謎の損壊④
リハビリに慣れてきたオレに衝撃の言葉が浴びせられたのは、ついさっきのことだ。とうとうオレの退院日が決定した。
いつか来るだろうとは予測はしていたものの、はっきりと日時が設定されてしまうと焦るより他ない。
普通なら喜ぶべき退院が決まったことなのだが、今のようにオレの個人情報がまったくの他人に置き換えられている状況において、この病院を退院することすら困難な状況が予想できる。
要は金が払えないんだ。
免許など戸籍が入れ替えられている以上、これまで貯めていた貯金なんて、とっくに他人のものにされているに違いない。
高橋さんに通帳を預けて確認してもらうことも考えたけれど、この病院に勤める彼女に、「貯蓄ゼロの男が入院して介護させています」なんて事実を知られてしまうのは非常にマズイ。
それでも本当に金が無ければ退院出来ないため、オレは病院内にあるATMコーナへ装飾用の義手を使い、何とか通帳とカードの残金確認をすると、どういう訳か幸運にも現住所が違うだけで元通りの残金が銀行通帳に残されていたのだ。
普通、おとしめたい相手の預金なんてものは真っ先に使用不可にするのが定番だろう? という疑問が頭をよぎったけれど、ここはひとまず喜んでおいて、真相は退院後に探ればいいと思っておく。
さあて、今から考えると高橋さんともお別れか。彼女がオレを担当してくれてよかった。
そして、彼女の胸ともお別れか。って結局は体かよ! と、寂しさまぎれの考えに自分で突っ込んだが、確かにこの入院生活中、彼女の胸はオレの妄想の領域に破壊力があった。
しかもオレは両腕を失っているため、夜にこっそりトイレで怪しげなことさえ出来なかったんだ。
うむ。こうやって改めて考えると、オレの体のごく一部が諸手を挙げて同意してやがる。その賛同に応えてやりたいのはやまやまだが、いかんせんどうしようもない。退院してから存分に妄想を働かせるしかないな。
そんな不埒なことを考えていると、とうの高橋さんが血圧と体温を測るために病室へやって来た。
オレは高橋さんの手で体温計を脇に入れられ、反対側の二の腕に血圧計から伸びる灰色の膨らむやつが巻かれる。いつもどおりの検査だが、さっきの妄想のこともあってどうしても視線が彼女の胸元へ惹き付けられてしまう。
気づかれているかも知れないと思いつつもチラ見していると、薄いピンクのナース服からうっすらとブラジャーが透けているのが分かった。
ヤバイ。またオレの血が一カ所へ集中していく。
ピピピピピ……。
体温計が計測終了の電子音を響かせてくれたため、オレは危うく理性を取り戻した。
「あら椎葉さん、少し体温が高いですね。血圧もいつもより低いようですし、ご気分が悪いのですか?」
「いえ! 大丈夫です。た、退院が近いので興奮しているのかも、し、しれませんね」
その上目遣いで顔を覗き込むのはカンベンしてください高橋さん。何よりナース服の胸元から少し谷間が見えてますから。
「そうですね。椎葉さんもうすぐ退院されるんでしたね。少し寂しくなります」
「オ、オレもです」
素直に答えるのが一番自然なので、そう答えると彼女はうっすら笑って「お大事に」と言い残し、隣のじいさんのベッドへ向かった。
今の笑いって、仕事用の愛想笑いじゃなかったよな。そりゃまあ、一番手のかかる患者だったんだろう。ペットでもしばらく面倒見れば愛着がわくってのと同じだろうか。
カーテンが開けっぱなしになっているじいさんの血圧を測る高橋さんへ視線を向けると、ここからでも背中のブラジャーのラインが透けているのが見える。地味なベージュをつけるか、キャミソールを重ね着しておけばこんなことないのに。彼女って割りと天然なんだな。
それにしても……触りてえ!
妄想をフルに使って頭の中で彼女の背後から手をまわし、胸をギュッと掴むと、手の中に本物の乳房に触れたのと同じ柔らかな手触りと、先端にコリコリした乳首の触感が伝わってきた。
「ぎゃあああ!」
絶叫をあげて高橋さんがその場に崩れ落ちた。
何が起きたのか分からずに一瞬ぼうぜんとしてしまったが、彼女の足元から赤いしたたりが広がり、ピンクのナース服が真っ赤に染まっていく。
「ナ、ナースコールを! 早く!」
同室の若者に叫ぶとガクガクしながらコールボタンを連打するが、何度押しても早く来る訳がない。
だが幸いにも彼女の悲鳴を聞きつけたナースたちが駆けつけて、中にいた看護婦長が他のナースへ指示を出し、目の前で起きたことにショックを受けているじいさんは別室へ連れて行かれた。
その後、駆けつけた医師によって応急処置が施された彼女は1階の救急救命センターへと運ばれて行った。
……オレが何かやったのか?
あのタイミングではそう思う他ない。だがあり得ない。あり得ないはずだ!
そこに残された床一面の血だまりと、鉄サビ臭い匂いを嗅ぎながら、オレは自問自答を繰り返していた。




