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夜空色の青春  作者: 上永しめじ
第一章「入学と出会い」
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第3話「初めての会話(3)」


 その時、図書館の重厚な樫の扉が静かに開き、複数の足音が聞こえてきた。


 貴族の令嬢たちが、三人で図書館に入ってくる。それぞれがロート一族の紅、ブラウ一族の青、ゲルプ一族の黄という、鮮やかな髪色をしていた。上質な生地で作られた制服は非の打ちどころなく着こなされ、その立ち居振る舞いには育ちの良さが滲み出ている。


 彼女たちは、静寂を保ちながらも目的の書物を探していたようだったが、ふと、窓際の一角に立つキオの姿を見つけると、一様にぱっと顔を輝かせた。まるで珍しい蝶を見つけたかのように、その瞳が好奇と憧憬の色を帯びる。


 三人は互いに目配せをすると、音を立てないよう、しかし弾むような足取りでキオへと近づいてきた。


「あら、ネビウス様」


 紅髪の令嬢が、まるで歌うような、鈴の鳴るような声で優雅に挨拶する。学院でも目立つ美貌の持ち主で、ロート一族の中でも有力な一族の娘だろう。


「ごきげんよう」


「はい、ごきげんよう」


 キオが貴族としての作法通り、穏やかな笑みを浮かべて返すと、令嬢たちは嬉しそうに頬を染め、可憐に微笑んだ。その視線は、真っ直ぐにキオの紫水晶の瞳に注がれている。


「今日の授業でのお話、とても印象的でしたわ」


 青髪の令嬢が、理知的な光を宿す瞳でそう言った。彼女の声は紅髪の令嬢よりも少し低く、落ち着いている。


「多様性についての見解......。わたくしたちには思いもよらないことで、とても興味深かったですわね」


「ネビウス様は、いつも私たちとは違う、深い視点をお持ちでいらっしゃいますのね」


 黄髪の令嬢が、愛らしい声でそう付け加える。


 三者三様の称賛の言葉。しかしキオは、彼女たちの言葉の端々に、純粋な感心とは別に、どこか「自分たちとは違う特別な存在」として一線を引かれているような響きを感じ取っていた。


 そこで、令嬢たちはキオの背後に、まるで彫像のように固まっているルイの存在にようやく気づいた。


「あら......」


 紅髪の令嬢が、少し驚いたような、訝しむような顔をする。その視線は、ルイの灰色の髪と、平民であることを示す簡素な制服の着こなしに向けられた。


 特に何か軽蔑するような言葉を口にするわけではない。だが、その一瞬の視線の動き、わずかに細められた目、ぴたりと止まった会話が、雄弁に「なぜ平民の娘がシュバルツ一族の方とご一緒に?」という疑問を物語っていた。


 ルイはびくりと肩を震わせ、ただでさえ緊張でこわばっていた顔を、さらに蒼白にさせた。


 抱えていた『魔法調理学基礎』の本を、まるで盾のように胸元で強く握りしめる。居場所がない、という焦燥感が彼女の全身から発せられていた。自然と一歩、キオの影に隠れるように後ずさる。


 令嬢たちは、あからさまな悪意こそ見せない。だが、そこには貴族と平民を明確に分ける、冷たく透明な壁が存在していた。生まれながらにして身についた、平民との距離感。それが、図書館の静かな空気の中で、重苦しい圧力となってルイにのしかかる。


「はい、ルイさんと魔法調理学について話していたんです」


 キオは、その重苦しい空気を打ち破るかのように、ごく自然に、さりげなく「ルイさん」と名前を呼んだ。


 その一言に、令嬢たちは今度こそはっきりと驚いた様子を見せた。


 平民の存在に気づいていた、というレベルではない。その名前を正確に記憶し、あまつさえ「さん」付けで親しげに呼んでいる。ネビウス家が、である。彼女たちの常識では、到底考えられないことだった。


「まあ......。魔法調理学、を?」


 青髪の令嬢が、どう反応していいか分からないといった様子で、言葉を繰り返した。その視線はキオとルイの間を戸惑いがちに往復している。


「はい。とても興味深い分野ですよね。僕も知らないことばかりで」


 キオの態度はあくまで自然で、身分の壁などまるで気にしていないかのようだった。前々世の感覚からすれば、学友と専門分野について話すのは当たり前のことだ。


 だが、この世界では違う。令嬢たちは、この異常とも言える状況をどう受け止めればいいのか、完全に戸惑っているようだった。彼女たちの間で、無言の視線が交わされる。


「そう......でしたの」


 紅髪の令嬢が、ようやく絞り出すように呟いた。その声は先ほどの華やかさを失い、どこかぎこちない。


 一瞬、気まずい沈黙が落ちる。


 古書のインクの匂いが漂う静かな図書館に、誰かの息を呑む音だけがやけに大きく響いた気がした。令嬢たちは、キオの真意を測りかねている。そしてルイは、その視線の板挟みになり、息苦しさに耐えるように俯いていた。


「ネビウス様、また授業でのお話を伺えるのを、楽しみにしておりますわ」


 沈黙を破ったのは、黄髪の令嬢だった。半ば強引に話題を元に戻し、この場を取り繕おうとしたのが見て取れた。


「ありがとうございます」


 キオが穏やかに微笑むと、令嬢たちは張り付いたような笑みを返し、揃って丁寧に挨拶をした。その動作は、訓練されたかのように完璧だ。


「それでは、ごきげんよう」


 彼女たちはキオにだけ優雅なカーテシーを残すと、そのまま図書館の奥へと去っていった。


 ルイには、一瞥もくれなかった。もちろん、挨拶などするはずもない。


 それは明確な悪意からというよりは、むしろ「そういうもの」として、彼女たちの世界ではあまりにも当たり前の常識なのだろう。視界に入れる必要のない存在。会話を交わす対象ではない存在。その無意識の区別が、何よりも深く鋭い壁となって二人の間に横たわっていた。


 令嬢たちの足音が遠ざかり、再び図書館に静寂が戻る。


 ルイは、彼女たちが見えなくなっても、しばらくの間、緊張で固まったまま動けなかった。


 やがて、小さな、震える声がキオに向けられた。


「キオ様......。よろしかったんですか?」


「何が、ですか?」


 キオが不思議そうに問い返すと、ルイは意を決したように顔を上げた。その青い瞳は不安に揺れている。


「あの方々は、きっと......私とキオ様とお話ししているのを、よく思われなかったかと......」


「僕は、話したい人と話しているだけですよ」


 キオは、きっぱりと、しかしあくまで穏やかにそう言った。


 そのあまりにも自然な言葉に、ルイは驚きに目を見開き、そして......ふっと、小さく微笑んだ。それは、まだ戸惑いと遠慮を含んだ、儚い笑みだったが、今朝の怯えたような表情とは明らかに違っていた。


「ごめんなさい、話が中断してしまって」


 キオがそう言うと、ルイは慌てて首を横に振った。


「いえ......! そんな......」


 その時、図書館の壁にかけられた大きな古時計が、重々しく時を告げる鐘を鳴らした。ゴーン、ゴーン、と低い音が響き渡り、午後の授業の開始が近いことを告げる。


「そろそろ午後の授業ですね」


「あ......はい......」


 ルイは抱えていた本を改めて胸に抱え直すと、キオに向かって、今日一番深く、丁寧にお辞儀をした。


「今日は......本当にありがとうございました。その......髪色のことも、本も」


「こちらこそ。また、ゆっくりお話しできれば嬉しいです」


 キオが心からの笑顔を向けると、ルイの表情が、ほんの少しだけ和らいだ。


「はい......。失礼いたします」


 ルイはそう言うと、逃げるように、しかしどこか名残惜しそうに、図書館を後にして行った。





―――


 夕刻。


 西の空が燃えるような茜色に染まり、学園の校舎に長い影を落とす頃。キオは一人、寮への帰り道をゆっくりと歩いていた。


 日中の喧騒はすっかりと鳴りを潜め、生徒たちの話し声もまばらだ。冷たくなってきた空気が、火照った頬に心地よかった。


 キオは、今日の出来事を一つひとつ、丁寧に振り返っていた。


 ルイと、少しだけ話せた。まだ「様」付けで呼ばれ、距離はあるけれど、教室での会話、そして図書館での出来事を通して、確実に一歩ずつ進んでいる気がする。


『今日はよくやった。頑張ったと思うぞ』


 シュバルツの声が、心の内側から温かく響く。彼の声は、いつだってキオを冷静にさせ、勇気づけてくれる。


『ありがとう、シュバルツ。君がいてくれたからだ』


『授業での答えも、図書館での小さな魔法も、お前自身の力だ。俺はただ、見ていただけだ』


『でも、君の助けがあったから自信を持てた。あの時、背中を押してくれなかったら、きっと手を挙げられなかった。本当に、ありがとう』


『......気にするな。俺たちは、ずっと一緒だ』


 シュバルツのぶっきらぼうな、しかし深い信頼のこもった言葉に、キオは小さく笑った。


 見上げれば、一番星が夜空色の空に瞬き始めている。


 この世界で、本当の友情を築きたい。


 明日は、もっと自然に話せるだろうか。


 ルイだけじゃない。あの太陽のように明るいカリナのことも、真面目そうで、けれどまだ壁を感じるセドリックのことも。一人一人のことを、もっと深く知りたい。


「きっと、できる」


 そう自分に言い聞かせて、キオは寮の扉を開けた。


 目の前には、まだまだ高く、分厚い壁がそびえ立っている。貴族と平民という、この世界の根深い常識。今日出会った令嬢たちのように、無意識に人を区別する視線。


 でも、少しずつ、確実に。時間をかけて乗り越えていこう。焦る必要はない。


 それこそが、この人生でキオが成し遂げたい、一番大切な目標なのだから。

最後までお読みいただきありがとうございます。

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