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桜いかだに乗って二人で

作者: 岩井みつき

初めて創作しました!よろしくお願いします!

ゆっくり時間が流れる目黒川。

水曜日、昼間。

ソメイヨシノが今にも飛び込んでしまうのではないかと思うほど、土手に大きな幹や枝をどこまでも張り巡らせていた。

テレビで満開の知らせを聞いてから二週間が経ち、薄い桃色のかたまりから一枚ずつ次から次へと、花びらがひらひら宙を舞っていた。

目黒川沿いには、さまざまな店が軒並び、都会の中でも落ち着いた雰囲気が町中を包んでいた。

玲司がアルバイトとして勤めているカフェ『フライミー』は、柔らかい木目を感じる外観に大きな窓が特徴の、美味しいスイーツを堪能できると評判なカフェだった。また、緒方店長の人当たりの良さに地元のお客さんが会いに来るということも少なくない。

玲司はフライミーの窓から見える桜のびらが、地面の片隅に狭そうに寄せられているのを、テーブルを拭く手を止めてぼぉっと眺めた。

フライミーで働き始めて一年が経過した。去年は、岐阜県から上京したばかりで右も左もわからず、ただ普通の大学生として一日をこなすことに精一杯だった。

厨房から、明朗快活な緒方店長の声が聞こえる。

「七分にタイマーをセットして……。そう、右のね」

今月アルバイトとして採用された新人の小林さんは緒方店長の言ったことを聞き逃さまいと、必死にペンを走らせていた。

小林さんは玲司と同じ大学の一年生だと緒方店長から教えてもらったが、校舎内で顔を合わせたことがないどころか、出勤時に挨拶するのみで、小林さんと会話を交わしたことは一度もない。

玲司はよく、相手の行動やしぐさを観察して背後にある感情を読み解いてしまうことがあった。

特に同じ空間にいる人に対しては、見たくなくても視界に入ってしまい、その人が纏う空気のゆらぎを感じ取ってしまう。

 玲司に愛嬌がなくとも、常に口が真一文だろうとも、客の考えていることを察知して距離を置いたり、時には話を聞いたり、悪目立ちすることなく過ごしていた。

 冷水の入ったジャグを運ぶ。その横に折った布巾を置き、ジャグの蓋がしまっていることを確認する。

 いつもと同じ毎日。変わらない風景。

 すると、店の扉が開き、春の強い突風が吹きこんだ。地面に落ちた桜とともに、雑誌から飛び出してきたような洗練された装いの、男女のカップルが入店した――それが咲希との始まりだった。

芯の強そうな咲希のふたつの黒目がすっと向き、指を二本立てて「ふたり」と言った。

玲司は表情筋が硬直したように目を逸らすことができなかった。上ずった声で「お好きな席へどうぞ」といった。何百回と繰り返してきた言葉が、初めて聞いた単語の連なりに聞こえて恥ずかしい。

「あそこにしよ」

咲希は店内を見渡し、大きな窓から綺麗な桜風景が見える人気の席へ吸い込まれるように向かった。顎の下で綺麗に切り揃えられた黒髪の毛先を揺らして歩く。

その後ろを歩く憲一は、玲司より十センチ以上背が高く、薄い青みがかったカラーサングラスが彼の色気を際立たせていた。黒の羽織の裾を優雅になびかせる。まるで指紋一つないガラスのショーウィンドウに飾られた高級時計のようだ。俺を見て、という思いがひしひしと伝わってくる。過度に強調された香水の匂いがつんと鼻を掠める。

咲希たちは席につくと、一つのメニューを仲良く覗き込んでいた。

どう見ても品位のある大人のカップルであった。だが、玲司は一寸の違和感を身に覚え、形容し難い不自然な点を探した。しかし見当たらない。二人の存在感が眩し過ぎたようだ、と思い込んだ。

大人の恋愛模様をじっと眺めている自分が俗物のように感じられて、少々嫌な気分になり、やっと目を離すことができた。「目じゃない、手を動かすんだ」自分に言い聞かせるように呟いた。

「すみません」窓際から声がした。

声の発信源は咲希だった。

「はい」

玲司は妙な緊張感を覚えながら、注文を取りにいった。

早くここから立ち去りたい気持ちを抑え「お伺いします」と今度は上ずらないよう注意して発音した。窓から入る陽の光が目障りだ。

「カプチーノを二つと、桜チーズケーキ二つ」

「はい」

玲司はすぐに業務員注文用のスマートフォンを操作した。桜のチーズケーキの下には『一』と書かれている。これはその商品の残量を表す数字だ。玲司は自分の運を恨んだ。

「すみません、本日桜チーズケーキが残り一つでして」

二人は、どうする? といった表情を浮かばせたが、咲希がすぐに「じゃあ私、チョコレートケーキにする」と指さした。

「はい。少々お待ちください」玲司は早口で言い、液晶画面を操作し、二人のもとから離れた。

時刻は十三時をまわり客が次々と入店をし、席が五割ほど埋まった。

玲司は淡々と業務をこなした。緒方店長や、小林さんがキッチンで仕上げた料理や飲み物を席に運んでいく。咲希のテーブルにも運んだ。運んで片付けて案内をする。体に染み込んだ動作をただひたすら繰り返すだけで時間が過ぎることは有り難かった。

咲希が会計をしにレジに来るまでは。

「お会計お願いします」

凛としたよく通る声だなと思った。玲司は踵を返し、大きな一呼吸をして会計へ向かう。

咲希は玲司の正面に立ち伝票を差し出した。玲司は受け取り、レジの液晶画面を操作する。

「合計二千六百円です。お支払い方法は?」

玲司は咲希を見た。咲希は鞄の中から何かを探しているようで、目は合わない。玲司は俯いた容姿端麗な咲希をじっと見ていた。別の星から生まれた生物のような美しい口元が開いた。

「今度は桜チーズケーキ食べにきます」

「え?」玲司は聞き返した。咲希はまだ鞄の中を探っている。

「食べ物の恨みは一生ですから」

咲希はまるで今日はいいお天気ですね、と日常会話するかのように言った。

玲司は理解が追いつかず、口が半開きになったとき「カードで」と聞き馴染みのある言葉が鼓膜に届き、はっとし指先を動かす。

玲司はそういえば、と思い出した。

「期間限定なんですよ。桜のチーズケーキ」と淡々と話す。

「そっか」艶やかな髪に光が反射する。小さい輪郭の中に精巧に配置させた、目、鼻、口。薄い皮膚が伸び縮みし、手の込んだ芸術作品のように見えた。

「すぐ来ないと終わっちゃいますね」

「桜が散り終わるぐらいまで、らしいですよ」

「あ、よかった」

目を細める。

「またお待ちしてます。」

玲司はレシートを咲希に渡す。

緒方店長が何かを言っている。横を見ると、小林さんが慣れない手つきでお客さんの元へ飲み物を運んでいた。玲司はそれを見て業務に戻ろうとしたとき「じゃあ、明日来ます」と咲希の声が聞こえた。

咲希の目が半円を描き、片方の口角を上げ魅惑的なほほ笑みを浮かべた。悪魔が天使の皮をかぶっているようだと思った。背中のジップから悪魔の尻尾が見え、隠しきれない彼女の本性が垣間見えた気がした。

「え? 明日ですか」

すでに扉に手をかけていた咲希に、玲司の声は届いていなかった。

憲一は外で誰かと電話をしているようで、スマホを耳から離さずに咲希とともに店の前から去っていった。

二人が見えなくなった頃、明日もシフトが入っていることを思い出した。


翌日、玲司は大学で一限の授業を受けていた。

終了のチャイムがなった後、同じ授業を受けていた優征が前列の席から「玲司!」と近づいてきた。右手に紙の入ったファイル、左手にコンビニのカレーパンを持っている。

「何? 今日も声でかいな」

「サークルのやつ書いてきた?」

優征は持っているファイルをひらひらさせた。

「ああ、持ってきた」

玲司はサークルの入部届の書類を優征に渡す。

「お、サンキュー」優征はファイルに書類を入れた。それを脇に挟み、カレーパンの袋を開ける。

「朝飯?」玲司はそのカレーパンを見た。

「そう。昨日、サークルの後輩とカラオケ行って、気がついたら朝まで歌ってた」と大きな口を開けてかぶりついた。

「あんまり羽目外しすぎんなよ」

玲司は手早く荷物をまとめ、二限の授業の教室へ向かおうと席を立つ。

「ちょ、そんな冷めた目で見るなよ~」

 カレーパンを口に頬張りながら「おい、玲司!」と大きな声を出す。

玲司は振り向いた。

「今日さ、あいてる? ダーツ行こうぜ!」

優征はダーツの矢を投げる素振りをしながら聞いた。

「ごめん、バイトある」

玲司は鞄を背負い直して教室を去った。

優征に初めて出会った一年前、玲司と同じく上京組だったことに親近感を覚え意気投合し、毎週のように遊びに行っていた。しかし、最近は入部したてのテニスサークルの後輩とつるんでいるところを見かけることが多い。競馬やパチンコで勝った、負けた、と興奮気味に話かけられるが興味を持つことができず、距離を置くことが多くなった。


玲司は授業を終えた後、桜を鑑賞する人々を横目に、早足でフランミーに向かっていた。地面に落ちている桜の花びらが足を踏み出すたびに風にのって数センチ浮いた。

玲司はフランミーにつくと、制服に着替え、鏡で髪型の乱れているところを整えた。手を洗いながらいつの間にか、咲希のことばかり考えていたことに気が付いた。

「おはようございます」と緒方店長に挨拶をしたら、隣に知らない女性がアルバイトの制服を着て立っていた。

「おはよう、佐々木くん。今日が初日の関さん」

緒方店長の隣に立っている関鈴子は「よろしくお願いします」と軽いお辞儀をする。茶髪を一つに結んでおり、腰にむすんだエプロンの紐がその痩身を一層引き立てていた。

玲司は軽く会釈をした。自然と、それから鈴子と一度も目を合わせることはなかった。

玲司は桜のチーズケーキの在庫を確認しようとキッチンの冷蔵庫の扉を開けた。今日はまだ売れきれていないようで、おとなしく眠っている五個のケーキは目覚める瞬間を今か今かと待ち焦がれていた。

 営業のピークである十三時から長い針が三周過ぎた十六時。店に燦々と差し込む西日が、昼から夕方への時間経過を感じさせていた。

玲司は何度も出入り口の方を見て、落ち着きがなかった。

抜け殻になったテーブルの上の食器を片付けながら咲希のことを考えた。

もしかしたら気が変わって来るのをやめてしまったのか、それとも、予定が入って来られなくなってしまったのか。

重ねた食器を洗い場に運んでいたとき、水がグラス目一杯に入っていることに気が付かず、グラスから水が溢れた。玲司は急いで店の裏から取ってきたタオルで腕やエプロンを拭いた。そして足元の広く床を濡らしているところをしゃがんで拭いていた。

「最悪だ……」

水が染み込んだ布巾を流しで絞り、乾いた布巾を持ってそのテーブル席に戻ってきたとき、店の前に立つ、見覚えのあるシルエットが目に飛び込んできた。

そして形のいい頭がこちらを向いて目が合った。手に持った布巾を後ろに隠す。

咲希は、にっこり笑顔を作って手を振った。

店の扉を開け、咲希は「こんにちは」と玲司の元へ歩いていった。

「どうも」

玲司は込み上げる嬉しさを必死に抑えた。

咲希は一人用のカウンターに座りながら玲司に話しかけた。

「桜のチーズケーキ今日はまだある?」

「ありますよ。五個」玲司は五本の指を広げた。

咲希は、はは、と笑って「五個もあれば安心だね」と言った。

「飲み物は、どうしますか?」

「ブレンドでお願い」

「はい」

玲司は高鳴る心臓のファンファーレを背景に、しっかりした足取りでキッチンへ向かう。

キッチンでは、落ち着いた客入りだからか、緒方店長と鈴子は暇を持て余すように喋っていた。二人は注文が入ったことに気がついていないようだった。

「緒方店長」

玲司は奥で楽しそうに喋る緒方店長に声をかけた。

「あ、なに?」緒方店長はその場で首だけ捻って、玲司に問いかけた。

「ブレンド、入りました」

やや間があって「ああ、ブレンドね」と言い、コーヒーの準備をし始めた。緒方店長と鈴子は年齢が近いからか、親しい仲に見えた。

 その後、何回か桜のチーズケーキが出て、冷えた冷蔵庫の中には残り一つになった。

咲希は満足そうに平らげた後、ファッション雑誌を広げて眺めていた。

窓の外はいつの間にか、深い青に染まって眠っていた街路灯が静かに輝きだした。

玲司は、店先の看板を『close』に返し、シンクに溜まった洗い物を片付けていた。緒方店長と鈴子はまとめたゴミ袋を持ってゴミ捨て場に行っていた。

店内に最後まで残っていた客も帰り、フランミーには咲希と玲司の二人きりになり、咲希はぐっと背伸びをして白の上着を羽織った。

咲希が伝票を持ってきたので、玲司は濡れていた手を拭きレジの前に立つ。

「とっても美味しかったです。二日間通った甲斐がありました」

咲希は朗らかに言った。玲司は砕けた様子の咲希を見て自然と笑みが溢れる。

「俺も食べてみます。あと一個なんですよ」

「ぜひ食べてみて。あ、そうだ」と咲希は財布の中から名刺の半分ほどの大きさのカードを差し出した。淡い生成り色のカードの表面に細かい格子状の絹目が表現されており、黒の文字で『グラフィックデザイナー 浪川咲希』と書かれていた。その下には、住所や電話番号、SNSのIDが記載されていた。

「ここに感想送ってよ」と咲希はインスタのIDの文字列を指差した。

「……浪川咲希さん」

玲司は何度もその四文字を読み返した。

「お兄さん、私のことずっと見てるから」

 玲司の白眼の面積が数センチ広がって咲希と目があった。

玲司はかっと体の温度が上がるのを感じ、背中に熱が籠った。

「いや、はい。すみません」

うまい言い訳が思いつかず、口元が絡まった。

慌てふためく玲司を見て、咲希は笑い声を抑え、肩を小刻みに揺らした。

「冗談です」

咲希はわかりやすく反応を示す玲司を困らせたくなってしまった。

「冗談……」

玲司は恥ずかしさのあまり体を縮めた。

すると、裏の扉が開き物音が聞こえた。「段ボールは溜まったらでいいからね」と伸びの良い緒方店長の声と、「わかりました」と控えめなトーンの鈴子が話しながら店に入ってきた。ゴミ箱には新しい袋がかけられていた。

咲希は「じゃあ」と軽やかに足音を響かせ、フランミーから出ていった。


玲司は勤務終了後に店の照明を半分ほど消して、緒方店長に桜のチーズケーキを一つ購入していいか聞いた。緒方店長は珍しがったが、快く許可した。

玲司は椅子に深く腰掛け、皿の上のほんのり桃色をした美しい二等辺三角形の先を、小さいフォークで刺した。生地は硬すぎず、柔らかすぎず、チーズケーキの断面が少しほぐれた。

フォークの上に乗っている期待の塊を口にした瞬間、甘しょっぱい味と残念な気持ちで胸がいっぱいなった。やはり『桜』と名のつくケーキは苦手だと玲司は思った。完全に罠に引っかかった小動物の気分だった。


玲司は自宅に着いてから、胃の不快感を和らげようと夕飯をかき込んだ。急激に上がる血糖値に意識を奪われながら、咲希からもらったカードに書かれているインスタのIDを検索した。

サークルの活動日を確認する以外で開くことのないインスタが、大活躍できる日がやってくると夢にも思わなかった。

浪川咲希。すぐにユーザーが見つかった。

『桜のチーズケーキ食べました』

送信した後に、最初に名乗るべきだったのではと思った。玲司は三秒前の自分戻りたくなった。

しかしその心配することはなく咲希からの返信はすぐに返ってきた。

『どうだった? おいしかったでしょ?』

『俺にはよくわかりませんでした。桜は見るものだと思います』

『残念。じゃあ、もっと美味しい桜が食べられるところ教えてあげる』

『別に桜食べなくても生きていけますし』

玲司は投げやりになって返信した。

『土曜日、十二時目黒駅集合ね』

玲司は慌ててスケジュールを頭の中で思い出した。土曜日はテニスサークルの活動日だ。

『待ってください、急すぎです』

玲司は急いでメッセージを打ったが、それから、咲希の返信が来ることはなかった。

玲司はスマホを机に置き、ベッドに体を放り出した。

目に見えない埃が舞い、何かの歯車が少しずつ狂い始め、しんとした部屋に鳴り止まない心臓の音がうるさく響いた。


咲希と約束をした土曜の十二時、空は雲に覆われ、すぐにでも雨が降りそうだった。

休日の目黒駅前の人混みを避けるため、玲司は道路を挟んで向かいの小さな公園で咲希を待っていた。昨夜、丁寧にアイロンをかけた臙脂のシャツを着て、雑多に行き交う人の中から咲希を探していた。

辺りはだんだん暗くなって、ぽつ、と臙脂のシャツに灰色のしみができた。雨が降ってきた。

駅周辺には傘をさしたり、慌ただしく駅に向かったりする人々で溢れる。玲司は急いで公園の端に佇む東屋に入り、まっすぐ降り落ちる春雨を眺めた。

玲司は色とりどりの傘に遮られ、必死に首を長くし探すが、一人ひとりの顔を見ることができない。

すると、後ろから「お待たせ」と声がした。

玲司は急に声をかけられどきっとした。振り返ると、レモン色の傘を畳みながら東屋の屋根に咲希が入ってきた。膝丈の白いワンピースがふわりと揺れる。

「マーガレット、みたい……」

玲司の頭に浮かんだ言葉はいつの間にか音になって口から出ていた。

「え?」

咲希は、傘についた水滴をふり落としながら聞いた。

「いいえ、なんでもないです」

玲司はそっぽを向いた。そうしないとずっと見つめてしまうから。

そして咲希は「じゃあ、行こっか。桜スイーツの旅!」と言って、漫画に出てくる主人公のように、拳を東屋の天井に向けて突き出した。

「だから、俺苦手なんですけど」

咲希はすでに歩き始めていた。

玲司の声は届いてないようで、慌てて後を追った。

咲希の傘についていた雫があたりに飛び散って、ぬかるんだ砂利に二人の足跡ができる。


二人は傘をさして細い路地を歩いていた。傘がぶつからないように玲司は細心の注意を払った。

「ねえ、君の傘入れてよ」

 咲希は玲司の返事を聞く前にレモン色の傘をたたみ、紺色の傘に入り込んだ。

玲司は居心地悪そうに紺色の傘を右にずらして一人分の空間をあけた。二人は一つの傘の下、微妙な距離感で歩いた。

玲司は、左肩がずいぶん濡れて冷たくなってきた頃、気になっていたことをぽつりと話しだした。

「あの、なんで誘ってくれたんですか。あと普通に他人と一緒の傘、嫌じゃないですか」

濡れた地面に向かって言う。

「玲司くんでしょ」

玲司は名前を呼ばれたことに驚きを隠せないでいた。

咲希は得意げになり「あと知ってることはね」と親指から一つずつ指折りした。

「カフェで働いてる、桜のスイーツが苦手、たぶん大学生、それにちょっと暗そうな性格してる」

 と横目で玲司を見た。

「いや、暗そうな性格って……」

「こんなに玲司くんのこと知ってるんだから、他人じゃないでしょ」咲希は同意を求めるように言った。

そんな咲希の無邪気さは一点の曇りもない純粋な子供のようだった。取り繕っている雰囲気は一切感じられなかった。

玲司は「その、つまり」と言葉を濁しながら「デ、デートするのとは別の話になりませんかっていう意味で」

 絞り出すように言い切り、耳の末端が熱くなるのを感じた。

咲希は玲司を覗き込み「そうかな。そうだよね。迷惑だった?」と小首を傾げながら聞く。

「別に迷惑とかじゃないですけど……」

「よかった」

咲希はステップを踏むようにぴょんぴょんと跳ねる。紺色の傘は慌てて追いかけてくる。

咲希は歩きながら、ふと気がついた。

自然と玲司が、咲希の歩幅に合わせて歩いていたことを。玲司の左肩の灰色のしみは少しずつ大きくなっていく。


「寄り道していい?」

咲希が急に言い出してから十分ほど経過した。

行き先を聞いても、内緒の一点張りで答えてくれなかった。路地はどんどん狭くなっていき、車一台分の道を二人はゆっくり歩く。玲司はどこに向かって歩いているのか分からず左右を見渡した。普段は家と大学とバイトの往復の日々なので、上京して丸一年、未だ目黒区の全容が掴めていなかった。

咲希は「ついた」と急に立ち止まる。

知らないと通り過ぎてしまうような一軒家の門を咲希は慣れた手つきで開け、玲司の傘の下から駆け足で庭の奥へ走っていく。玲司は人の敷地に勝手に入ってしまうのではないかと不安になったが、門に取り付けられている看板が目に入った。

――黒羽根養魚場

「養魚場?」

ふと壁沿いに蔓が這い上がっていているのが目に入る。閑静な住宅街に不意に現れる古い屋敷のような不気味さを感じた。

そして玲司は中に入り庭を見渡す。至る所に置いてある大きいバケツのような容器を覗いた。やや緑がかった水の中に赤い体をした金魚が十匹ほど泳いでいる。玲司はしゃがんでじっと観察した。その小さな生き物たちは雨粒が滴る水中を不規則に、休むことなく一生懸命にヒレを動かしていた。エアーポンプから泡がぶくぶく吹き出している。

「面白いでしょ?」

咲希は、いつの間にかレモン色の傘をさして立っていた。

「ここで金魚を売っているんですか?」

「そう。いろんな種類の金魚を売っているの」

咲希は玲司に傘が当たらないようにしゃがんだ。

「この子達も」と咲希は言って、そして続けた。

「小さいころ、お母さんにねだって買ってもらった金魚がすぐ死んじゃってとっても悲しかったな」

咲希は、古い記憶の引き出しを一つ開けていた。い

「それからは売られているものを、愛でるようにしてるんだ。こうして見てると欲しくなるけど、私が飼ったらまた死なせちゃうから」

「俺も上手に飼える自信ないです」

玲司は水槽の中の一匹の金魚を見つめた。他の金魚を追いかけているようだ。

咲希は「この店のオーナーに挨拶をしようとしたらいなかった」と言っており、仕方なく二人は黒羽根養魚場の門の扉を引いて、次の目的地へと向かった。


雨が降り続ける中、明らかに人が列作っている。目黒の有名なカフェに辿り着いた玲司と咲希は、その店の入り口から並ぶ人たちを俯瞰した。

「けっこう混んでるね」

「仕方ないですね」

二人は最後尾に並んだが、列はなかなか進まなかった。

「あれ? 玲司じゃん」

急に名前を呼ばれ玲司は振り返る。ジャージを着た同い年ぐらいの四人の集団の中の一番後ろに、見たことのある顔――優征が、背中にかけたテニスラケットを揺らしながら話しかけてきた。

玲司は最悪の事態に出会してしまったと思い血の気が引いた。まさかテニスサークルのメンバー鉢合わせるとは。

優征は一箇所折れたビニール傘をさしている。

「雨降ってきたから、練習中止にして飯食いにきたんだけど」

玲司と面識のないサークルのメンバーは、誰? と言った様子で玲司と咲希を交互に見つめる。

「ああ。そうだよな、雨だし」

玲司は、優征に咲希のことを一切話したことがなく、自然を装うように咲希を背後に隠した。しかし、優征はその背後に隠された明らかに容姿端麗な咲希の姿を見逃さなかった。

「何お前、彼女いたの?」

優征は周りにも聞こえてしまうほどの声量で言った。

前に並んでいた恋人が振り返るのを玲司は視界の片隅で分かった。

「そういうのじゃないけど」

早く行け、と目で諭すがその空気を察さずに優征は咲希に「こんちはー」と言っている。

 咲希は慌てている玲司を見て、機転をきかせて玲司の腕に自分の腕を絡めた。

「あーっ。見つかっちゃったね」と芝居がかったように玲司を上目使いで見上げ「今日は一日借りてるんです」と玲司を引き寄せた。

 優征はそんな二人を見て何も怪しむことなく「お前は幸せ者だな~」と笑い、またテニスラケットを揺らしながら四人で歩き去っていく。

 咲希は後ろ姿が見えなくなってようやく、絡まった腕をさっとはらい、玲司は大きく息をふっと吐いた。

「ごめん、なんかやばそうだったから」

咲希は片手で申し訳なさそうにジェスチャーをした。

「こちらこそすみません。なんか、あいつ良い奴なんですけど、ちょっとうるさいところあるから」玲司は困ったように眉をひそめた。

 二人はその後二十分ほど待ち、やっとの思いで順番が来て、目当ての桜をふんだんに使ったスコーンと、温かい紅茶を嗜んだ。

玲司の左肩のしみはいつの間にか乾いていた。

厚い雲に覆われている空は目黒の街を暗く染め、夕方と夜との境目を曖昧にした。

煌々と輝く明るい目黒駅に吸い込まれるように人々が雨宿りしている。その集団の中に玲司と咲希もいた。

「今日はありがとう。気をつけて」

「咲希さんも、気をつけて」

たたまれた紺色の傘の先から水が滴り、地面に小さな水たまりができていた。

「うん、またね」咲希は改札を通ろうとする。

玲司は込み上げる何かを伝えたくなった。

だがその何かは具体的な言葉にならない。このまま別れてしまったら、きっと一生会えない気がした。  

咲希は改札を通りまっすぐホームへ向かっていた。そして白いワンピースの後ろ姿は見えなくなった。


 電車に乗った咲希は、水分を吸ってしっとりしたワンピースにかかった雨粒を手で払いながら、最後に一言何か伝えるべきだったのではないかと思索した。

 咲希は大岡山駅に着くまでの数分間、今日の出来事を反芻した。電車に揺られながら、楽しい思い出の余韻に浸かっていた。


咲希は憲一と同棲する部屋のドアを開けて、しんと静まり返る音に耳鳴りを覚えた。憲一はまだ仕事から帰ってきていないようだった。

机の上には今朝、憲一が使ったままのマグカップが一つ置いてあった。白い陶器に金色の縁、滑らかに湾曲した側面には、月面のクレーターがはっきりとわかる半月のデザインが描かれている。食器棚の中には銀色の縁に、憲一と反転した半月が施されたものが眠っている。

これらのマグカップはある日、憲一が「会社で貰った」と持って帰ってきたものだった。贈り主は誰だか見当もつかないが、絶対に別れないという確信がないと、対のデザインのものは選ばないだろう。この世の男女が別れない保証はどこにもないのに。

先月、四周年を記念して綺麗な夜景が見渡せる六本木のレストランで食事をした。

咲希は、憲一が好んでいたブランドの服を着て、全身を上品な黒で統一した服を着ていたが、憲一がそんな細やかな気遣いに気がつくことはなかった。

食後のワインを堪能していたときだった。「結婚してほしい」と婚約の話を持ちかけたれたとき、咲希はいつか訪れるこの日を忌み嫌っていた。

酔いが回って潤んだ目をした憲一に咲希はまっすぐ向いたまま、「ありがとう」とただ言った。その後に続く言葉を、はっきり言ってしまおうと思ったそのとき、憲一の右ポケットに入っているスマホが小さく震えた。憲一は咲希を気にすることなく席を立ちながら通話を始め、店の外に出ていった。

いつからか咲希は、こちらを見ているはずなのに、どこか遠くの、違うところを見ている憲一に本音を言うことができなくなってしまった。

咲希は手に持ったワイングラスをくるくる回し、そして一気に飲み干した。こつ、とヒールの音がむなしく鳴った。


月曜日、玲司は大学の授業を受けていた。教室の片隅に影を消すようにひっそり座っていたが、優征は目を光らせて玲司のもとに走ってきた。

「おい玲司、聞いてないぞ、お前に彼女がいたことなんて! 最近ノリ悪いなと思ったら彼女とよろしくやってたわけか」優征は勢いのまま一息で言った。

「誰にも言ってないから当たり前だろ」

玲司は触れられたくないように、そっけなく呟いた。

優征はその態度が気に入らないようで、苛立ちをあらわにした。

「なんで隠してたんだよ。親友だろ?」

「別に隠してたわけじゃないけど」

その後、少し沈黙が続いた。

廊下から優征を呼ぶテニスサークルの後輩の声が聞こえた。

「なんか、変わったなお前」

優征は教室を出て行った。

怒りと、少しの悲しみを含んだ優征の背中を見て、大切な人との距離ができてしまったように感じた。


玲司はその日の帰り道、優征に言われたことを反芻していた。まっすぐ家に帰る気になれなく、先週咲希と一緒に訪れた黒羽根養魚場に行くことにした。

雨の降っていない日でも不思議な孤独感が漂う黒羽根養魚場の黒い門を押した。

あたりはしんとして、今日も養魚場の建物内からは人の気配は感じなかった。

庭に置かれた水槽を覗くと、緑が一段と濃くなった水の中を泳ぐ金魚の数は、先週の半分ほどに減っていた。どこかに隠れているのではないかとしばらく眺めていたがどこからも出てくることはなかった。きっと誰かの家の水槽で元気に泳いでいることを願った。

玲司は、数匹の仲間を失って悲しそうな金魚たちを目で追った。しかし、その滑らかに泳ぐ姿は、広くなった水槽を楽しんではしゃいでいるようにも見えた。

誰もいない養魚場で玲司の鼓膜を揺らす小鳥のさえずり、通り過ぎるトラックのエンジン音、途切れることのないエアーポンプの意味を持たない音が心地よく響き、騒ぎ立っていた胸の内が凪になっていく。

玲司は咲希にメッセージを送ろうと、インスタを開いた。

前回の会話が、『待ってください、急すぎです』で終わっていることを見て、恥ずかしさのあまり、履歴を消した。

玲司は文字を打った。

『明日、会えますか?』

咲希の返信はすぐにきた。

『十七時の仕事終わりでもよかったら会えるよ』

『終わったら連絡ください』

『はーい』

玲司は咲希の明るく話す姿を想像して頬が緩んだ。


翌日、玲司は授業のない学校へ行き、優征を探していた。いくつかの教室を見て回ったが、優征の姿は見えなかった。

きっとサークルの後輩と一緒にいるのではないかと考えた玲司は、一度も足を踏み入れたことのないテニスサークルの部室へ向かうことにした。

玲司は校舎中を歩き回り、そして部室の前についた。ドアノブに手をかけた時、中から人の話し声が聞こえ、玲司は緊張し手に汗をかいた。

思い切って扉を開けると、優征はサークルの後輩三人と話していた。優征は急に入ってきた玲司を見て目を逸らした。後輩の三人は軽い会釈をして、そしてまた玲司の存在を気にしていないように話し始めた。しかし、優征と玲司の二人のあいだは空気が凍りつき沈黙していた。

「優征」

玲司は座っている優征に近づいた。優征はそっぽを向いている。

「ごめん」と玲司は一言だけ言って、そして鞄の中からカレーパンを取り出した。ビニールの袋が擦れる音がした。

 優征がその音に反応し振り返った。

「俺、友達お前しかいないから、絶交されたら困る」と玲司は言った。

優征は玲司の告白に、大きな声で笑い「寂しいやつ」と言ってカレーパンを受け取った。そのカレーパンの封を開ける寸前で優征は思いとどまった。

「別に羨ましいとかじゃないからな。お前に彼女がいるの」

優征は拗ねたように言った。

「だから彼女じゃねえって」と玲司は笑った。

玲司にもらったカレーパンをみた後輩の三人は「優征さん、何もらったんすか~」と騒ぎ始めた。玲司はそっと場を離れ、部室のドアを閉めた。中からは楽しそうにはしゃぐ優征たちの声が聞こえた。


目黒川の揺れるみなもが、一定の間隔で立てられた街路灯を反射し夕闇に白い光を浮かび上がらせている。

玲司と咲希は目黒川にかけられた橋の上で、散った桜の花びらが川の流れにのってどこかへ運ばれているのを眺めた。

咲希は、橋の手すりに両肘をついて、下を覗き込んでいた。

「花いかだって言うんだって。あんな感じで花びらが水面に浮かんでいるのをね。頼り無いいかだだよね」と笑った。

玲司は機嫌の良い咲希を見て、切り出した。

「あの、ずっと聞きたかったんですけど、最初に出会ったとき咲希さんと一緒にいた、背の高い男性って」

すると玲司が言い終わる前に咲希は口を開いた。

「結婚式でさ、誓いのキスのときに『ちょっと待ったー!』って言って、花嫁を連れて逃げるシチュエーション、憧れない?」と話題を逸らした。

「ちょっと待ってください。なんの話ですか? 結婚するんですか?」玲司は真剣に言う。

「そう」

「え?」食い入るように咲希を見つめる。

「……うそ」咲希は、まっすぐ見つめる玲司をからかい、笑った。

「付き合ってた人だよ、少し前に別れた」

「びっくりした~。驚かせないでくださいよ」とほっとした玲司は、さらに問いかけた。

「なんで別れたんですか? 悔しいけど、すごくかっこよかったのに」

「近すぎて見えなくなることってあるでしょう?」

咲希は静かで落ち着いた口調で話し出した。

「玲司は誰かのこと心の底から好きになったことある?」と玲司をみた。

「俺、恋愛するのが怖いんすよ」

「恋愛するのが怖い?」

「俺の親離婚してて、物心つく前に父親は蒸発していなくなったんで、母親と二人で暮らした記憶しかありません。」

咲希は小さい手を大きな手が握っているところを想像した。

「岐阜県の小さい町で暮らしてたんで父親の良くない噂はすぐに広がって、俺は嫌気がさしたんで絶対にここを出て行いこうと思いました。母親には止められましたけど。父親みたいにどこか遠くに行って、もう戻ってこないと思ったんでしょうね」

咲希はただ聞いた。

手すりに絡まった桜の花びらは、いつの日かの雨風にさらされ、元の綺麗な色を失っていた。

「でも、俺は環境を変えたかっただけで、家族を想う気持ちは変わらないんですよ」

咲希の想像する大きな手が一つ増えた。

「だけど、俺は父親と同じ血が流れていて、いつか誰かを傷つけたり裏切ったりするかもしれない。だから俺は好きになるのが怖い」

咲希は、影のかかった玲司を見た。

「だけど、咲希さんだけはもっと知りたくなってしまうんです」

 玲司は、目黒川から視線を咲希に移した。

「ありがとう」と咲希は微笑み「でも、婚約された元彼振ったばかりだから」と言った。

「え、そうなんですか」

玲司は驚いて咲希をみた。

「数週間前だよ、私の人生変わり始めたのは」

 後ろで高校生の話す声が聞こえた。春の暖かい風が頬を撫でる。

「玲司の不思議な雰囲気に惹かれたの。なんか全てを見透かされているような」

玲司はじっと咲希をみた。

「ちょっと賭けてみたくなっちゃって。私の全部を捨ててでも、心の赴くままに生きてみようと思って、あなたに連絡先を渡した。玲司が良い子でよかったよ」と咲希は笑った。

「玲司の地元では、ある程度の年齢で結婚して子供も二、三人なんて当たり前かもしれないけど」でも、と話を続ける。「違う苗字だけど、それなりによく知ってる人、くらいの距離感が肩に力入らないでいいじゃん。近すぎると、見えなくなるから」咲希は語尾が弱くなった。

「そうですね」

「これからも気が向いたら会ってよ」

咲希の対の瞳が玲司を見つめ、揺れるみなもがきらりと輝いた。

玲司は生まれた場所からたくさんの取捨選択をしてきたことを思い浮かべた。

雲が雨になって降り、お玉杓子は蛙になりいずれ死を迎え、咲き乱れる桜が散り季節が進み、区切りのつくごとに過ごす環境を変え、そして隣にいる人を選ぶことを。

玲司は川に浮かんだ花いかだを見た。

「あのいかだに咲希さんを乗せてどこまででも漕ぎたいです」

「偶然! 同じこと考えてた。二人で遠い楽園にでも行って、だれも知らないところに行きたいな」

そう言うと、咲希は軽快なステップを踏んで橋を渡った。玲司が慌てて追いかける。

玲司と咲希は街路灯に照らされた夜桜の下を楽しそうに駆け抜けた。

最後まで読んでいただきありがとうございました!

小説家になりたいです。精進します。どなたかご教授願います。

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