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アフターゾンビアポカリプスAI百合 〜不滅の造花とスチームヘッド〜  作者: 無縁仏
セクション2 スヴィトスラーフ聖歌隊 大主教『清廉なる導き手』リリウム
93/197

2-12 祭礼のために その9-5 だから、あなたに花束を(下)

 全身に洗浄用の蒸留水を浴びせられる。

 己の手指で肌を擦り、外側に内側、全身にこびりつく肉片を洗い流す。

 ヘカトンケイルと幾つか言葉を交した。

 肌の弾く水滴も拭わぬまま、不朽結晶製のインナースーツで身を包む。

 全身がぐしょぐしょに濡れていたが、いずれ不死病の因子が全てを浄化する。

 フライトジャケット風のミリタリーコートを羽織って、ハンガーへ出向いた。


 夜明け前の暗闇は、低質な裸電球に彩られて、祝いの日の祭壇めいていた。

 旧時代の祝祭だ。クリスマスの残骸。仄かな灯に満ちた静謐。

 颯爽と歩く薄闇。白く艶やかな髪が線を引く。

 技術者たちは近衞の騎士の如く、再び規律正しく整列した状態で、最強のスチーム・ヘッドたるウンドワートの帰還を出迎えた。

 ヘカトンケイルによる処置が行われていた部屋は、この整備用のスペースと隣接している。

 少なからずウンドワートの嬌声とも悲鳴とも取れない声が漏れ聞こえていたはずだが、技術者たちは気に留めていない様子だった。

 あらためて傅こうとするジェネラルを、ウンドワートは鬱陶しそうに手で制する。


「お終いよ、そんな三文芝居はお終い。いちいちそんなことしなくても良いわ、イライラするから。喧嘩売ってるつもりなら外に出ることね。一瞬でクリスマスツリーみたいにしてやるわ」


 使う言葉とは裏腹に、声音に殺意は微塵も籠もっていない。

 ハンガーにやってきた時とは別人のような落ち着いた気配だ。

 技術者たちの間でも空気が僅かに緩んだ。

 案内に大人しく従い、ウンドワートはハンガーに吊された己の半身を見上げた。

 兎を模したその大型蒸気甲冑は完全武装の状態で、厳めしく鋭角の光を照り返して、主の帰還を待ちわびていた。

 ジェネラルは木偶の如き長身を折り曲げて、恭しく頭を下げ、誇らしげに蒸気甲冑の仕上がりを説明し始めた。自分たちが如何に完璧にその鎧を修復したかを。そしてこの甲冑が如何にサー・ウンドワートの力を引き出し得るかについて。

 フライトジャケットのポケットに手を突っ込みながら、白髪の少女は至って平静な態度で黙って耳を傾けた。

 説明を聞き終わると、「ありがと。いつも悪いわね」と素っ気なく礼を述べた。

 これ以上の光栄はございません、と満足げに礼を返す技術者にひらひらと手を振って、ウンドワートはミリタリーコートを脱いで適当な突起にかけた。針金を一束拾い上げて、そのままアーマーに縛り付ける。

 そして電磁場を操作してアーマーの基幹システムへアクセスし、前面装甲を展開する。


 露出した格納スペースには、まるで古き良き時代の個人向け高級自動車のように、彼女のための全てが誂えられている。他のパペットにおいては、まさに収納するためだけの空間であるのに対して、ウンドワート・アーマーに関して言えば、コックピットという言葉を適用しても違和感は無い。

 実際、いざとなれば手動でアーマーを動かすための装置が設けられている程だ。

 サドルに跨がり、足で挟み込む。

 ひやりとして冷たい感覚。世界で最も安心出来る場所の一つ。自動で動作する固定具が手脚に食い込み、血管系を貪欲に貪って血液を啜るために興奮剤を注入してくる。触針や固定具があちこちを突き破り、体内に潜り込んで、神経系と絡みつく。生体脳が急速に脳内麻薬を合成して痛みを中和する。

 少女は震える吐息を飲み下す。

 首輪型人工脳髄とアーマーに搭載の補助用人工脳髄との間にタクティカル・リンクが完成すると、少女の肉体からは視界が消失した。

 彼女の知覚する世界は、センサー類から構築された完全架構代替世界を経由した、別次元の宇宙へと変貌した。得も言われぬ全能感。もっとも、非戦闘時においては、何か劇的な変化があるわけでもなかったが。

 一通りの動作チェックを終えて、ウンドワート整備に対する規定量のトークン――通常の十倍にも達する――を支払い、鎧姿のままハンガーから出た。


 後天的に身につけた臆病さで以て、速やかに装甲を不可視化した透明な殺戮者は、ビルの壁面を駆け上がって、日の出を待つ宵の街、明けの狭間に身を躍らせた。

 翼持たぬ鳥のように跳ねて飛び、音もなく着地する。

 屋上から屋上へ、小さなパペットは軽快な足取りで、月の旅路の終わり、朝を待つ大通りを見下ろしながら、己の計画について煩悶する。


 やがて日が昇る。

 いつもと変わらぬ朝が来る。

 何も変われない朝が来る。

 このままでは同じ朝が来る……。


 臆病な少女は、無敵の鎧の内側で逡巡する。

 ヘカトンケイルからのアドバイス、犯罪教唆ともとれる一連の言葉。

 花嫁を奪い給え? なるほど、魅力的な言葉だ。それでいて凶暴極まる誘いでもある。

 おそらくは大主教リリウムの率いる軍勢と敵対することになるというのに、それが魅力的であると感じてしまっていた。


 人工脳髄のリセットは完璧で、埋め火の如き焦がれはあるが、思考に過度のノイズが乗ることは無い。ウンドワートは清明な思考を維持していた。

 それなのに、血迷いそうになる。

 気を抜けば、リリウムを相手取ってどう戦うか、そればかりを考えしまう。


 体は冷静だ。人工脳髄も正常だ。

 なのに自分はもう、決めてしまっている。


> ――他のことを気にしながら戦う余裕なんて無い。

> ――だから個人的な問題は、今、この場で解決しなさい。


 これはかつて、自分の境遇に思い悩むリーンズィへ、他ならぬウンドワートが投げかけた言葉だ。

 何とも高圧的で、無責任で。

 無理にお姉さんぶって。

 「せんぱい」ぶって……。

 自分で自分を嗤いたくもなる。

 ああ、自分を見下ろす誰かが、完全架構代替世界に保存されたオリジナルの自分が問いかけてくる――。


「そういうあなたは、どうなの? いったい何を抱え込んで、どこでどう解決するつもりなの」


 決まっている!

 ウンドワートは憤怒にも似た感情に任せて機械の鼓動を昂ぶらせる。

 これではリーンズィに顔向け出来ない。自分でこれで良いと思えるレアせんぱいになれない。

 自分はリーンズィに尊敬される「せんぱい」になると決めたのだ。

 最後までお姉さんぶると決めたのだ。

 だから勿論、リリウムと一線を越える。

 リーンズィを奪い返し、最強のスチーム・ヘッドとは斯くあるものだと示し、弱肉強食の摂理を、その栄光ある略奪を、彼女の無垢な心に刻むのだ。


 兎も角、困難には立ち向かわなければならない。

 挑まなければ、弱い自分を打倒できない。自分と向かい合って、自由意志で以て、リーンズィをリリウムから奪いに行く。

 辿り着きたい答えは、もう決まっているのだ。

 だが、ウンドワートは、今は冷静すぎた。

 衝動はある。手段はある。だが理路が無い。それを実行するための理路が無い。

 能力的に可能であると言うことと、現実に実行出来るということは、全く異なる。

 納得するに足る感情と論理が、少女の心臓にはまだ足りない。


 臆病さと期待感が入り交じる肉体で、いっときだけ電磁迷彩を解除する。

 朝とも夜ともつかない未踏の世界に白銀の煌めきを散らす。


 兎の形をした大鎧の心臓(オルガン)に揺さぶられながら、少女は遙かな地平線を目指した。

 後を追う蒸気の煙がひととき渦を巻いて、それから、冬の大気に解れて消えた。



『ホワイトラビット・クロックワークス』はアリス・レッドアイ・ウンドワートが経営する多目的雑貨店だ。

 彼女はこの店の経営のために「会計」なる古の秘術についての配信チャンネルを受講していた時期があったが、今はもうその講義の内容を全く覚えていない。

 商取引の規模が人工脳髄に搭載の電卓アプリで十分であることに気づき、開店から三日ほどで酷くみじめな気持ちになって、学習意欲を失ったためだ。

 裏路地の裏路地のそのまた裏路地にあるこの店には、客が殆どやってこない。三階建ての雑居ビルを地道に改装した施設で、外観はその辺りの知識やセンスに富んだ機体の意見を参考にして、最終的に自分好みに仕上げた。

 アンティーク調の意匠をふんだんに取り入れていて、おそらく殆どのスチーム・ヘッドが非常に凝った店構えだと評価するだろう。

 実際、主にレーゲント層からは好評だ。

 ただし、ウンドワートはその臆病な自尊心から、この店舗の存在を公にしていない。

 彼女はどこまでも怖がりだった。


 いずれにせよ、サー・ウンドワートが直営するブランドショップであるというのは、この店舗の名前を品揃えを知れば一目瞭然だ。

 手空きの時間に丁寧に磨いているショーウィンドウには、怒れる包丁ウサギのデフォルメ木工像(手作り)や、湯たんぽを搭載可能なモフモフうさぎさんぬいぐるみ(手作り)、ヘタウマであってほしいと思いながら描いたウサギイラスト・ステッカー(手作り)、ウンドワート・アーマー公認写真集(ナルシストっぽくて恥ずかしいので製作は外部に委託した)などがディスプレイされてる。

 何より、ウンドワートが戦術ネットワーク上に開設している戦闘指南チャンネルが店名と全く同じなので、分かる人間にはすぐ分かる。

 対外的なウンドワートの振る舞いと店構えが真逆であるから、事実を飲み込めるかどうかは別として。


 アリスは気が向いたときだけこの店の店員として振る舞い、それでいてウンドワートなど知らぬ存ぜぬ、人類文化継承の活動に興じている雇われのレーゲントであるという演技をするのが常であった。

 店をやりたいという意志と釣り合わない他者への恐怖心から、開店していること事態が稀だった。

 いつでも玄関扉の飾り窓にカーテンを降ろし、CLOSEの手製木彫り看板を掛けている。

 ペーダソスなどは気にせずドアをノックしながら専用の無線に通信を仕掛けてくるのだが、実は確実に店に入るにはこれしか手段が無い。

 開店時間も気紛れなら、取引も気紛れ。

 気が済むまで『ごっこ遊び』が出来る、いつかきっと『ごっこ遊び』ではなくなると信じている、アーマーの内側を除けば、ウンドワートが最も安心して暮らせる場所だった。


 ここまでの道程で、整備を施されたウンドワート・アーマーは絶好調だった。夜明け前に『ホワイトラビット・クロックワークス』の店舗へ帰り着くことが出来た。

 不可視の大兎は店舗の屋上に軽やかに着地すると、機械式マシンハッチにアクセスし、電磁場を操作し、猛烈な勢いで符号を入力。モーターを直接操作し、解錠した。

 三階に設けている個人用駐機場にアーマーを固定してマシンハッチを再施錠。

 体に接続しているケーブル類を引き抜いて、転げ落ちるような動きでそれを脱ぎ去った。


「あっつい……不死病患者じゃなかったら死んでるわよね、これ、ほんと……」


 穿孔された肉体からの出血など問題にならない。ほんの少し動いただけだというのに、血よりも汗の方が遙かに多い。

 オーバードライブ等の戦闘形態に移行すれば耐えられるが、素面で乗り込むのなら移動式の蒸し風呂も同然だ。単に強力であるのみならず各種迷彩機能まで完備した完璧な蒸気甲冑ではあるが、諸々の機能と引き換えに排熱能力が壊滅していた。

 ウンドワート・アーマーは、負担を度外視して純粋な使い捨て生体CPUとして取り扱う従来型のパペットとは全く違う機体だが、不死病患者の身体保護を無視しているという意味では何も変わらない。

 また、ウンドワート・アーマーはアリスにしか装備できない。不特定多数の誰かでは無く、アリスという一個人の精神と肉体を消耗させる前提で構築されているのであるから、普通より酷薄であるとも言える。


「ドラムリール、ドラムリールはどこかしら……送風機をつなげて動かして体を冷やさないと……死ななくても水分ないと厳しいし」びちゃびちゃと零れて、花蜜の水溜まりのようになった自分の体液を見下ろす。「……これ舐めてもいいけど惨めなのよね……」


 充電式ランタンの薄明を頼りに、古びたドラムリールを見つけ、ころころと転がす。

 電源コードをウンドワート・アーマーの標準蒸気機関に繋ぐ。

 無線でアーマーを操作しながら、以前に市街から持ち帰った送風機のの物理スイッチをオンにする。

 ぷしーと蒸気を吹きながら機関の発電が始まり、送風機のファンがかなり不安定な音を吐きながら回り出す。

 空気の循環と送出が始まる。室内でも寒冷なこの国の空気を身に浴びて、白髪の少女は暗がりで心地よさに安堵の息を吐いた。胴から股までを覆う専用のインナースーツや、剥き出しの手脚から滴る体液が、見る間に蒸発していく。こうしたとき、自分が甘ったるい香りを放っているのに気付く。


「おそろしい、おそろしいわ。アーマーの機密が破れたらこの匂いが漏れ出して、一瞬で私とウンドワートの関係が分かるのよね。そうなったら、そうなったらどうなるのかしら……」と、もはや習慣となっている神経症的妄想に追い込まれる。

 もうだいたい皆『中の人』を知っているのではないかという気配はあるのだが、恐怖心を掻き立てる妄想は、しばしば現実からかけ離れた影を作るものだ。

 世界は想像した通りにしか目に映らない。

 アリスは己の身を抱きしめ、この頼りない肉体が衆目に晒されたときのことを想像して少し涙ぐんだ。送風機は素晴らしい機械だ。何もかも吹き飛ばしてくれる。汗も、涙も、恐怖も。

 混乱に陥っていたのは数秒だった。

 精神と肉体の恒常性が落ち着いてから、アーマーからコートを取って羽織った。


 そして二階の寝室――一人でくつろぐだけなのにクイーンサイズのベッドが置いてある――へと降りた。

 以前リーンズィからプレゼントしてもらった『ふて寝ウサギ』のぬいぐるみをモフモフとしながら、自作の棚を漁り、これから行うつもりの作戦、リリウムへの反抗についての意気を盛り上げるために、秘蔵の缶入り苺味スコーンを開けて、少しだけ食べた。

 それからリーンズィとリリウムの挙式の映像を見返し、わだかまる心に嫉妬と憎悪の鞴で熱意を吹き込む。

 思いのほか劇薬になってしまった。

 不意に、怒りで目の前が真っ暗になった。


「う、うううう……リゼ、やっぱり私に囁いたのと殆ど同じ言葉をリリウムにも言ってる……! 嘘、全部嘘なの!? 目の色を誉めてくれたのも、肋の浮いた体が可愛いって言ってくれたのに、何もかも……! 私を騙してたの、からかってたの弄んでたの!? あんなに可愛い可愛いキレイキレイって言ってくれたのも、嘘だったの!? けっきょくテンプレで話してたわけ! ころ……殺す! 殺してやる! 舐めおってからに! 股ぐらから鉄柱を突っ込んで市中引き回しにしてやる!」


 我を忘れ、しかしやはり、数秒で醒める。


「……想像するだけなら自由よね。怖がりウンドワート、そんなこと出来るはずないくせに。せんぱいなんだもの、せんぱい。せんぱいはそんなことしない、しない」


 突如として怒りそれ自体が欠落したかのような、極端な精神偏移。

 これこそが本来のウンドワートの精神状態だ。

 万事にいちいち激昂したままでは最強のスチーム・ヘッドではいられないし、虐待の限りを尽されて勝利への渇望に目覚めたりはしない。


「落ち着いて。落ち着いて。リゼ後輩は後輩なんだもの。人生経験は少なくて、参照できるデータベースも大したことないはず。語彙も多くないと推測出来るわ。特にああいう第三者との……愛情に満ちた接触の記録なんて希少でしょう。ならばこそ、そういう場面で誰かを誉めるとき、似たような言葉ばかりが出てくるのは当たり前のこと。……そうよね、似ているけど違う点を探すべきよね」


 冷静に分析すれば、リリウムがリーンズィを天使様、リーンズィ様と何度も呼ぶのに対して、リーンズィからリリウムの名を呼ぶことは、応答するという形でしか生じていない。

 自分との時は「レアせんぱい、レアせんぱい」と何度も呼びかけてくれたのに。

 映像を検分し、細かく一時停止をかけて、二人の一見穏やかな営みを冷静に観察する。愛しいリーンズィがリリウムとキスをしている様を観るのはさすがに精神的なストレスがマッハだったので、ウンドワートは無意識に秘蔵のスコーンをもりもり食べた。


「……ここ、ここ。それにここも。リゼの筋肉が変に強張ってる。私としてるときはもっと自然だったし、キスだって積極的だった。この映像では基本的に受け身よね。つまり、リゼは完全にリリウムを受け入れてるわじゃない。でも洗脳されてるって言うふうにも見えない……。自由意志は残ってるみたい。私がトばされてる間に政治的な取引があったのかしら。ジェネラルの意見を飲んだみたいで癪だけど、やっぱり真意は問い質さなきゃ分からないわね」


 思い切ってアルファⅡモナルキアに通信を試みたが、回線が繋がらない。

 残念だ。これでは確かめることも出来ない。

 でも、リーンズィがこれを無理強いされているのならば――

 花嫁を奪う、という選択肢は、圧倒的に『選ぶ意味がある』。


 理路が整う。リリウムに洗脳されてこんなことをさせられているのではあるまいか? 疑いさえ生まれれば十分だった。

 そう簡単な仕事ではないが、不可能ではあるまい。何故ならレア・レッドアイ・ウンドワートはクヌーズオーエ解放軍で最強のスチーム・ヘッドだからだ。

 自由を奪われた弱肉の愛玩物を救い出すことに疎ましいほどの困難さなどあろうものか。

 双璧を成すとまで言われるリリウムが相手なら、英雄ウンドワートの仕事としても申し分ない。

 何より、それに。


「『リゼ後輩』は……私が勝ち取ったんだもの。リゼは、リーンズィが私に贈ってくれた名前。リゼが、リゼ自身を使って作った、リゼそのものっていう、たった一つの贈り物。私だけの、大事なモノ」


 あの夜を思い出す。愛の存在も信じないまま、夢見るような熱情で、リーンズィに体を預けた時のことを思い出す。ただ触れあうだけだというのに、あの幸福感、充足感。手指の繊細な動きが、小さな心臓を、子ウサギのように跳ねさせた。

 重なる体温に、互いに必要としているという根拠の無い確信。

 温かな指先、優しい口づけの心地よさ。

 ウンドワートは確かにあの温もりを覚えている。

 愛は、まだウンドワートには分からない。その実像を理解出来ない。

 しかしリーンズィと歩いた先に素晴らしい世界がきっとあると、信じられた。

 根拠など無い。理解している、理路も展望も、実のところちぐはぐだ。

 だというのに、その未来を信じられた。

 抱きしめてくれるリーンズィもきっとそれを望んでいると、信じられた。


 リゼ後輩。大好きなリゼ後輩。こんなにも焦がれている少女の肉体、己自身の生身の心臓を、ウンドワートは恥じらいつつも自覚する。あのライトブラウンの髪の少女は、ある意味では彼女にとって全世界にも等しい。


「……それを、あの頭がお天気の、愉快で淫らな大主教なんかに、いきなり横取りされる筋合いは……どこにも無いわ」


 ぜったい殺す。死すべし、死すべし、死すべしである。

 これで動機は固まった。しかしどこまで実行のリスクを負う? これほどに大々的な儀式だ。妨害すればどうなるかなど、考えなくとも分かる。改めて自分がしでかそうとしていることを思うと、愚かすぎて眩暈がしてくるぐらいに。

 大主教リリウムから花嫁を奪う。

 相手の軍団の目の前で!

 戦争だ。そんなの、戦争になるに決まっている。どう考えてもそうなる。


 もっとも、こちらは偉大なる全自動戦争装置の血を引いている、純正の特務仕様機だ。蹂躙も殺戮も慣れた仕事だ。ウタウタイの戯れの少女が、いかなる要塞を築こうが、このウサギの騎士の敵ではない。

 まず間違いなく勝てるけど……とウンドワートはスコーンをもう一口。

 肉体が拒絶反応を示して少し咳き込んだ。ベッドに破片を撒き散らしてしまって落ち込む。

 ふて寝ウサぐるみが無事だったのは幸いだった。

 そう、面倒なのは後始末だ。

 いつでもそうだ。実行することより後始末の方が常に面倒である。


「皆殺しにする? 全部壊す? まさか。キュプロクスの馬鹿どもじゃあるまいし」

 

 想像するのも想定するのも、そうしてやる、と宣言するのも、全く容易い。

 しかし、そんなことをすれば、クヌーズオーエ解放軍全部が、敵になる。

 もっとも、勝負にはならない。全軍が相手だろうと()()()()()()()()()()()()()()()()。脅威たり得る機体は数えるほどしか存在しない。コルトのSCAR運用システムがウンドワートに対する最大の抑止力と目されているが、あの範囲焼却とて、使用され得る状況だと想定して備えていれば、起動を確認してから実際に焼却が始まるまでのコンマ数秒の間に、デイドリーム・ハントで効果範囲外まで退避出来るのだ。

 アルファⅡウンドワートは伊達に最高戦力としての地位を持っているわけではない。

 さらに<首斬り兎>、ケットシーなる異常な野良サムライが解放軍側についたと仮定する。警戒すべき相手になるだろう。あの機体をデイドリーム・ハントで捉えようとすると何故か完全架構代替世界にエラーが出るから、得手を潰される形になる。

 しかしこちらが結晶純度で勝っているため、究極的には障害にはなり得ない。千日手でも万日手でも、最後に勝つのはウンドワートだ。セーラー服を千切り飛ばし肉体をズタズタに刻んでばらまいてやれる。経緯はよく覚えていないがなんだか寝込みにアーマーの外側をガンガン叩かれて怖かった記憶もあるのでその仕返しもしたい。

 だが、やはり全部を敵を回す、そこまでは()()()()()()()のだ。

 敵を作るのも怖ければ、味方がいなくなるのも怖い。

 何より、殺してやりたいほど、憎くない。キュプロクスの突撃隊のような発狂した強者の群れを粛清するのとはわけが違う。

 少なくとも自分を友軍と認め、そして自分という存在を認めてくれる集団を、そんなふうに潰したくない。


 ……何より怖いのは、ライトブラウンの髪の少女、あのリーンズィの――愛しい緑色、赤色に揺れる、穢れの無い澄んだ瞳に、侮蔑の色が浮かぶであろうこと。

 きっとあの純朴な後輩はスチーム・ヘッドの無差別破壊など望まない。

 だから、やりたくない。

 それをやると、尊敬されるような先輩ではなくなってしまうという直感がある。


「ああ、結局。覚悟がない、覚悟が無いのね。勝てる勝負を躊躇っているようでは、本物の勝者にはなれないわよ、ウンドワート……」


 考えを纏めるため、赤い瞳を伏せながら、一階の店舗奥にあるアトリエに向かった。

 ――為所(しどころ)を定めたのならば、心は刃でなければならない。

 思考を鮮明に、研ぎ澄ませる必要がある。


 ガスランプを灯し、アトリエを見渡す。乱雑に並べられた工具類、元家具職人のスチーム・パペットに作って貰った特注作業台。

 そして自分が今まで手がけてきた、取るに足らぬ創造物の数々。

 ひととき瞼を閉じて、リーンズィとの身悶えするような初心な夜、生まれて初めて幸福の、誰も傷つけない温もりぬ触れた夜の、蕩けるような恋慕を脳裏に再生する。

 ひとしきり浸って幸せを再生した後、ハンガーから服を取る。インナースーツの上から、フリルをふんだんに使った清楚なエプロンドレスを装着。

 姿見の前に立って作り笑いをしながら「いらっしゃいませー!」「本日はお一人ですか?」「こちらなどはいかがでしょー!」などと接客の練習をした。

 普段の彼女とは似ても似つかない、見た目通りの可憐な少女の仕草で振る舞う度に、ウンドワートの精神は疲弊しつつも、鋭く研ぎ澄まされていく。


 ここは戦場では無い。壊される前に壊すほか無い弱肉強食の地獄では無い。

 だがウンドワートにとって自己肯定を行うための抵抗は、自分自身から価値を剥奪しようとする全ての動きに抗うことは、まさしく戦闘行為である。


 ――らしくない、という思いは常にある。

 だが、強いだけでは、取り残されてしまう。それはいけないのだ。最強では無いウンドワートは、鏡に映る、このか細い少女の肉体以外の何物でも無いのだから。

 弱肉として貪られる以外に行為の在り方を知らない彼女は、しかしレーゲントのように超常の力を自由に振る舞うことさえ出来ない。

 だから、赤い目をしたこの少女は、不確かになりつつある絶対強者としての地位を補うために、「破壊する」だけでなく「造り出す」側に回ろうとしていた。

 武力による無敵だけで無く、文化継承の方面でも最強を目指すことにしたのだ。

 そうすることで武勲の無い個人、弱肉のアリスとしても、安定した精神性に向かっていける、素敵な商品を沢山出してウンドワートのブランドイメージを上げることが出来れば、本職の方でも失墜は免れると考えたのである。


 努力はした。無闇に貯蓄していたトークンを切り崩して、市場に参入するための店舗も確保した。だが売り出せる知識、売って良いと思えるスキルが何もない。商品は一から作る必要があった。遠回りこそが一番の近道、イソップもそう書いている(書いていない)と思ってストレス解消を兼ねて造形やイラストレーションを学習したが、制作物はどれも不出来だった。

 持ち前の熱心さで三流、四流の域に達する作品は創れるようになったが、生前からそうした教養やセンスを持っていたスチーム・ヘッドが製作する品物には、遠く及ばなかった。

 だからこそ店を誰も知らないところに構えたのだ、と夜ごと自嘲する声を彼女は聞いた。

 どうせ上手くいかないから、戦う前に逃げたのだ。


 しかし。だが。でも。それでも。

 造り続けるしかないのだ。

 アリスは自嘲する、繰り返し繰り返し造り続ける。ただ繰り返すだけ、そんな無意味なことが許されるのは、姿見の向こうの、夢見の国だけ。

 堕落を経る前の自分が夢見た、空想世界の庭園だけ。

 現実は異なる。現実は冷淡でも酷薄でも無い。人間存在に対して無関心なのだ。

 何を祈ろうが何を願おうがその声は届かない。

 行動はそのままに、違う結果を期待すること、これは狂気に等しい……誰が言ったのだか知らない、そんな言葉を何度も思い出す。

 それでも、やるしかないのだ。自分自身がこれで良いと確信できるまで継続する以外にウンドワートには救われる道が思いつかなかった。


 乱れがちな精神活動を統合するために、実際にこれらの取り組みは有効であった。

 出来上がる品物は不出来でも、アリスが真剣に取り組んで作り上げたという事実は、彼女自身にとって代えがたい唯一性となる。紛い物でも構わない。不出来でも構わない。

 信じることが出来ればそれでいい。


「リゼの馬鹿ーーーーーーー! 死ねー! 浮気者ーーーー!」と叫びながら彫刻刀を振り下ろす瞬間、確かに彼女は癒やされているのだ。

 怒りは整理され、理路は組み直され、精神を侵す残虐性が低減される。


「リゼは! 私の! 後輩なんだから! 私の! もの! なんだから! 私だけが触って良いの! キスして良いの! キス以上のことも全部私だけがしていいの! 私をベッドで可愛がって良いのも、リゼだけ! 綺麗だよって言って良いのもリゼだけだし香りも嗅いでも良いのも隅から隅まで眺めて良いのもリゼだけのものなんだからー! ああもう腹が立って収まらないわ! リリウム、殺す! 浮気者のリゼも殺す! みんな殺す! ころすころす、ころすころすころすー!」


 ふぅ、と一息。

 こうして正気に戻れば、心は迷うばかりだ。


「でも、でも本当に奪うの? リリウムから……リーンズィを奪う。出来るの、出来るの? もちろん出来る。でも、そんなことをしたら私はクヌーズオーエ解放軍にいられなくなるわ。何の人望もない、強いだけの機体が、リリウムの、解放軍の最大派閥と敵対するんだから。私にそこまでの覚悟が本当にあるの? もう誰もサー・ウンドワートなんて呼んでくれなくなる……」


 この期に及んで、ウンドワートはその華奢な体に熱を溜め込んで、決心が付かないままだった。

 号砲を待っている。

 精神の糸が切れて、絶対鏖殺の意志が確定する瞬間を伺ってる。

 さらに研ぎ澄ますには、手を動かすことだ。

 揺れるランプの火を頼りに、強化した視覚を凝らして、かねてより予定していた木像の製作に取りかかった。

 ……粗雑なウサギ・スタチューが大まかに完成した頃には、すっかり夜が明けていた。

 汗が滲んで煌めく白髪をかきあげ、ウンドワートはエプロンドレスの前で腕を組む。



 果たして、もう心は決まっていた。

 粗雑な像は怨嗟を受け止め、それでも見事に屹立している。

 アリス・レッドアイ・ウンドワートの心が揺るがないことを保証してくれている。

 考える必要は無い。

 自分は絶対的勝者だ。

 自分はリリウムよりも強い。

 強い者は何をしても良いのだ。

 何を失うことになるのだとしても、やって構わないのだ。


 純化された思考は、自然、同胞相手にどう戦うかという剣呑極まる次元へとシームレスに移行する。

 身を苛む敗北と恥辱への恐怖が、ウンドワートという生き方の基礎を形作っている。植え付けられた劣等感と自己否定感は人格が機能停止するその日まで消えはしないだろう。

 だが、それでも最強の戦闘用のスチーム・ヘッドだ。絶望的な闘争の世界で活動してきた。どう潰し、どう殺し、どう葬るのか想像するのは、恋に患い煩悶するよりは、幾分か日常的な思考であるとさえ言える。


「敵対するとして……あの命令言語の結界をどう突破するか、よね」


 思考は実際面での検討に突入していた。

 このシミュレーションにおいて、いつも衝突するのは、リリウムの並外れて強力な『原初の聖句』と、彼女の率いるレギオンの存在である。

 不可視ではあるが、しかし現実に作用してくる強大な障壁だ。

 幾千、幾万もの不死病患者を使って重ねられた聖句は人工脳髄や生体脳をも超越して、時として物理法則すら改変する。

 これら聖句の構造体は、形而上の世界に聳える城塞にも等しい。

 超・超多重構造を有する原初の聖句は『大聖堂』とも渾名され、迂闊にその領域内部に侵入すれば、人工脳髄は擬似人格演算を維持できなくなる。最強を自負するウンドワートと言えどもその干渉を無視できない。まさしく規格外の障壁だ。


「彼女が『そうあれかし』と唱えたならば、世界はそのように上書きされてしまう。ベルリオーズを仕留めた後、リゼを奪われたときの二の前になるわ……」


 しかも、彼女の大聖堂で意識を飛ばされるときは、猛烈な快感があるのだ。クセになりそうで怖い。それがまた腹立たしい。やられるたびに、今度は絶対それをするなと忠告しているのに、一向にやめてくれない。アリスは猛烈にムカムカしてきた。

 これはもう、別件でリリウムを串刺しにしてその辺に晒し者にしても許される案件のような気がしてきたが、今はリーンズィが大事だ。

 リリウムへの仕置きは後回し。

 浮き立つ己の肉の心臓を信じる。

 大聖堂の本性は割れている。惨禍を招いた科学世紀は、奇蹟の解体を既に終了している。あれはレーゲントどもが信じているような不可知にして不可侵の聖域ではない。

 それは『原初の聖句』で構築された完全架構代替世界。自己参照型の無限詠唱と言うと大仰だが、結局のところ、基底現実とは僅かに異なる『自分だけの現実』『その場凌ぎの別の世界』を展開しているに過ぎない。


 それを貫く矛が、事実としてウンドワートにはある。

 デイドリーム・ハント。次世代型先進的超高機動制御。オルタネイティブワールド・カタストロフ・オペレーション。完全架構代替世界触媒式先進的破壊事象干渉! 

 大聖堂と比較しても遜色の無いウンドワートだけの特殊兵装――即ち、死者たちの時間、機械たちの時間を呼び起こす禁じられた兵装。完全架構代替世界において、これから起こること全てを予め確定してから、肉体の意識を一時的に眠らせた上で、物理法則を無視した速度で現実に実行させる。

 物理的に最高強度の機体で以て、最適な行動を神速にて実現する。

 シンプルながらも絶対的な殺戮技巧、領域殲滅用のジェノサイダル・オルガンだ。

 聖句の城塞も何するものぞ。

 我が身を弾丸として打ち出せば、リリウムの声とて追いつけはしないのである。


「……アルファⅡモナルキアが規格外すぎるだけ。デイドリーム・ハントは最強のジェノサイダル・オルガンなのよ。だからリリウムどもを皆殺しっていうコースは、本当に簡単なこと。近衞の重スチーム・ヘッドや親衛隊を全部ぜーんぶ破壊してから、リリウムの人工脳髄をぶち壊すのに、三秒もいらない……だけどそれはやりすぎというものよ。人格記録に手を出すのは後味が良くないもの」

 

 それに、リーンズィだって、ついさっきまで肉体的に接触していた機体が破壊されたらちょっとぐらいショックだろうし、とごちる。

 まだアリスが、ただのアリスだった頃、恋敵などというものは畢竟殺せばいいのではないか、と旧世代のドラマを見る度に思ったものだが、当事者になってみると、予想より遙かに「やりたくないこと」であるものだ。

 あるいはリリウムに対し、同じ人物に好意を寄せているということでシンパシーを感じているのかも知れない。



 彫刻刀をくるくると回しながら、白髪の少女は悩ましげに嘆息する。

 ウンドワート・アーマーはあらゆる装甲材質の結晶純度において他の機体を凌駕している。

 極端に言えば刃や電磁加速砲を使わずとも、ただ小突くだけで敵のスチーム・ヘッドは粉砕される。

 それは「破壊しないためには相当な繊細な出力調整が必要になる」ということでもある。

 ウンドワートは強力すぎるのだ。壊さないとなると途端に何も出来なくなるのが、アルファⅡウンドワートという兵器の隠された弱みだ。

 花嫁たるリーンズィだけを精密に奪い去り、急速に離脱する。

 なおかつ、この間、再起不能なレベルでダメージを負う機体は一切出さない……。

 真っ先に「無理だ」という諦観が浮かんでしまう。


「私に出来るのは勝つことだけだもの……」


 ヘカトンケイルの口利き(サポート)がどの程度通用するか、というのも不安要素だ。そもそも本当にそんな厚意を見せてくれるのだろうか。対価が必要なら幾らでも払う覚悟だが、最大限度見せてくれたとしても、解放軍の同胞を破壊したことの免罪まではしてくれないだろう。

 デイドリーム・ハントも、仮初めの世界の実像に対し先行入力するだけの機能に過ぎない。こと精密な作業が必要となり、しかも一度の中断も許されない仕事となると、万能とは言えなくなる。

 夢を叶えるために眠りに付く。

 しかし目が醒めたとき思い通りの未来が待っているとは限らない。

 完全架構代替世界の相性から、こちらは『大聖堂』の中で眠り続けるしかないのだ。フルオート動作の全工程が終了するまで、自分には現実に何が起こっているのか感知出来ないし、動作の途中での行動入力の微調整など一切不可能になる。


 だから、恐ろしい想像が一つある。

 もしもデイドリーム・ハントで突撃した先で……。

 夢うつつのうちに、リーンズィを破壊してしまったら? 

 あの儀式は異様に長い時間設定がされていた。リーンズィとリリウムは未だ寄り添ったままだろう。二人が絡まり合っていたら、一緒くたに切り裂いてしまうかもしれない。

 ……自分が目覚めたとき、リーンズィがアーマーの爪に切断されて半分だけになっていたら。

 目覚めたとき、リーンズィの首輪型人工脳髄を破壊してしまっていたら……。


 単なる仮定があまりにもおぞましく感じられて、エプロンドレスの裾を掴み、唇を噛む。


「怖くない、怖くない。私は勝利するの、今回だって勝利するの。ビビってる場合じゃ無いの。ここで諦めたら私はあの子の一番でいられなくなる。やるしかない、やるしかないのよ……」


 どれだけ精緻にシミュレーションしても、たった一つ至りたい現実を、確実に導くことは出来ない。

 臆病さを完全に捨て去り、感情や理想のままに暴走出来ればどれだけ楽だっただろうと夢想する。

 かつてクヌーズオーエ解放軍からあらゆる不正義を排除すると息巻いていた優秀なスチーム・パペットのことをしばし思い出す。

 妙に自分を慕っていたので印象が濃い。

 ……弱者の側に立とうとするという点では、同じ方向を向いていたのだろう。

 ベルリオーズと名付けられたその機体は、やがて狂気に飲まれて、どこか知らない場所に行ってしまった。

 思考が完璧に破綻した機体は惨めで、無様だ。

 そんなやつらと自分は違うと考えていたが、しかし存外に自分にも同じ素質があったらしい。


 白髪の少女は赤い目を爛々と光らせた。

 どんな想像をしても、心臓の早鐘が収まってくれないことを確認した。

 ああ、もう私は引き返せないんだな、と降伏する。

 頭の芯まで、人工脳髄の回路の一本一本まで、リーンズィのためにイカレてしまった。


「やってやるわよ、やってやるわ」と小さな声で呟く。「奪い取る。あの子は、私のモノなんだから」


 戦術ネットワークからリーンズィとリリウムのライブ配信の経過時間を確認。

 内容はムカムカするので当然確かめない。実に三日三晩の予定で組まれているとんでもないスケジュールに気付いて憮然としつつ、襲撃の機会は今しかないと理解する。


 リリウムはおそらく肉体からの継続的な情報入力で人工脳髄をハックし、さらに聖句でリーンズィの愛着傾向を操作して、信仰の対象を自分に固定化させるつもりだ。

 だがリーンズィの対抗言詞戦闘能力は強大。

 デイドリーム・ハントに干渉してくるレベルなのだから、大聖堂に易々と屈するようなレベルではあるまい。


 そこでこの異常なスケジュールの意味が分かる。大主教をもってしても、アルファⅡモナルキア・リーンズィを陥落させるには三日三晩が必要。

 そう読み替えても不自然ではあるまい。

 つまり、ここで中断させれば、リーンズィは致命的な改変を受けずに帰ってくる。

 いや多少は変になっているかもしれないが、拷問するなり――ウンドワートとして完成して以来、自分からやったことはないが――一生懸命に愛情を注げば、元に戻せるだろう。たぶん。


 一応、戦術ネットワークの受信フォルダを確認する。メンテナンスを終えて以来、ヘカトンケイルやファデル、さらにはペーダソスから数百件のメッセージが届いていた。

 全件を無視。どうせリリウムの行いに対して冷静さを失うなとか、そういう内容だろうが、生憎とそんなのはとっくに遺失済だ。

 犬のお巡りさんにでも問い合わせておけと言いたかった。

一人軍団(アウスラ)としての権限でマップデータにアクセス、件の冒涜的侵略行為が行われている廃教会までの道順をロード。

 即刻出立してオーバードライブで駆け抜ければ二度目の夜は阻止できると算出。


 アーマーとリンクを結んで暖気を開始。改めて機体ステータスを確認する。試運転は終えているので駆動系に問題は無い。背部重外燃機関の状態は不明。乗り込んで採血させなければ緊急発電は出来ないが、ぶっつけ本番で構うまい。

 まともに動かないようなら、今度こそハンガーに殴り込みを掛けて特急で直させる。


「無事でいて。待っていて。すぐに私の後輩に戻してあげるからね、リゼ……! 嫌だって言っても、離してあげたりしないんだから。リゼは私の後輩なんだから! ずっとずっと一緒なんだから……!」


 ここからは闘争の時間だ。

 エプロンドレスを脱ぎ捨て、インナースーツだけの姿になって上層階への階段を駆け上ろうとしたまさにそのとき。

 背後で店舗のドアをノックする音が聞こえた。


 こん。こんこん。こん。こんこん……。


 白髪の少女は訝しげにドアを振り向く。

 飾り窓とショーウィンドウには、内側からフリル付きカーテン。外側にはCLOSEの看板(ウサギマスコットがごめんなさいジェスチャーをしているイラスト付き)。電灯は使っていないので光が外に漏れていたと言うことも無いはずだ。

 何も知らぬ客が来るなどあり得ない。


 では誰だろう? 

 ヘカトンケイルあたりがまたぞろ不埒な誘い、惑わしの文句を垂れ流しに来たのか。そう合点する。戦術ネットワークを覗くと、案の定さらに追加で何十件もメッセージが来ていた。

 ペーダソスか、誰か。応答が無いので、直接訪問してきたというところだろう。

 勢いを削がれてしまった気がして、ウンドワートは不機嫌になった。ヘカティたちのことは信用しているが、今回の案件では正直、頼る気は無い。自分の想いで成し遂げねば意味が無いことでもある。

 無線で警告してやっても良いが、ここは一つ肉声でガツンと拒絶の意思を示すべきだろう。


 肩を怒らせながら、小さな体でズカズカとドアに向かい、十数個の機械錠をアンロックしてドアを開いた。

 陽光に目が眩む。

 そう言えばもうすっかり昼間なのだ。

 見上げるほどの高さの人影、逆光の黒い輪郭、誰だか知らぬ影を、ヘカトンケイルではない誰かを、赤い瞳で睨めつける。

 機嫌の悪さをアピールする声音で静かに威圧する。


「うるさいわね、うるさいわね! 何の用なのよ、私はこれからリーンズィを奪うために戦闘を……」


「せんぱい」と訪問者は弾む声で、万感堪えた様子で囁いた。「レア、せんぱい……」


「え?」


 心臓を撫でるようなその愛しげな発音に、虚を突かれた拍子に、花水木の芳しい香りが鼻孔をくすぐる。

 それだけでレアの脳髄は痺れるような喜悦を滲ませてしまった。


「えっ、えっ……? え。あれ。あれ、あれ……? どうして、どうして……」


 レアの瞳が、光を取り込んで、きらきらと宝石のように輝いた。

 リーンズィ。

 ドアの向こうに立っていたのは、リーンズィだった。


 突撃聖詠服で身を固めた背の高い少女は、泣きそうな顔で膝を折り、レアを真正面から抱きしめた。

 言葉を紡ごうとして、唇を重ねられた。

 絡み合う感触と熱に震え、我知らずライトブラウンの髪の香りを楽しむ。

 慰みのための香水とは比べものにならない、愛しい人の至上の香り。

 呼吸で互いの存在を確かめ合い、互いの吐息の熱を感じながら、顔を離す。


 レアは、ぼうとした頭で、しかし真っ直ぐに視線を合わせてくる翠玉の瞳、己の赤い瞳を映す涙で潤む瞳に、心までも吸い込まれそうになった。


「どうして、どうしてここに……?」


「会いたかった……レアせんぱい、やっと還ってこられた。レアせんぱい、レアせんぱい、レアせんぱいぃ……」


「本当にリーンズィ……なの……?」


「そうだ。そう。私は、君のリゼ後輩だ。レアせんぱい。リリウムに随分と酷いことをされた……せんぱいは、まだリゼ後輩と呼んでくれる……?」


「そんなの、そんなの」


 リリウム襲撃への意志など、一瞬で霧散してしまった。

 だって、欲しかったものが、ここにいて。

 重なる体温が、こんなにも心地よくて。

 自分を、レアせんぱいと呼んでくれている……、

 

「そんなの当たり前じゃない! リーンズィ……私の、リゼ。私だけの後輩。もう、もう離さないんだから。誰にも渡さないんだから」今度はレアから唇を奪う。体格差など問題にならない。無類の歓喜だけが、彼女の矮躯を疼かせていた。「ああ、こんなことって。いったいどうしたのよ。その、リリウムと婚姻の儀式をやって……ずっと、リリウムと一緒だったんでしょ。それがいきなり、私のところに来るなんて……何が起きてるの? 何があったの、どうしたの。今もあっちにいるんだと……」


「うん……。詳細は省くが、調停防疫局は当初の予定通りスヴィトスラーフ聖歌隊と協調することに決めた。その際に条件として出されたのが、組織間での婚姻だったのだ。あれはその手続きの一環……」


「でも思いっきりリリウムと色々してたじゃない、配信までして!」


「それはその、変な儀式が始まり……そういうものなのだなと思って、空気を読んで合わせていたら、気がついたら、あのような大変なことに」リーンズィもさすがにあの事態の発展は恥ずかしかったようだ。「リリウムは私の肉体、ヴァローナの肉体について知り尽くしている。つい流されてしまった。対抗手段は完成していたが、あのままだと本当に思考をハックされそうで怖かったので、逃げてきた。私、リーンズィという個人まで捧げるとは決めていない。後々問題になりそうだけど、私がいたい場所は、あそこじゃなかった。レアせんぱいと会いたかった……レアせんぱいの隣にいたかった。リリウムには申し訳ないが、リリウムの胸に抱かれながら、レアせんぱいの愛の言葉が欲しいと思った」


「そう、そう……」レアは涙を零して頷いた。「無理しなくても、待っていれば私が助けに行ったのに。皆殺しにしてあげたのに」


「皆殺しは善くない。それでは、レア先輩がいなくなってしまう。私はここに来たくて……自分で頑張って戦ったのだ。リリウムのことなんて、どうでも……どうでもよくはないが……いつまでも時間を割きたくない。レアせんぱいは、私のことを信じてくれていなかった?」

 

 その言葉に、息が詰まりそうになる。

 信じて待っていれば良かったのに、無理矢理二人を引き離そうとした自分が、あまりにも愚かで、短絡的で、救いようがなく思えた。

 謝ろうとした時の呼気を、リーンズィの接吻が奪った。


「信じてくれるだろうか? 信じてくれる?」


「うん。リーンズィ、リゼ、信じる。あなたを信じてる」体の緊張がとけていくのをレアは感じた。「……でも、その……まだ配信続いているわよね? いったいどういうカラクリよ。誰がリリウムの相手を……」


「ミラーズも調停防疫局のエージェントなので、代理人が出来る」


「え。あのミラーズが、相手してるの。親子なんじゃ……でも超上級レーゲント二人の……体格は私とほぼ同じ……ちょっと気になるかも」以前遭遇したとき、一瞬で肉体の感覚を掌握されたときのことを思い出し、レアは図らずももじもじとした。あれぐらいの手管があれば自分の体格でもリーンズィを……。「違う、そうじゃなくて……アルファⅡモナルキア・リーンズィが、正式な代理人なんじゃないの」


「主体は装備の方にある。一時的に権限を譲渡してきた。現に私はほぼ非武装の状態だ。ヴァローナの蒸気機関(オルガン)は拾ってきたけど。昨日の夜脱走して、関係各所からアドバイスをもらいながら、ここに来た」


 レアはリーンズィの装備状況を確かめるフリをしながら、衝動に任せて愛しい少女の体温や引き締まった肉の柔らかさを堪能しつつ、丁寧に装備状況を確かめた。

 確かにアルファⅡモナルキア特有の奇怪な装備が見当たらない。

 生配信のチャンネルを開くと、いつのまにやらリリウムの相手は本当にミラーズに切り替わっていた。背徳的な映像にレアは柄にも無く唾を飲み込んだ。武装は申し訳程度に祭壇に置かれている。後学のために内容を見ていたい気持ちが湧いてきたが、後でアーカイブ配信を見れば良いしと割り切る。

 どうやら自分が臆病にも情報を遮断している間に、物事が一気に進んでいたらしい。


「度胸、度胸があるわね。危ない橋を渡るものね」


「でも、リゼ後輩は、レアせんぱいのモノだから……」リーンズィは恥ずかしそうに微笑んだ。「ただいま。ただいま、リゼせんぱい。ここに来るのは初めてだけれど、でも、ただいまなんだ。レアせんぱいの居る場所を、私の居場所にしたい。レアせんぱいの隣にこそ、私の帰る場所がある……リリウムとの儀式を観て、とても怒っていたと聞いた。それについては、ごめんなさい。たくさんごめんなさいをする」


「いいの、いいの。リーンズィ、リゼ。私の……ねぇ、リゼ。私の大好きなリゼって言っても良い?」


「大好きなせんぱいには、どんなふうに呼ばれても嬉しい。好きなだけ、好きなように呼んでもらえるのが、私は好き。せんぱいはいったい何をしていたのだろう。していたの? 脱走している途中に、ヘカトンケイルからは爆発寸前と聞かされていたので急いできた……」


「あなたを奪い返したくて。ちょっと気が変になってたの。だから、全部壊そうと……ああ、でも、でも、全部杞憂だった。あ、は……あは、その……うれしい。嬉しい。嬉しいの、リーンズィ。そう、そうよね。私のことを忘れ去って、されるがままにされてるだなんて。私のことを放っておいて、他の誰かに夢中になるだなんて。ありえるはずはなかったの。えへへ……リゼ、りーぜ……私の、私だけの、こうはい……リーンズィ、リーンズィ、リゼ……」


「レアせんぱい、レアせんぱい」


 互いに名前を呼び合う。

 それだけのことが、たまらなく嬉しい。

 思えば、技術者たちが、どうしてウンドワート・アーマーの修理をボイコットしていたのか。

 ヘカトンケイルが普段の彼女とは毛色の違う、迷わせ、惑わすような言葉を投げかけてきたのか。


 ……彼らがあの時点でリーンズィが逃げ出したと報告を受けていたのだとすれば、物事はあまりにも簡単だ。


 彼らはウンドワートの殺意が撃発するのを防ぐために、意図的にそうしていたのだ。

 オーバードライブを使えるなばら、半日もかからぬ道程。

 進軍の過程で整頓された市街……。

 リーンズィでも簡単に帰ってこられる道筋だ。

 ならば後は時間稼ぎをすれば良い。

 ウンドワートが待っていれば自力で到着する。

 事態を穏便に収めるには、この攻略拠点でウンドワートを足踏みさせておくのが、最善手だったのだ。

 

 せめて最低限の情報共有があればとレアは想った。

 しかし、もしも耳にしていれば、一刻でも早く遭うために、ウンドワートはいくらでも無茶をしていたことだろう。そうなれば、メンテナンスでは癒やせない部分の根源的な疲労が増大していたはずだ。

 それらのリスクを全て勘案した上で、ヘカトンケイルたちは芝居を打っていたのだ。


 そしてアルファⅡモナルキアに通信が繋がらなかったのは何故かと言えば、アルファⅡモナルキアの蒸気甲冑は、現在誰にも装備されていないからで、これもまた、如何にも呆気ない理由だ。

 リーンズィの首輪型人工脳髄には長距離通信機能が無く、肝心の本体はバッテリーを抜かれた通信機も同然の状態で放置されている。誰も応答しなくて当然だ。

 脱走について事前の連絡が無かったのもリリウムを欺くためだったのだろう、と思いきやこちらはペーダソスその他を経由して結構入っていた。というかほぼ全てがそうだった。

 ヘカトンケイルからも出撃しようと決めた直前からリーンズィ到着の直後あたりまで継続的にその件で連絡が来ていた。

 まぁヘカトンケイルからのメッセージはいつも通りスパム同然の内容であったが、そこは個人的な問題で冷静さを失っていたウンドワートの落ち度であった。


 全てを理解したレアは、すっかり気が抜けてしまった。復讐も破壊も、破壊的な欲望も、抜け落ちてしまった。心の空虚を埋め合わせるように、リーンズィの体温が内側に入り込んでくる。素直にそれを受け入れて、身を委ね、心からの愛を囁く。そこに虚飾も演技もありはしない。

 よぎるのは遠い日、忘れ去られた残光、木漏れ日のような残骸の記憶――割れた心から漏出した幸せだった日の笑顔。

 もはや彼女自身すら思い出せない、はにかんで薄く笑む、胸ときめかす少女の貌。


「りぜ……りぜ……全部捨ててでも、あなたのことが、欲しかったの。リリウムを壊してでも、欲しかった……」


「平和的に解決する手段はたくさんある。レアせんぱいには……仲間と殺し合って摩耗するような、苦しそうな姿は似合わない」

 

「そう。そうよね。良くない考えだったわ」ウンドワートはリーンズィを抱きしめ、頬を合わせる。「リーンズィの言うことはいつでも正しい」


「そんなことより、これを。心配を掛けたお詫び……」リーンズィは大胆にも突撃聖詠服の釦を外し始めた。どぎまぎするレアの目の前で、服の内側をごそごそと漁って、花束を一つ、差し出してきた。「花の善し悪しを私は知らない。でもエージェント・ヴォイドが、わざわざ私のために用意してくれた花のようなのだ。プレゼントしにしなさいと。きっとウンドワートが喜ぶからと……託してくれた」


 レアは目を丸くした。

 呼吸を、停止した。

 不死の心臓が脈打ち、臓腑を快楽で震わせるのに耐えた。


「ほ、本物の花じゃない。こ、こんなの気軽に持ち出しちゃダメなんだからね……!?」


「気軽じゃない」リーンズィは囁く。好意の自覚があるのか、少しだけ耳が赤くなっている。「使い方と意味はペーダソスから聞いた。私の気持ちを使えるための言葉は、まだ私にはちゃんと備わっていない。だから、君に花束を贈る。君の笑顔を信じて、花束を贈る……」


 生花はクヌーズオーエにおいては貴重だ。

 廃教会の存在するエリアならまだしも、生物を生育させることが難しい都市部では、度を超した値段で取引される超高級品である。数日で枯れてしまう無価値な品で、実用性は勿論無いが、これを敢えて他者に贈るということには人類文化継承連帯においては重大な意味がある。

 愛の告白。そのような意味づけがされている。

 解放軍にはスチーム・ヘッド同士の婚姻制度はまだ存在しないが、擬似的なパートナー関係を固定することは稀にある。その際に使われるのが生花だ。

 この寒冷かつ不毛の回廊都市において、生花を瑞々しい状態で維持して運ぶには、スチーム・ヘッドの血液をふんだんに吸わせるしかない。血は魂の破片である。

 その結晶体を花の形で相手に贈るのだから、意味合いは決定的だ。

 花束をわざわざ手渡すとは、一切合切の運命を共有したいという熱烈なメッセージに他ならない。


 受取ったときの作法をウンドワートは心得ていない。それでも、そういう慣習の存在は知っているのだ。そっと花を近づけ、香りを吸った。リーンズィの体液を吸い上げた花束はまさしく彼女の香りを放っている。

 ウンドワートの薄い唇は恐る恐る花弁に口づけして、それから一枚を噛み千切って、飲んだ。

 脳髄が沸騰するような陶酔が彼女を突き抜ける。

 レアの殺意は、あらゆる知覚可能な世界で、崩れ落ちた。

 感極まった様子で胸に抱く恋人の名前を何度も繰り返し、「リゼこうはい」の体温を求めた。首に両手を回し、ライトブラウンの髪をかきあげながら、深く、深く、愛しの少女に触れた。リリウムの香りが残っているのにすぐ気付いたが、怒りではなく対抗心だけが煽られた。慣れない舌先を口腔へ差し入れ、嫉妬深く、愛に飢えた吐息を零し、リリウムの痕跡を舐め落とした。

 元来、ウンドワートは自分から積極的に他者と交流するスチーム・ヘッドではない。

 欲動はいつでも一方的に注がれるものだった。

 だがこの時ばかりは、彼女は全身の肌を熱く染める衝動で、リーンズィを求めていた。


「……レアせんぱい。綺麗だ。とっても可愛くて……でも……綺麗だ」赤い瞳に魅入られながらリーンズィは微笑した。膝上に跨がるレアにキスを返し、それからそっと額を合わせる。「レアせんぱい。許してくれるだろうか。私の不義を。リリウムとの関係は、遺憾ながらこれからも続くだろう……。でも、信じてくれるだろうか。私の……せんぱいへの、気持ちを」


「まさか、まさか。これぐらいじゃ――足りないわ」


 レアは、夕暮れ時の太陽のように揺れる赤い瞳を潤ませながらリーンズィに縋り付いた。ボディラインが浮かぶインナースーツを隠すこともしない。己の矮躯を晒すことに恥じらいは生じない。ただ全てをリーンズィに捧げたいと、レアは夢想していた。


「気に食わないわ。だってまだ、リリウムの匂いがする」


「シャワーを浴びてくるべきだった?」


「違うの。違うの。ここに、私が居るでしょ。あなたを、私で……塗り潰したいの。私の香りで、あなたに、染まって欲しいの。ねぇリーンズィ……私を浴びて。私に溺れて。私に沈んで。私を連れて行って。ねぇリーンズィ、いっしょにいこ? 帰還してくれて早々、こんなことをお願いするなんて、節操が無いって思うかもしれないけど」


「せんぱいが望むなら。でもどこで」


「いいえ、いいえ。特別よ? 特別に……私のベッドを使わせてあげる。二階に自慢のベッドがあるの。ふかふかで、ふわふわで。きっとリゼを満足させる。私も頑張るから」


「そう望むなら、一緒に……。レアせんぱい、体の調子が悪い? どこか具合が悪そう」

 

「聞かないで、聞かないでよ。恥ずかしいから。……立ち上がれないのは、あなたのせいなんだからね。ねぇ、私、本当に嫉妬しちゃったの。どれだけ悔しい思いをしたか、分かるかしら。分かるわよね。だから、リリウムにしていたみたいに………私を、お姫様みたいに、抱っこしてくれる?」


 頷くリーンズィの生身の両腕が、レアの背中と脚に回された。互いの体温がさらに密着する姿勢に、二人の息遣いは、さらに静かに、深くなった。持ち上げられながらレアはリーンズィを抱きしめ、じっと彼女を見つめた。リーンズィは潔癖そうなその顔に微笑を浮かべた。我慢が出来ないと言った色を浮かべて、求められるがままレアの白髪に指を通した。彼女の唇を楽しませた。

 透き通る肌から湯気を立てるレアは、何度も短く息を吐き、それから、心底の幸福で、まなじりを涙で輝かせた。


 二人にとって、それ以上の言葉は、何も必要でなかった。レアが求め、リーンズィが応える。不安など何一つ無い。そんなものは不死の肉体には無意味で、インスタントな麻酔にしかならない。そんな刹那的な時間でも、この先にある道には幸せな日々しか待っていないと、確かに信じられた。

 リーンズィは開けっぱなしだったドアを後ろ手に閉めた。そのときレアは、リーンズィの通ってきた道に、一匹の猫がいるのを見つけた。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()猫は何事かするでもなく、暗黙のうちにレアの幸福を祝福していた。

 その光景がレアの人工脳髄が捉えたのは一瞬のことだ。

 遠隔操作で扉の錠前が起動し、鎖された。 

 精霊の如き非人間性を讃える白い髪をした少女、愛しい人の胸に抱かれて、触れあうことを求め、繰り返し繰り返し、己の感情を確かめた。

 探し求めてきた幸福が、ここに肉体として存在している。

 理由無く求め、また求めてくれる誰か。長年探してきた魂の片割れと、ついに出会えたという高揚感。

 組織とアルファⅡモナルキアは、聖歌隊に取られてしまったらしい。

 だが大好きなリーンズィのほうは、私をこそ選んでくれた……。


 やがて寝室の扉が閉まる。

 調度品のカーテンを引いても、まだ光が入り込んでくる。

 レアは己の身を、ベッドの真ん中に壊れやすい硝子細工のように横たわらせた。

 そして傍らに腰掛け、宝石のような赤い瞳を重ね、そして彼女の唇に、そっと触れた。


 

 それは彼女が最後まで忘れなかった幸せな一幕。

 最初のキスは、アリス・レッドアイ・ウンドワートからだった。

 ライトブラウンの髪の少女が己を知るのを、嘘偽りない幸福で以て受け入れた。それはかつての汚辱や、ヘカトンケイルの拷問とも全く異なる、真の愛情によって構築された、緩やかな自己破壊。

 少女は自分という人間の暴力性が、ベールの如く脱がされていくのを感じている。

 彼女は幸せというものの輪郭を、この日初めてその目で視た。

 その完全架構代替世界に、恋という概念への理解が生じた。

 祈りにも等しい、胸をかきむしるような未来予想図。

 この記憶さえあれば、幾億年の孤独も耐えられると、少女は信じた。

 ああ、確かに――彼女は、そう信じたのだ。


 







> 生命管制UYSYSより警告。

> エラー。認知機能がロックされています。

> ロック解除要請を受諾。バイタルを安定させてください。

> 精神外科的心身適応、最大レベル。

> エラー。心身反応、抑制出来ません。危険です。非推奨。非推奨。非推奨。

> 続行命令を受諾。レコードの読取を再開します。

> エラー。レコードが破損しています。

> レコードの修復を試行してします。

> ………………

> …………

> ……


> アルファⅡモナルキア、リーンズィ。落ち着いて聞いて下さい。

> この媒体には不可逆的な変質が起きています。修復は不可能です。



> 擬似人格『アリス・レッドアイ・ウンドワート』のサルベージに失敗しました。


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[一言] !?!?!??? 急転直下の鬱展開...?
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