが呆れた顔で呟く。
キオはその様子を眺めながら、かじかんだ指先とは裏腹に、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
その時、重厚な屋敷の正面玄関が開いた。
「おかえり、キオ」
落ち着いた、けれど温かみのある声。
玄関に立っていたのは、黒髪を後ろで一つに束ねた青年だった。父親譲りの精悍な顔立ちに、理知的な金色の瞳。キオとは面差しこそ異なるが、穏やかで落ち着いた雰囲気はどこか似通っている。そこには当主としての威厳と、兄としての優しさが同居していた。
二十二歳の長兄、セク・シュバルツ・ネビウス。
「セク兄さん」
キオの声が、自然と弾んだ。
「ただいま」
「ああ。よく帰ってきた」
セクは穏やかに微笑み、歩み寄ってきた。
そして、何も言わずにキオを力強く抱きしめた。
「......っ」
突然の抱擁に、キオは一瞬体を強張らせた。けれど、厚手の衣服越しに伝わる兄の体温と匂いに、すぐにその身を委ねる。
「元気そうで良かった」
セクの声は低く、けれど確かな安堵に満ちていた。耳元で聞こえるその声に、張り詰めていた糸が完全に緩んでいく。
「手紙では色々聞いていたが、心配していたんだ」
「ごめん、心配かけて」
「謝ることはない。無事に帰ってきてくれた。それが一番嬉しい」
セクはキオの肩をポンポンと優しく叩いてから離れ、シュバルツに向き直った。
金色の瞳が、真っ直ぐにシュバルツを見つめる。
「初めまして。キオの兄で、ネビウス家当主を務めているセク・シュバルツ・ネビウスです。キオからの手紙や伝言鳥で、あなたのことはよく聞いております」
丁寧に頭を下げてから、セクは穏やかに微笑んだ。
「お会いできて光栄です、スバル殿」
「こちらこそ。セク殿のことは、キオからよく聞いている」
シュバルツも静かに頭を下げた。
挨拶を交わした後、セクは改めて深々と頭を下げた。
「スバル殿。弟のそばにいてくれて、本当にありがとう」
その言葉には、飾り気のない心からの感謝が込められていた。
「キオからの手紙で、どれほどあなたが支えになってくれているか、よく分かった。ネビウス家当主として、そして兄として、心からお礼を申し上げる」
「頭を上げてくれ、セク殿」
シュバルツは静かに、けれど温かい声で応えた。
「キオのそばにいるのは、俺自身の意志だ。礼には及ばない」
「それでも......」
セクは顔を上げ、シュバルツの瞳をまっすぐに見つめた。
「弟を守ってくれた。それは事実だ。ありがとう、スバル殿」
その真摯な言葉に、シュバルツも静かに頷いた。
「......ああ」
「まあまあ。玄関先で立ち話もなんですから、中にお入りになって」
柔らかな声が割って入った。
セクの隣に立っていたのは、鮮やかな黄色の髪を優雅に結い上げた若い女性だった。翠色の瞳が、温かな光を湛えている。
「リーリエさん」
キオが名を呼ぶと、彼女は花が咲くように微笑んだ。
「おかえりなさい、キオさん。お元気そうで何よりですわ」
リーリエ・シュバルツ・ネビウス。ゲルプ一族出身で、セクの妻だ。ベアトリスとは同郷の出身であり、気品がありながらも親しみやすい人柄で、ネビウス家の人々から慕われている。
「中で温かい紅茶を用意してありますわ。スバル様もどうぞ」
「ありがとう、リーリエ殿」
シュバルツが丁寧に頭を下げると、リーリエは少し驚いたように目を瞬かせた。
「まあ......とても礼儀正しい方ですのね。キオ様の手紙で伺っていた通り、素敵な方ですわ」
「ねえねえ、早く入ろうよ! 寒いもん!」
ルーアがキオの腕をぐいぐいと引っ張る。冷え切った風がまた強く吹き抜け、皆の髪を揺らした。
「こら、ルーア。落ち着きなさい」
「だって、キオ兄さまと一緒にいたいんだもん」
そんなやり取りを見ながら、一同は屋敷の中へと足を踏み入れた。
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