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アフターゾンビアポカリプスAI百合 〜不滅の造花とスチームヘッド〜  作者: 無縁仏
セクション4 殺戮の地平線  世界生命終局管制機 アルファⅣ<ペイルライダー>
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番外編 アイテールとオリヴィア その1  

「よし……」


 金色の髪をした小さな娘は、私物を詰めた段ボール箱を五箱、部屋の入り口のそばに置いた。

 普段から整理整頓は欠かさなかったが、今回は徹底的で、あるいは自己破壊的ですらあった。完璧に生活感が無くなった部屋を見渡して、満足げに汗を拭った。頭の後ろで束ねられた、長く伸びた癖毛が、月光を孕む稲穂のように輝いた。

 この部屋に来た時と全く同じ風景。

 据え付けの家財しか残されていない。

 温かくて清潔なベッド。生まれつき身に纏う芳香、花に似た甘い香りがシーツに染み込んでいる点を除けば、あるいは来た時より綺麗だ。

 点灯時間が十分に残っている蛍光灯。

 常に正確な時刻を刻み続ける時計。

 中身を処分されて寒そうな本棚とクローゼット。

 ダストボックスまで空にしなくてよいかと思っていたのだが、結局してしまった。

 冷蔵庫には今日配給された分の飲料と、『最後の晩餐』としてリクエストした夕食が入れてあるが、それももうすぐ無くなる。


 ベッド横のナイトテーブルの上には家族写真を立てていた。出発する前に名残惜しくなって、どうせもう一度見ることになるだろうから、これだけは片付けずに放置している。必要なものは全てその周辺の収納スペースに集約されていた。即ち、明日ための替えの下着と、最初の家族の遺品であるロザリオだけ。

 後はすっかり全部、段ボールの中にしまい込んでしまった。蔵書の処分に二箱。『市長』に押し付けられた、コスプレ用としか思えないふざけた衣装を詰めるのに二箱。

 その他の、細々とした品物の処分に一箱使った。

 これからの自分にはどれも必要が無い。


 ここで一人の人間、年若い風貌の娘が、三年ばかりも生活していたとは、誰も、決して思わないだろう。

 自分の生活全てを詰めた段ボールにタグを貼り付ける。『再生処理施設行き』。

 署名する。『アイテール』。それが彼女が名乗る名前だ。姓は敢えて書かない。懐かしい人を思い出してしまうからだ。

 昔は公的書類には別の名前を書いていたが、すっかりこれで落ち着いてしまった。


 そう言えば自分の顔も見納めだと思い至り、洗面台の姿見の前に立つ。

 備品として用意してもらった台座に乗って、自分の容貌を確かめる。

 アイテールは、アイテールを見た。

 殺風景な部屋には似合わないほど繊細な顔立ち。年の頃は十代の半ばか、それより幼く見える。まったく、無害そうな少女だった。些か作りの甘いところがあるが十分すぎるほど整った目鼻。見開かれた目に緑色の瞳、光を取り込んで爛々と輝く。かつてはビスクドールに似ていると度々言われたが、アイテールはビスクドールを画像でしか見たことが無い。大抵の人間がそうだろう。彼女が生まれた時代で、それは既に博物館に飾られる古い芸術品だった。

 いずれにせよ、とアイテールは思う。ビスクドールではないだろう。こんな手負いの獣じみた危うい眼光をしているわけがない。

 訓練所では髪型は自由だというので、折角だからと、伝え聞く祖先の真似をして、金色の癖毛を長く伸ばしていた。

 邪魔にならないよう結わえていたが、何とはなしに解いてみる。ふわりと翼のように髪が広がる。幼かった時代もこうやって髪を伸ばしていれば、男と間違えられることもなかったのかなと無益な想像をする。昔はガキ大将だったし、髪も短くしていた。女顔の少年だと長い間思われていたらしい。

 スカートを履いてからは周囲の見る目も変わったが、どうであれ幼少期は喧嘩で負けたことが無かった。父やその友人たちのような立派な軍人になれると思っていた。


「これがお前だ、アイテール。いかにも女の子じゃないか」


 それが今では、自分でも『可憐だ』と思ってしまうほど可憐だった。なるほど、どんな暴漢も自分をただ殺すだけでは済まさないわけだ、と苦い記憶がこみ上げてくる。それほどまでに愛らしい。

 でも、まぁ、数年前とは違うのだ、と思いつつ、袖をめくって、力こぶを作ってみる。少しだけ筋肉が膨らんだ。

 厳めしさはちっとも出てこない。

 三年間鍛えたとは思えないほど華奢な手脚だった。

 そもそも背丈が、入所時点で二十才という公称年齢を誰も信じてくれない程度に低い。真実、その通りの年齢でも無かったが。訓練服であるジャージを押し上げて、やたらに自己主張してくる乳房が、劣悪な生育環境による発育不全という言い訳を許してくれない。

 兵士や訓練施設の同期からは、年齢を誤魔化した、十代の少女だと思われている。さぞや魅力的なのだろう、事ある毎にそういう誘いを受けた。

 自意識過剰というわけではない。アイテールはずっとそうだった。


 恵まれた容貌に溜息が出るというのは、本来なら贅沢な話かもしれない。

 だが、この追い詰められた世界では感謝の念を抱けという方が無理だ。

 確かに母譲りの美貌ではある。

 如何にも愛を請うのが得意そうだ。

 この外見だからこそ成立した関係もあったはずだ。

 だが斜陽の時代にあって、目立つ外見は不便だった。日常においてすら苦痛があった。

 幼い頃から連れ添った懐かしい体温が死んでしまってからは、葬儀から何日も経たないうちから、ひたすら理不尽な目に遭った。外見が美しい小娘で、無闇に胸が大きいからというだけの理由で、善良であると信じていた隣人たちに根も葉もないふしだらな噂を流されたり、あからさまに罵倒をされたりした。

 放浪を強いられるようになってからは、もはや考えたくも無い。法のない世界でこんな娘にどんな方が見出されるのか?

 どこまでも忌まわしい記憶ばかりだった。


 アイテールは鏡を見つめる。戦争になってからは己の無力さの象徴のように思えて、こうして脆い娘の肉体を眺めるたび打ちひしがれたものだ。

 しかし、もうすぐこの体ではなくなるのだと想像すると、思いもよらず胸が苦しくなる。


「……いや、気のせいではないか」


 物理的に胸元がキツいのだ。

 わけあって、力ある人に求められ、ワンサイズ小さいジャージを着ているのであった。からかいである。断っても良かったし、断られると相手も思ってたことだろうが、要求を飲んだ方が相手に負い目を与えられると考えたので敢えて着てやっている。ただ、予想外にもあまりダメージは与えられなかった。

 ウエスト以下はフィットしている。元々体は細い方だ。胸だけが大きい。だから胸が苦しい。シンプルなロジックである。

 こんな服装をさせて喜ぶとは『市長』も変な趣味があるものなだと改めて呆れる。

 自身も女性で、アイテールに嫉妬するまでもなく十分に慕われていると言うのに。

 母性にでも飢えているのだろうか?


「それにしても……色々負荷をかけて鍛えれば、もっと威圧感や、大人びた感じが出るかと思ったが、結局見て分かる変化はなかったな。飢餓環境でも大して変わらなかったし、それも当然か……」

 上着をたくし上げて、白い腹にうっすら浮かび上がる筋肉を見る。

「今まで無いくらい鍛えたんだ。腹筋ぐらいはしっかり割れるかと思ったのに……この程度とは。問題は胸だ。大胸筋が半端に鍛えられたせいで、余計に胸が……何で胸ばかり成長するのかな。縦に伸びたかった、縦に」


 細面の少女の顔に、下手をすればもっと幼く思われがちな風貌。

 とどめには無視しがたいサイズの乳房だ。

 アイテールとしては、どこをとってもコンプレックスであった。

 だって、このご時世では、格好の獲物にしか見えない。

 悪漢なら誰だって最優先の目標にするだろう。

 どんな意味でも食い出がありそうだ。


「もう少し実力に見合う外見が欲しかった……」


 こんな迫力の無い体でも、身体操縦能力は高い方だという自負があった。

 身長や体重はどうしようもないが、理屈では説明できないほど筋力も強い。

 それで誰も彼をも黙らせてきた。

 特殊な家系である。祖たる人物は言葉で他者を支配し、動かしたそうだが、アイテールは自分自身を完全に支配出来た。限界を超えた力が出せる。

 家族を守るために戦って、戦って、戦って、勝ってきた。

 年に何度か負けることもあって、代償も払ったが、とにかく生きて現在に至る。

 彼女の戦闘能力は在野の人間としては最高レベルに達していた。


 しゅっしゅっ、と鏡に向かってパンチをしてみる。

 いまいち迫力に欠ける。ドラマ俳優の真似事だと馬鹿にされそうな、痛く無さそうな拳だ。

 だがサンドバッグを一週間でダメにするぐらいには効率的な打撃が出せるようになっている。

 人間ならワンパンチで首を折れるぐらいだ。


「……うん、強くなってはいるかな」


 計画的なトレーニングを積んだ今、武装した複数の兵士さえ、素手で殺すことも容易い。一対一なら最初から負けない。驕りでないことは入所当時から、訓練で何度も実証してきた。実技形式での格闘戦で、大男のライリーや特殊部隊出身のジャックを降参させて、自分の『言葉』を吹き込んで「みっともない姿」にしてやって以来、アイテールが見た目通りの存在でないことは、間違いなく仲間たちに示された。


 だが、市長だけはまだ承服していないらしい。

 彼女はアイテールを、自分と年が近くて、才能で選出されただけの存在……とずっと勘違いしている。少なくともそのポーズを取っている。

 折に触れて栄養が乳にいっているだの、色仕掛けでライリーを倒しただのと、失礼なことを言ってからかってくるが、襲われて、素手で相手の目を抉り喉を突き頭蓋骨が陥没するまで殴打して殺したという類の残虐なエピソードを聞かせれば、簡単に追い払えた。

 体験したことがなければ分からない殺人の感触を聞かされて青ざめる市長。

 そんな恐ろしいことがこの世にあるのですかと震える声で聞いてきたものだ。

 彼女の、数少ない、分かりやすく可愛らしい一面の一つだった。

 分かりにくい点ではもっと可愛いが。


「まぁ……市長の言うとおり、所詮はどこをどう見ても可愛いだけの小娘なんだろうな、()()は」


 黒髪の乙女である市長を思い起こす。彼女も女性で、かなり華奢だが、ただ笑っているだけでも相手を圧倒するような、強者の威風とでも言うべきものがある。それに比べてアイテールは相手をぶちのめしてからがスタートだ。

 確かに、アイテールがアルファⅠ改<イージス>の素体に選出されたのは、持って生まれた才能によるところが大きい。それは事実だが、しかし元よりただ大人しく手折られるだけの花では無いのも本当だ。

 それを納得させられないのが中々歯がゆいのだった。

 殺人と汚辱の経験には事欠かない。より過激な過去も山ほどある。

 だが、温室育ちの『本物の小娘』を脅かすにはこれで十分だ。

 


 溜息を一つ。アイテールは姿見を離れた。

 積み上げた段ボールを見て、空っぽの自室を見て、何度も頷いた。

 やはり自分が生活していた痕跡を抹消すると、何とも言えない安心感があった。

 これで何も心配は要らないのだと心底思える。

 だが、同時に違和感もある。

 本当に、訓練所では、平和な毎日を過ごせた。愛すべき仲間たち、市長を名乗る困りものの女の子。後方で安全に暮らす家族たち。

 怖いことなど、どこにもない。

 そう、敵など存在しない。


「なのに、ここまでする必要はあったか?」

 

 悩ましそうに眉根を寄せる。

 顔に似合わぬ物々しい言葉で問いかける。


「アイテール、お前は何をしている。お前に言ってるんだ。もう賊に後を付けられたりしないんだよ……」


 殆ど脅迫観念的に片付けをしていたから全く疑問に思わなかったが、終わってから客観視すると、今度は逆に落ち着かなくなってきた。

 同じ施設で訓練を積んできた他のメンバーは、ここまで後始末をやっているかな、と胸の下に腕を回して組み、しばし考える。

 みんな、最低限度整理はするだろうが、ここまで徹底的にやらないだろう。

 これから『市長』になる人物はどうだろうか? やっていないだろう。あれこそ継承連帯の資産のような女だし、全部施設にお任せで良いはずだ。いや、と思い直す。結構勤勉なので、人よりはやるかもしれない。


 ともあれ、自分はやりすぎた、という感覚が湧いてきた。

 改めて、自分の生活の痕跡が一切ない、見慣れた部屋、空疎なその個室を見渡した。監視カメラが自分を見下ろしているのを見た。機械仕掛け、パターン仕掛けの衛兵どもは、どんな顔で自分の奇行を確認していたのだろう。もしかすると人間の責任者を呼び出していたかもしれない。


「……よし、ではない。何も良くない。神経症じみてる」


 実際、神経症なのかも知れない。

 アイテールは我がことながら何だか呆れてしまい、嘆息する。

 ここに来る以前、一族を率いて放浪していた時の悪い癖だ。それが出たことを朧気ながら自覚した。

 もう放浪と汚濁の時代は終わった。何の心配も要らない土地に辿り着いた。試したことはないが、泥酔して廊下で全裸で寝ていても何事もないぐらい安全だ。精々教官に叩き起こされて叱責され、評点を下げられる程度だろう。


 いもしない悪党のことを警戒して、不必要な仕事に精を出す。


 馬鹿馬鹿しい行いだった。だいたい、この施設以上に安全で強力なセキュリティが展開されていて、しかも文明が豊かな場所など、この地球上には数えるほどしかあるまい。

 外には人間的な教育を受けた様々な衛兵が巡回しているし、もっと外側の敷地には、マシーナリー・ギアに搭乗した兵士が展開している。

 電子機器が大方破壊されて久しいというのに、インフラ関係は二十世紀の水準だが十分に維持されていて、共用のシャワールームではいつでも綺麗な水が使える。トイレは個室だし、プライバシーは共同体が許す範囲で認められていて、ここも密かにカメラで監視されているにせよ、身の危険は無い。ラウンジへ行けば壊れていないラジオが鳴っているし、好きな時代のレコードプレイヤーが楽しめる。

 麗しき人類文化継承の要塞。輝かしき文明社会の残り香。

 人類文化継承連帯の勢力圏内のど真ん中だ。

 衛星軌道開発公社から接収したいくつかの宇宙センター、それを改修して作られた、スチーム・ヘッド候補者向けの極秘の訓練施設。それがここだ。

 この場における『安全』はあらゆる意味を含む。災害対策も軍事力も偏執的だ。

 迎撃能力の限界までミサイルが降り注げば危険だろうが、どうであれ雨風を恐れる必要は無く、明日食べるパンの心配する必要はなく、尾行してくる賊どころか、どのような敵の襲撃すらあり得ない。この土地では病すら無縁だ。


「……ゾンビと賊しかいない北米とは、全く違うというのに。部屋を去るとなって……勝手に身の危険を感じてしまった、ということかな。生活拠点を捨てるなんて、ここに来てから一度もやったことがなかった。だから変なクセが残っているのに気付かなかったんだ……」


 アイテールは恥ずかしくなった。三年にわたって生活をともにしてきた仲間たちの顔を思い浮かべた。彼らに追跡されるのが怖いのか? そんなわけがない。そもそもスチーム・ヘッドになれば今後もずっと一緒だ。これは仲間たちへの背信と言えなくもないのでは?

 もちろん、訓練中、メンバーたちの間で、色恋沙汰や、ある種の物品のささやかな密売行為が無かったわけではない。誰もが欲望を抱いて生活していた。彼女自身、支給品を融通し合う程度の不正は働いていたし、よこしまな視線を感じた回数は数えるのも馬鹿らしい程だが、男性も女性も例外なく――例外なくは言い過ぎだが――誰しもが適切な倫理を備えて生きていた。

 ここはリヴァイアサン亡き闘争の荒野などではない。

 

「だというのにオレは、アイテール、お前は何をしている。分からないな、何を夢中で痕跡の抹消を? 仲間は信用できる。信用できないとしても、守るべき兄弟姉妹は遠くに居る。みんな安全だ。ここまで片付けをしなくても危険など無い……落ち着け、落ち着け、落ち着け……」


 知らぬ間に乱れていた呼吸を整えながら、数年ばかり前のことを思い返す。

 昔は違った。我が身、そして家族を守るために必死で、物資面でも安全面でも一つの場所には留まることは許されず、常に移動しており、自分たちがそこにいたという痕跡を消し去ることに躍起だった。

 そこでしくじれば、最低限、暴漢に身をさらす必要があったし、叶わないとなれば、自分自身の肉体をカードとして切らなければならなかった。

 分の悪い賭けではない。目立つ容貌が確実にプラスに働くのは捕まったときで、すぐには殺されない。相手が男なら尚良い。女に飢えているなら最高だ。

 そこに痛烈な打撃を食らわせる。シャットダウンした脳髄は彼女の微弱な『言葉』で行動を支配できるし、失敗しても、一瞬の快楽のために相手は我を忘れることを選ぶ。そして一秒でも油断してくれたなら確実に殺せる。

 薄汚い男に囲まれて暴行されるより、家族にそれを見せること、そして家族にそれら暴漢を殺す手伝いをさせる羽目になることのほうが辛いぐらいだ。無論、不運や不手際が重なればもっと難しい事態になる。

 暴徒化した市民だけが敵ではない。彼らから流れるには病によって死を奪われたゾンビたち、奇怪に変貌した怪物どもが徘徊する危険地帯へ向かうしかなく、さらには人攫いの飛行船とスチーム・ヘッドたちの脅威もある。


 恐怖と緊張、困憊、嫌悪と狼狽。

 人類を作り変えることで来たる氷河期を回避しようとする過激派思想集団、通称『革新連盟』の作り上げた地獄。

 そこでは人間性と引き換えに妥協点を探すのが生活の全てだった。



 だが、対抗勢力、人類文化継承連帯に保護されて、全てが変わった。

 あるはずもないと信じ、幼い子供たちに語る偽りの希望としてしか存在しなかったはずの安全地帯。清潔な土地。良心ある人々。誰も彼女と家族を追い回したりしない。彼女と家族の出自を必要以上に問い質さない。

 もちろん、彼らとて慈善団体では無い。全てはアイテールが上層部と取引をした結果だ。アイテールは自身の有用性と身体的特性をつぶさに申告した。実験への参加や生体サンプルの提供に同意して、遺伝子プールの拡充にも協力した。

 賭けではあった。使い潰され、裏切られ、畜舎のような施設にでも閉じ込められる可能性もあった。外はそれがあり得るぐらい酷かったのだから。

 だが継承連帯は、世界から滅んだかと思われていた人間的善良さで契約を遵守し、アイテールたちに温情で報いた。彼らの領土には、人類から失われたはずの安心と安全が残されており、アイテールの一家はそれを自由に享受出来た。

 夢物語の世界に家族を連れてこられただけでアイテールは満足だった。自分の語った嘘の夢物語を、現実に出来たのだから。

 加えて最高のスチーム・ヘッドたるアルファ型へ転化する適性ありと認定された。彼女はそれも受け入れた。徴兵に応じてからは、さらに信じられないほど素晴らしい待遇になった。

 訓練所に来る直前の、猶予として与えられた日々を瞼の裏に描く。もう夢の中でさえ形を失い、忘れられていた本物の豊かさが、色鮮やかな風景をそのままに、彼女たちのところに戻ってきたのだ。

 家族の屈託のない笑顔を思い出せる。それだけでアイテールは幸せだ。

 素晴らしい世界は記憶を曖昧にしてしまう。

 汚辱に塗れたあの日々は、全て悪夢だったのではないかと錯覚してしまうほどに。


「だというのに、オレは、あの泥まみれの過去にまだ囚われているのか? それとも、安全圏での幸せな生活という夢から醒めたのか? ……オレ、か」

 アイテールは皮相な笑みを浮かべた。

「私、ではなく。この期に及んで、オレか……」


 では、『オレ』は目覚めたのだな、とアイテールは沈思する。

 この男性的な言葉遣いは幼い頃からのものだ。

 当時は、さすがに『オレ』とまでは行かなかったが、自分を『騎士』の後継者にするつもりだった実父に、相応しい口調を仕込まれた。

 一時は世間体もあり、思春期でもあったし、女性性を意識していたが、全部台無しになってからは、そうもいかなくなった。

 実家が消失した。一家の父も、卑劣な罠で落命した。

 彼を失って動揺する家族の不安を軽減するためには、今はもう居ない彼の役割も背負うしかなかった。

 もっとも、その父親にしても、アイテールとは性格が反対だった。だからこそ彼は死んだ。判断を誤った。心優しいその男が死んだせいで、幼い家族は恐慌状態に陥った。

 より強力に牽引する誰かが必要だった。

 だからこそアイテールは『オレ』になった。



 訓練施設に入所してからは、仲間に不審がられないよう、また見た目相応の娘のように、少なくとも過度に威圧的にならないよう口調を整えた。

 おそらく後の人生はずっと『私』だろうと思っていたのに。


「それが、いつのまにか元に、放浪していたあの時代に戻ってしまっている……」


 思えば贅沢な暮らしを永く続けられたものだ。

 トレーニングでくたくたになることもあったが、領域外での生活の悲惨さに比べれば、如何にも快適だった。

 毎日温水シャワーが浴びられて、ふかふかで変な虫が湧いたりしない清潔なベッドがあり、毒物も汚物も混じっていない人間らしい食事が三食提供され、銃を向ける必要の無い良識のある人間が揃っていて、賊は勿論のこと、変異した野生動物や霊長革新連盟の製造したカースド・リザレクターからも襲撃が無い。


「目覚めたのだ。それが正しい。夢だったのはこの生活だ」


 トレーニングは終わった。

 計画は始動した。

 自分は世界から切り離され、そうした清浄な世界の外側へ出ることになる。


 まさしく目が醒めるときだ。その自認が正しい。

 かつての言葉遣いに戻るのが正解だ。

 積み上げた段ボールを眺めて思う。病的な行動などでは無い。

 本心では分かっていた。

 これはけじめなのだ。

 自分は再び汚濁した世界に舞い戻ることになる。

 明日の朝、身体検査を受けて、不死病の因子を埋め込まれて、眠りについたとき、彼女という生身の人間は、一度死ぬ。

 そして目覚める。

 最新鋭の戦闘用スチーム・ヘッドとして。


 与えられる装備は、アルファⅠ改<イージス>。

 汎用性もさることながら、火力は随一だ。世界初の都市運営用スチーム・ヘッドであるアルファⅢ<アテネ>と、彼女の孕む赤子にも等しい都市そのものを防衛する騎士であり、単機でレールガン巡洋艦並の火力を発揮する。

 庇護される側から、庇護する側に。

 永遠に戦い続ける不滅の兵士として生まれ変わる。


「……まぁ、スチーム・ヘッドになった途端全部の機能が使えるようになる、というわけではないだろうし、出所してもトレーニング、トレーニング、またトレーニングという生活は、しばらく変わらないだろうが……区切りは区切りだ」


 だからこそ自分は私物を全て葬ることにしたのだろう。これからは闘争の日々だ。自分から全てを奪った狂った世界と戦い続けるのだ。やつらのせいで家族まで過酷さに晒されたのだ。

 復讐してやる。屈辱と絶望の記憶が次々にフラッシュバックする。


 宝石のようだと幾人からも誉められた翠の瞳が、狂騒の熱を帯びてきた。

 自覚して、落ち着け、とアイテールは唱える。落ち着け。

 胸元が苦しいのでジッパーを緩めた。胸元から香る花の香り。自分自身の甘い体臭に眩暈がする。

 すると、魔法のランプかマッチでも擦ったかのように、暗い過去だけでなく、甘い記憶も蘇ってきた。

 厳格だが優しかった父のこと。神の愛を信じていた母のこと。戦火に巻き込まれてあっという間に全滅してしまった血族たち。少女としての生活。友人たち。思いのほか大きくなった親友の背中。今となってはかけがえのないありふれた愛の言葉。家族で支え合って暮らした放浪の日々のささやかな幸せ。地に伏せた死体が唯一無二の価値の代弁者だったこと。ナイフを掴み己の腹を見ながら悩んだ夜。抱き上げた幼い命の輝かしさ……。


 確かに放浪は地獄だった。殺し、汚し、穢されて、アイテールたちは、泥沼をのたうちまわってきた。

 しかし、家族と居る限り、どれほど苦しかろうと、そこには喜びがあり……それらはどこか知らぬ世界へと消え去った魂たちとともに、今も胸の中で永久に輝き続けている。

 アイテールは器だった。

 彼女という器には、彼女の愛した全ての記憶が詰まっていた。


「かといってこの肉体に執着するつもりは全くないが……」

 金色の髪の少女は吐き捨てる。

「見た目でナメられるのはトータルで見て損、というのは嫌と言うほど味わってきた。この顔――この娘っ子としか言い様のない顔、この体では、抑止力にならない。脳味噌まで腐れた薄汚い連中は、見て分かることしか分からない。ああいう手合いは、二、三人殺されても、相手が弱そうだと誤認したら考えを修正しない。数を揃えて無理矢理押し続ければ勝って犯せると思い込む……そんな面倒はもう沢山だ。見て分かる抑止力が必要。そっちの方が便利。これまでの人生よりも不死としての人生の方が長いんだから、便利な方が良いに決まっている……」


 剣呑な言葉を、鈴を鳴らすような声でブツブツと呟いた。

 この声も有用では無い。可愛すぎる。もっとドスの利いた声が望ましい。

 常ならば空想ごとだが、それも、不死の兵士になれば願いは叶う。

 真の不死の兵士たるスチーム・ヘッド、それもアルファモデルともなれば、肉体の取り替えは自由自在だ。不死化処置を受けると同時に精神の本質的な部分は記憶がと『人格記録媒体』へ転写され、肉体は単なる出力ツールにまで地位を堕とされる。

 後は精神なそのままに好きな不死病患者に乗り換えが出来る。

 それなら、こんな弱そうな女の子ではなく、見た目だけで相手を威圧できるボディを使った方が良いに決まってる。男性兵士のボディなら山ほどあるらしいので、それを使いたいと申請を出している。

 元の肉体も『再生処理施設行き』だ。そのあと自分の肉体が何に使われても、知ったことではない。



 また、鏡を見つめる。じっと見つめる。

 やはり嫌になるほど『少女』だ。如何にも弱々しい。実際には爆発力があるというのが十全に理解出来るのに、やろうと思えば簡単に手篭めに出来そうだという奇妙な印象さえ脳裏にちらつく。身にそぐわない強気を決めたこの美貌に嬌声を上げさせるのは、さぞや愉快だろう。

 加害側の思考をエミュレートしていると、改めて『オレ』は『私』から乖離しているのだな、と分析が進む。

 アイテールはあくまでも女性だったが、『オレ』はアイテールを男性的な視点で見つめている。


 いずれにせよ、都市の防衛機構の責任者となるには不都合な外見だとアイテールは考えていた。

 教官から最後の面談でそのことを相談し、未練は無いのかと問われたが、無いと即答した。性別などどうでも良い。アイテールは色恋にはもうさほどの興味が無い。安全圏で生活している家族たちからは定期的に無事を伝える連絡と写真が届く。ようやく公的書類で認められる家庭を持った『兄』や『姉』もいる。

 愛すべき世界。

 彼らを守るための盾になるのだと思えば、心残りなどあろうはずもない。


 いや、今現在の肉体に拘るとすれば、身近に一人だけいるな、とアイテールは微妙な顔をした。

 彼女だけは拘るだろう。

 どういう因縁かよく分からないが、彼女は殊に自分に固執している。変な権限で変なことになるのではないか、という危惧が、実はある。彼女のオモチャにされるのでは。


「いやいや、そういう倫理観はある子だ。まさかそんなことにはならないだろうが……でも知らない連中の手に渡るぐらいならまだそっちの方が……うーん、どうなのかな……」


 でもこれも考え過ぎだろう、などと悩んでいると、

 こんこん。

 こんこんこん。

 ドアをノックする音がした。

 アイテールは「まさか」と思った。


「お姉様、もう寝てるんですか? アイテールお姉様?」


 壁に染み通るようなしっとりした美しい声に眉根を寄せる。

 懸念の主がまさにやってきた。

 彼女だ。『市長』だ。

 これからアルファⅢ<アテネ>として、海上楼閣都市に君臨する存在。

 女神になることを運命付けられた魔性。


「聞こえていますか。どうして『最後の晩餐』に参加しなかったんですか? 欠席したのはお姉様だけですよ。みんなお姉様は何食べてるのかなって興味津々でした。ねぇ、どうして返事をしないんですか。もう寝てるんですか? 寝ているんですね。いいえ、倒れているのかも知れません、これは大変です。命に関わります。倒れているお姉様が心配なので、今のうちに入って好きなことをしてしまいますが、構いませんね。市長としての権限で許可を申請します。許可しました。倒れているので仕方ないです。ああ、小さな私のお姉様! 不釣り合いなお胸で肺が潰れてしまったのかも!」


 お前は失礼なことしか言えないのかと怒鳴りたくなる。世が世なら思想警察送りだ。

 最後の夜だとうのに、いつも通り、天使のような声で、閉口するような嘲りを捲し立ててくるものである。

 アイテールは反論した。


「そんなわけあるか。ぜんぜん仕方なくない。君の考えは何も正しくない」ドアの前に行って耳を寄せ、首を傾げる。「倒れてもいない。生まれてこの方、風邪を引いたこともない。いきなり君の声を聞いて心臓がドキドキしている。こちらの方が体に悪い。いったい何の用なんだ?」


 あからさまな倦怠感と怒りを演出して呼びかけても、声の主は飄々としていた。


「随分なことを言ってくれますね。『市長』になる人間が部下を気遣うのに理由が必要ですか? アイテールお姉様も小さな女の子ですから、今更になってママのことが恋しくて泣いてるんじゃないかと心配してあげてるんですけど。寂しがっていませんか? それとも、寂し過ぎて人には見せられないことでもしてたんですか?」


 アイテールは溜息をついた。

 口で何を言って聞く人間ではない。


「今開けるから押し入ってきたりするのはやめろ、段ボールを積んでて危ないから」と注意してロックを解除し、ドアを押して開き、訪問者を迎え入れた。


 ゴシック風のドレスを纏う傾国の魔性。

 神に愛された美貌を持つ娘。

 アルファⅢ<アテネ>として世界を救う存在。

 市長。

 勝利をもたらす果実。

 輝く闇夜のような黒髪に、見つめれば吸い込まれてしまいそうな黒い瞳。挑発的な視線で、アイテールの小さな体と、発達した乳房と、不機嫌そうな顔を順繰りに見てくる。

 無感情そうな顔に花の咲いたような微笑を浮かべ、スカートの裾を持ち上げ、片足を軽く引き、優雅に挨拶をして見せた。


「アイテールお姉様、ご機嫌いかがですか?」


 見開かれた瞳は奈落の虚で、気を許せばどこまでも彼女の内側に収まってしまうだろう。彼女と対面して心を奪われないのは難しい。

 アイテールは飲み込まれそうになっている自分を『言葉』で支配して対抗する。

 溜息をついた。


「職権乱用だぞ。ひとりの時間を邪魔されてご機嫌が良さそうに見えるのかな、オリヴィア?」

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