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アフターゾンビアポカリプスAI百合 〜不滅の造花とスチームヘッド〜  作者: 無縁仏
セクション2 スヴィトスラーフ聖歌隊 大主教『清廉なる導き手』リリウム
74/197

2-12 祭礼のために その7(4) 破滅の渦を識る者たち

 己の尾を食らう蛇の如く光景は流転する。

 不滅の兵士どもは、虚無の辺縁より湧き上がる泡の如し。

 目に見える全て、熱病が苛む夜の夢幻の如き理不尽。

 聳え立ち震動して増殖する塔の影、凜然と前を向く金色の髪をした少女の影。

 瓦礫が地に落す欠片を飲み込み、ぞろりと鎧われた腕が這い出づる。

 いずれか知らぬ猫の戒め、ロングキャットグッドナイトの配下どもである。

 彼らの有り様は、一般的なスチーム・ヘッドよりはむしろ、恐慌状態に陥った不死病患者に近かった。手にした武器をあらぬ方向に振り回し、同士討ちを始める個体さえ混じっていた。

 事前の連携が何も無いのか、そのような機能がそもそも備わっていないのか。いきなり塔の嵐に巻き込まれて混乱しているのかも知れない。

 だが全てがそうした狂騒に我を失っているわけでもない。

 無数のヘルメット、無数の矛先が、リーンズィらを敵と見定めて、無機質な昆虫の挙動で睨め回す。

『警告。この量を捌ききるのは不可能と判断します』

「視れば分かることを報告する意味とは?」

 リーンズィが焦燥も露わに唇を舐める。ただでさえ塔の不滅者ヴェストヴェストと処刑台の不滅者ベルリオーズの相手で手一杯なのだ。これ以上は猫の手も借りたいが残念ながら猫さえも敵であった。悲しい。


『統合支援AIとしては当然の動作だと進言します。当機の責任は全て貴官に帰属しますが、事前の報告が無かったとして糾弾された場合当機と当機の可愛いミラーズの権利が今後制限される可能性があり、仕様通りの動作です』


「そう……」リーンズィはそう、と思った。


 塔増殖時の轟音はそのままなのだが、聞こえてくる声には接触回線・短距離無線と肉声をサンプリングして作ったらしい合成音声に切り替わっている。

 おかげでケットシーのグチグチとした言葉も聞き取れた。


「ヒナの医療支援AIのユンカースもいちいち細かいこと言う。でも芸能界は悪い人や弁護士が跋扈する闇の世界……ノーリーガル、ノー視聴率がプロデューサーのモットー。法律に触れない範囲でやっていかなければ生き残れない」


 雑談をしている間にもケットシーは八相を崩した奇異な構えで全周を警戒し、リーンズィも重外燃機関の回転数を上げながら拳闘に備える。ユイシスの判定によれば不滅者たちの不朽結晶には『破壊可能』のタグが付けられている。対応能力に限界はあるにせよ、ガントレットの拳が最も有効な攻撃手段だった。

 それらは青天の霹靂めいて打ち倒される。リーンズィたちには、何が起きたのか分からない。

 不滅者達が粉砕され、切断された状態で拘束されている。

 赤い竜の紋章を貌に刻まれた、渉猟の騎士――ウェールズ王立渉猟騎士団。

 その超越者の機動は『異様にして奇怪』と言うのが適切である。時と時の間に横たわる、粒子の一粒にも満たない霧の帳。その狭間を行き来する古式の甲冑は、不滅者と対峙する度に注油を疎かにされたブリキ人形のようによろめき、ガラクタめいてしばし沈黙した後、雷光すら追い及ばぬ超常の歩法、不可知時間の躍動で不滅の兵士に組み付く。

 少女の赤く変色しきった瞳は、瞬きすらしていない。その超越存在が、須臾にも満たない、おそらくは静止した宇宙の中で、どのような技を成したのかすら判然としない。

 素の機動性を考えると、観測不可能、追従不可能なだけで、物凄く泥臭い動きである可能性が高いが。

 そして、片端から殺す。潰された兵士の残骸は水のように流れて落ちて、地面に溜まり、すっくと起き上がって眠たげな猫へと代わり。兵士たちが出来の悪い人形劇のようにもたもたと取っ組み合いをしている傍で、ぐぐ、と伸びをするなどして安らぎ、そのうち塔が押し出されて街を崩すときの暴風に巻き込まれて「にゃー」とどこかへ飛んでいき……その猫髭の揺らめきからまた兵士が這い出てくる。


 リーンズィは、起動してから一度も悪夢など見たことが無かった。

 恐ろしい思いはたくさんしたし、苦しい経験も多少はある。

 カタストロフ・シフトで移動した世界などはまさしく悪夢的荒廃に襲われていたのだから、慣れっこだった。

 だから、悪夢などというものは。

 きっと馴染み深いものだと思っていたのに。


「え、何……どういうことなのだろう、これは。分からない……私は……これは……?」


 スチーム・ヘッドのさらに先にあるものども、不滅者とウェールズ王立渉猟騎士団の尋常外の戦闘を眺めているだけで、足下が覚束なくなり、生命管制が乱れて脈拍数が上がり、肉体が逃走反応を示して大量の発汗を始める。

 生涯で最初に見る悪夢は、ただの現実だった。

 エージェント・アルファⅡやヴォイドは、間違った星に着陸した宇宙飛行士のようだった。モナルキアを継ぎ、重外燃機関を背負った今の彼女は、宇宙飛行士と言うよりは大災厄に巻き込まれた扮装趣味のバックバッカーのようでいて、憐れなほど狼狽え、まったく文字通り目を回してしまっていた。

 無理からぬ話である。アルファⅡモナルキアを戴冠し、アポカリプスモードが何を引き起こす機能なのか理解して、慄然としていたそばから、虫のように不滅者が湧くようになり、さらに無から古式の蒸気甲冑が現れて応戦する。

 ロングキャットグッドナイトの不滅者も、ウェールズ王立渉猟騎士団も、消えたり現れたり止まったり、間違えて同陣営の機体を攻撃して狼狽えたりしている。

 おまけに前方では首無しのディオニュシウスが風車に挑む騎士のように暴れ回っている最中だ。


「う……あ……?」


 つまるところ、人間の認知に負える世界では無い。

 リーンズィはカタストロフ・シフトで異世界に転移したときよりも重篤な疲労感に襲われていた。

 認知能力に与える負荷が大きすぎる光景だった。


 スチーム・ヘッドは、一般的に知覚した情報は可能な限り処理しようとするものだ。

 今回はそれが裏目に出た。

 ウェールズ王立渉猟騎士団と<猫の戒め>の戦闘はあまりにも支離滅裂で、錯綜しすぎている。


 事務的な声が告げる。『音声補正開始。認知機能ロック、無線音声と肉声の区分を不許可。情報錯綜・電子盲化のリスクを受け入れ、負荷軽減のため、本作戦においては当機以外の全ての通話を肉声として加工します』


 ここからは通信も声も関係が無いらしい。

 それだけの事実でさえ、飲み込もうとすると吐き気がする。

 切り結ぶ相手を見定めていたケットシーも、見渡しているうちにこの異常極まる環境に適応できなくなったらしい。大型不朽結晶剣を背中の蒸気機関搭載型カタナ・ホルスターにおさめて、鉢巻のあたりをごしごしとやり、胸元を押さえて布地を掴み、船酔いを起こしたような声を漏らす。


「り、リズちゃん……この状況きもちわるい……世界がぐるぐるしてる……」


 黒髪の美姫は、剣鬼の面影も無く、怪しい足取りで切なげな声を出した。

 リーンズィの左腕側、ガントレットの側に回って縋り付いてくる。

 ライトブラウンの髪をした少女にしても、悪夢に魘されているかのような顔色で、至って頼りが無いのだが、それでも反射的にケットシーを抱き留めることは出来た。このような具合でもたれかかってくるミラーズを何度も迎え入れた経験があるからだ。


「しかし、リズちゃ? リズチャとは……」


 聞き慣れないようでいて、それでいてどこか記憶の襞を刺激する、その呼び方が妙にくすぐったい。

 問い返しながら、ガントレットの左手に力を込める。胸部以外は細身の少女ではあるのだが、装備している蒸気甲冑や不朽結晶装備まで含めるとそれなりに重い。

 状況を考えると自律を促すべきである。

 しかしリーンズィは撥ねのけることはしなかった。

 右手はミラーズに引かれ、左手でケットシーに抱かれたまま。そんな奇妙な体勢を、甘んじている受け入れる。

 深い理由は無い。混乱状態の肉体が愛着感情をベースにした意志決定をサジェストしてくる。つまり自己安定を求めてこのような真似をしているのだ。

 この死地、数mの範囲内で超越者どもがプリズムに映じた光のように摩訶不思議な殺戮を繰り広げる、このキリング・フィールドで。


 博愛の心があるとは言わない。しかし、明らかに冷静では無かった。あまつさえ、左右から暴風と共に流れ込んでくる二人の少女の甘い蜜、定命の人間の陥穽を突く不死病患者の華やかな芳香に酔うことさえしている。

 死地の只中とは思えぬほどの個人的混迷であった。狂騒の最中でも、傍らにある体温に気持ちが移ろってしまうのは、リーンズィという擬似人格の由来、ミラーズとの粘膜接触に始まる経験の蓄積に由来する迷妄か、はたまたヴァローナの身に染みついた淫蕩の残滓か。


「リズちゃんは……リーンズィ。リーンズィって言いにくいし。名前の言いやすさは大切。二文字の方が口当たりが良い。だからリーンズィはリズちゃん……」


「言うほど言いにくくないと思うが」


 突然目が覚めた。リーンズィは真顔で言った。訂正を求めるときだけ、奇妙なほど思考は冷静になった。そしてリズとリゼ――親愛なるレアせんぱいにのみ許した自分の愛称とかなりの度合いで合致していることに気付いた。


「あとそのリズというのは『リゼ』に似ているのでやめてほしい」


「どうしてダメ……?」


「リゼという愛称の使用権を大切な人に贈っている。これは非常に重要なファクターだ」


 そうだ、レアせんぱい。あの小さくて誇り高くて意地っ張りで愛しくて堪らない人に、攻略拠点に帰れば会える。レアせんぱいとまた会える。一緒にマスターのお店でご飯を食べられる。夜は普段の辛辣な態度とは異なる可愛らしい表情を味わえるし、昼間は何をして過ごしているのかも知りたい。レアせんぱい、とリーンズィは脳裏で唱える。帰還するのだ。

 この窮地を切り抜けて、レアせんぱいの隣で眠るのだ。

 そう考えるだけで、いよいよ渉猟騎士団や不滅者たちが視界に映らなくなる。

 自分はここで終わらない。

 まだ未来がある。

 レアせんぱいと過ごす未来があるのだ。


 それはそれとして、リゼとリズはやっぱり似ているので、よくない。


「知らない女の子がリズちゃんリズちゃん言っているのをレアせんぱいに見られたら浮気だとか不貞ものだとか烈火の如く怒られそうでとても困る、すごく困る」


「レアせんぱいというのが恋人なの……?」ヒナはふらふらとした足取りのまま強く腕を抱きしめ、ガントレットで己の乳房を押し潰されている様を強調しながら、目を潤ませた。「男の人?」


「女性だと思う……」


 言われてみれば、人格記録媒体の性別と肉体の性別が合致しているのか、特に確認していない。必要とも思わない。


「古典的な思想に固執しない場合、恋人に性別は関係ないのでは。スチーム・ヘッドなら殊更関係ない」


 虚妄の暴風の中を歩きながらでも断言できる。

 極論を言えば、とリーンズィは考えを巡らせる。自分などは肉体に牽引されてやや女性的なパーソナリティに変化しているが、単なるエージェント・アルファⅡだった頃などは大柄の男性であり、しかも性自認が全く存在していなかったのだ。

 そうした複雑な過程を前提にして考えると、性別に愛着を求める理由がどんどん曖昧になる。リーンズィには理解が難しい拘りだ。


「そうなの……? 恋人だけの愛称。うん、それは軽々しく使っちゃダメだよね……」


「そう。使ってはダメだ」


「それじゃあ私もリズちゃんの恋人になれば使っても良いってことだよね」


「ん?」


 リーンズィは困惑した。言われたことを了解するまでに三度も塔が増殖した。敗北の猫が情けの無い声を出しながらにゃーにゃーと五匹ぐらい風に飛ばされて消えていった。不滅者どもは完全にどうでもよくなった。

 リーンズィのフリーズが著しいのを感じ取り、ミラーズが微妙な顔で何度か振り返った。

 それからようやく、ライトブラウンの髪の少女は、唖然とした顔で「話がおかしいのでは?」と応答した。


「おかしくない。だってリズちゃんは今シーズンにおけるヒナのヒロイン。それはもう撮影が始まる前から決まっていたこと。だから告白イベントとか抜きにして、いま恋人になろ? 後で前の時間軸設定でデートのエピソードでも挟めば番組としては破綻しなくなるはず」


「聞いてないのでいきなり変な設定を足さないでほしいし時系列を遡ろうとしないでほしいし、人のお腹にハルバードの破片を叩き込もうとするのはいっそ完全に変質者のやり方だから今すぐどこかスチーム・ヘッドの病院に行って人工脳髄を治してもらって?」


 リーンズィはものすごく早口になった。


「大丈夫、ヒナはリズちゃんにどんな設定があるか知ってるから。リズちゃんは恋人なの。知らなかったとしても大丈夫。ヒナは主人公だもん、ヒナが知ってればそれで足りるの。ヒナとリズちゃんの仲だもん、そのレアせんぱい? という人も許してくれるよね……視聴者の皆も愛称がほしいと思う……」


 などと朦朧としながら胸元に手を伸ばしてくる。

 首筋にかかる逆らいがたいほど熱い吐息にリーンズィは意識を失いかけた。甘いしびれが脊髄を貫き、抗い難い逃走反応がリーンズィの脚を止めさせようとする。

 何事か香りの変化を察したらしいミラーズが振り返り、「ヒナさん、今はゴールデンタイム向け番組の撮影中なのですよ」と機転を利かせた一言をケットシーに投げかけていなければ、ライトブラウンの少女は蕩けた思考を立て直すことが出来ず、さらに困難な状況に陥っていたことだろう。


 全身がかなり鋭敏な状態に陥っている。

 おそらくはヴァローナの特性だ。危機的状況で五感が研ぎ澄まされるのは善いが、リスクも大きい。

 こうしたおかしなスチーム・ヘッドに絡まれていると、特に。


「リーンズィ、あのですね……多くの愛を持つのは間違いではないと私は思いますが……」ミラーズは憐れむような目を向けながら言った。「それにしたってちょっと変で重い子ばかり来てる気がするわね」


「ちょっと変なのか?」リーンズィはべたべたとしてくる黒髪の少女の香りに意識を持って行かれないように集中しながら問い返した。「すごく変の間違いでは?」


「気を紛らわせるのも良いけどここがどこなのかは忘れてしまないようにね。試練の只中にいるのですから」


 そうだ、死地の只中なのだ。

 見渡せばそこかしこに戦闘の無残さが展開戦闘の激しい謌ヲ髣俶姶髣俶姶髣倩。檎ぜ謌ヲ莠芽ェソ蛛懊○繧亥セ∵恪縺帙h邨カ貊�○繧�戦戦せんんとうんn戦闘戦闘? 

 これは、戦闘なのか? 戦闘には違いない。リーンズィはまた周囲を警戒謌ヲ髣俶姶髣俶姶髣倩。檎ぜ謌ヲ莠芽ェソ蛛懊○繧亥セ∵恪縺帙h邨カ貊�○繧�?

 これを調停すべき戦闘謌ヲ髣俶姶髣俶姶髣倩。檎ぜ謌ヲ莠芽ェソ蛛懊○繧亥セ∵恪縺帙h邨カ貊�○繧�一体何が起きている? 不滅者の異常な身体復元と騎士団の時間移動をしてヴァローナの瞳の最後の力を使って知覚しようと繝昴う繝ウ繝医�繧ェ繝。繧ャ縺ク蛻ー驕斐○繧医�繧、繝ウ繝医�繧ェ繝。繧ャ縺ク蛻ー驕斐○繧医�繧、繝ウ繝医�繧ェ繝。繧ャ縺ク蛻ー驕斐○繧�?


 リーンズィは泣き出しそうになった。怖すぎて下半身の筋肉が細かい痙攣を起こしている。

 逃走反応が本格化しているのだ。このまま直視を続ければ、自分もこの場に崩れ落ちて、世界がねじくれていくこの絶望的状況に頭を抱えるしかなくなる。

 クヌーズオーエの隔壁が、常識外に巨大な、どのような規格外の機関機械で作製したのか考えるのが恐ろしくなるほどのサイズの不朽結晶連続体であることに気付いた時。あのときリーンズィを襲ったのと同種の精神的ダメージだ。

 あちらはそういうものとして今では受容できるが、こちらはあらゆる面で過去の経験を上回っている。

 リーンズィには全ての因果が捻れ狂ったこの状況を正確に知覚出来ない。

 凄絶なる戦闘。

 そしてそれは尋常の戦闘ではない。

 干渉することさえ許されぬ狂気の渦だ。

 誰かと感情を重ねている場合では決して無い。

 

 何か他に対応があるのではないか、という思考は確かに働いている。

 それなのに、肉体がこの異常な世界を許容できない。

 リーンズィの生体脳は走馬燈めいて過去の記憶を、人生と呼ぶには余りにも短い少女の時間を、次々に人工脳髄へリクエストしてくる。

 ふとした拍子に思い出されるのは、上目遣いの赤い瞳で挑発的にリーンズィに話しかけてくるレアせんぱいの姿だ。愛らしいせんぱい。リーンズィだけのせんぱい。意地悪なところもあるが、いつでも自分に優しくしてくれる愛しいひと。

 しかし、こんなところを見たら、レアはどうするだろうか? 

 女の子二人に手を引かれて、うつつを抜かしている。怒るだろうか? もしかすると泣いてしまうかも知れない……。

 胸を締め付けられるような空想も、しかし塔の巻き起こす暴風に飲まれて消えてしまう。

 そんなことを考えている場合ですらないのだった。

 死地だ。死地なのだ。

 ある種の究極的局面と言っても良い。

 ここは戦場だ。急速に意識が実際面へと浮上する。

 何度目かになる危機的感覚への気づきを今度こそ逃さないようにリーンズィは意識を集中させる。


 その途端、痩せた猫が足下を擦り抜けていく。

 塔を素早く駆け上り、入れ替わるようにして新しい不滅者が出現して落下してくる。

 落着するよりも以前に空間転移してきた騎士団に幾度も刺し貫かれ、エラーを吐いた挙動で星座のような不可思議な軌跡を描き空中で何度も復元し、騎士団員も異様な動きでそれに食らいつく。

 リーンズィはまたフリーズした。体は何とか歩き続けているが、思考が伴わない。

 完全に認識が世界に追いついていかない。

 どうしようもないほど出鱈目な光景がそこかしこで展開されている。

 脳が沸騰する。首輪型人工脳髄が火傷を起こしそうなほど加熱している。ダメだった。リーンズィはまた自意識が霧散していくのを感じた。

 超越存在たちによる自在空間戦闘を、人間の肉体に依拠した精神が受容しないのだ。


「負荷が……負荷が高すぎる……」


 呻き声に反応して統合支援AIが答える。


『フカ。東アジア経済共同体、旧日本地区の言語で<サメ>を意味する言葉ですね。当機の仕込んだクソ映画タイトル自動生成botの正常稼働を確認しました』


「ふざけている場合ではない」ふざけている場合では無かった。


『ふざけている場合なのです、リーンズィ。当機は通常暖気状態、サージカル・アシストシステム正常稼働中、ザゼン・リラクゼーション中と同程度にフラットな精神状態で推移。正常な認知レベルで事態を観測することは危険であると提言します。視界の片隅に当機が趣味で収集していたサメ映画でも流しますか?』


「何をわけの分からないことを……」


 意味不明な言動を咎めようにも、出現しては消える甲冑兵士、瞬間的に移動しては倒れ伏せ、猫になって逃げて行き、どこか違う場所から這い出てくる不滅者とそれを湧き潰ししているウェールズ王立渉猟騎士団を眺めていると、一気に頭が酩酊者の如く曖昧になる。頭痛にも似た違和感が生体脳を締め付ける。


 頼みの綱の統合支援AI、ユイシスはと言えば、ニマニマと愉快そうに天使の美貌を歪め、見下ろしてくるばかりだ。


「リズちゃん……リズちゃん……」


 ケットシーも同様の状態らしいが、こちらはもっと錯乱の程度が激しい。何故だか只管甘えてくる。


『ほら、可愛い新しい恋人氏が貴官に助けを求めています。キスの一つでも返してあげるべきでは?』


「ゴールデンタイムの生放送なのでそれはできないしお互いこの状況だとキスで終わらない。私の肉体は実のところ愛着感情の形成に敏感だし私もミラーズに可愛がられているうちに新規に分岐変化した人格なので規定の運用の通りサイコ・サージカル・アジャストでの補正を適応しないまま事態を進行させるとおそらくこの戦場の真ん中でも服を脱いでそのままエキサイトしてしまうが良いの? 良くないと思う。さすがに良くない」


『その調子です。現実を認識し、同時に現実から遠ざかる。それがエージェント・リーンズィに可能な挙動です。やれば出来る子だと当機は理解していました』


 まぁやらないの出来ない子ですが、と余計な一言を付け加える。


『認知機能を周囲に向けず、低重要度目標を優先して処理してください。周囲の機体の挙動は通常物理法則しか知り得ない貴官では対応不能です。これらの無理な認知は肉体の原始的防衛反応と人工脳髄の情報処理能力の両方にとって極めて高負荷となります。そこのセーラー服少女は貴官にとって有用な負荷分散デバイスになり得ます』


「……そういうことなら」


 試しにケットシーを引き寄せて首筋、自分と同形式の首輪式人工脳髄の回りの柔肌をむにむにと揉んでみる。


「ふ。ふわー……」


 剣鬼の面影無く子猫のような声を出す黒髪の少女に、心臓が恐怖とは別の高鳴りを響かせ、周囲で繰り広げられている狂気的な戦闘から、なるほど、確かに意識が戦場から寸時遠のく。

 ケットシーは何か期待と、ショウビジネス的打算に満ちた黒曜石の煌めきを瞳に湛えた。吸い込まれそうなほど美しい暗黒。飲まれたときの悦楽はいかほどか、少女の心臓が期待に脈動する。

 しかし、リーンズィはこれ以上踏み込むほど考え無しではない。

 ユイシスの言わんとしていることが完璧に体得できた。

 超越存在の跋扈する現実と向き合ってはならないのだ。

 現実の危機から意識が遠ざかるほど、逆に精神は淫蕩の狭間にあって、現実を正しく認識するようになる。

 東洋の武芸者が言うところの禅めいている。

 死地にあって、死地を意識してはならないのだ。

 聖句の詩を奏でるミラーズがさらに歩みを遅らせて、リーンズィの右腕を絡め、突撃行進聖詠服の胸にその小さな体を預けてくる。そして暴風や破砕の轟音に負けぬよう、声を張り上げる。


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 覚束ない詠唱には、リーンズィに向けた鎮静の韻律が混ぜ込まれ、ユイシスが内容を検閲・解析した上で愛の言葉を選択的に聴覚野へと書込んでくる。ミラーズ自身は勿論、ディオニュシウスの行動パターンにまで干渉した上でリーンズィの支援までやってのけるのは、さすが初代『清廉なる導き手』リリウムといったところか。

 そのおかげで、愛しい金色の髪の天使を抱擁する形になっても、エージェントの生身の心臓は、正常な思考判断が可能なレベルで安定していた。

 しかし、世界を認識しない。敢えて意識しない。

 破滅の渦を理解しない。

 両腕の中にある少女たちのことだけを考える。

 欲望を煽る薄く柔らかな肉をベールとして、その向こう側に滲む世界の輪郭だけを視る。

 不滅の恩寵がもたらす芳しい香りを味わう、不滅の結晶で編まれた叡智の服の滑らかさを味わう、余分な肉の無い完璧な肌を撫で、両手に縋る二人から甘い吐息を聞き、自分自身もまた躊躇いがちな喘ぎを返す。

 想像する、世界を想像する。

 ここではないどこかを想像する。

 一点の曇りも無い裸体のまぶしさを想像する、清潔なベッドで淫蕩に耽る己らを想像する。

 ユイシスが唱えた空想世界、幸せな少女たちのために開かれた無辺の庭園を夢想する。

 ミラーズやレアせんぱいと一緒に毎日を過ごし、ポイント・オメガを目指して進み続ける。

 幸せな未来だけを想像する……。

 空想は未来から逆流する。

 幸福とは、未来にだけ存在するものでは無い。

 記憶ログから、情動生起の瞬間を再生する。


>「後輩と妹にはいくらでも教えてあげないといけないし、あといくら可愛がっても法律違反にはならないのよ」


 思い出は狂おしいほどに愛しい。

 ともすれば未来よりも遙かに愛おしい。

 素っ気ない顔で、仄かに赤くなった頬を逸らして、白髪赤目の乙女が嘯く……。

 噎せ返るほどに清らかで甘ったるい、熱い吐息で……。


>「ねぇ、ねぇ。リーンズィ……わたしと一緒に……」


 あの時は断った。それが正しかったと信じている。

 でも、レアせんぱいとなら、そうなりたい。

 そういった境界を越えるなら、やはり、レアせんぱいと一緒が良い。

 こんな因果律の狂った戦場では無く、思い出が詰まったあの廃墟の街で……。


「私は……私は、レアせんぱいのところに帰るんだ」


 他の有耶無耶は、些事だ。

 理解しない。する必要が無い。

 突き刺すような冷たい風も、ぜんぜん気にはならない。

 取り巻く暴威、人知を越えた泥沼の潰し合い、人ならざる領域に足を踏み入れた怪物どもの跋扈。

 知らない。どうでもいい。知ったことでは無い。

 理解不能な戦闘を精神の暗渠に通し、意識の外側へ追い出す。そしてひたすらレアせんぱいと楽しく過ごした時間を軸に空想をする。

 前線で現実逃避めいた妄想に耽るなどあってはならない。

 だがそれが正攻法なのだ。

 処理しきれない情報密度の世界に真正面から向き合うなど全くの愚策だ。

 少女は暴走寸前で維持されている脳で、状況の把握に務めた。

 これまでの混乱、未知なる存在に対する過剰反応は、スチーム・ヘッドに普遍的な脆弱性であろうと、あたりをつける。

 人間存在を素体とした兵器なのだから、人間の世界で起こり得るレベルの事象にしか対応出来ない。なるほど、道理である。不撓不屈、真なる不死の肉体と讃えるにせよ、それはあくまでも不死病患者という筐体(ハード)の特性だ。仕様外の環境に放り込まれれば、人間由来のソフトなど容易くフリーズしてしまう。

 そこから離れるためには自身を欺瞞し、状況を忘却し、リーンズィの場合は聖歌隊のレーゲントらしい刹那的な恋心と救済の感情に身を委ね、仮初めの空想世界に思考を逃がすしか無い。

 ケットシーにリズちゃんなどと親しげに呼ばれた事実について考えると、なるほど、気分は良い。レアせんぱいもこんな気持ちだったのだろうかと、最愛の女性への思考ログが勝手に吐き出され、混沌の渦から精神がしばし浮上する。


「私は……復帰したのか……? この混迷具合は致命的すぎるが」些かばかり平静を取り戻して溜息を一つ。「まさか直接戦闘とは関係の無いところでダメージを受けるとは……」


「り、リズちゃん……良い匂いがする……」などと言いながら腕に抱きついてくる。押し付けてくるケットシーはと言えば、未だに重度の情報酔いによる錯乱状態にある。些か倒錯的な衣装の学生服に身を包む少女はぐったりとしており、一層の非人間性を醸し出している。病的に白い肌は陶磁の滑らかさを保ち、都市轢断の土煙に汚れている他は、ついぞ変化していない。

 しかしよくよく観察すれば、首輪型人工脳髄に咥えられた細首からは、蒸発した汗が涼やかな香気となって漏れ出でている……。

 噛み付きたいほど首筋が眩しい。


「……正気に戻らないと。倒錯に揺らいでいる場合では無い。レアせんぱいもいい顔をしない。いやいついかなるときでも可愛い人だけど……」


 今度こそ、そんな場合では無かった。

 混沌の渦から逃れつつ、知的活動は加速させる必要があるのだ。難儀な仕事ではあるが、完遂が必要だ。

 それにしてもケットシーのこの混乱具合はちょっと怖い。放っておくとお腹にハルバードぐさーでは済まない予感がある。ライトブラウンの少女も人のことを言えた身では無いのだが。

 赤らんだ顔で溜息を吐く。

 ケットシーに関しては、生命管制が相当程度の強度で精神的な混乱は抑制しているようだ、と冷静な判断を下すことで、リーンズィは自我を繋ぎ止める。ケットシーの振る舞いは、肉体から発せられた一時的な混乱にすぎない。

 いちいち相手をしなくても、然るべき段階に到達すれば自然に復帰するだろう。


「やることはもう分かっている。ずっと分かっていた」


 前進せねばならない。

 とは言え、無意識的な行進は未だに続いていた。

 ペースは落ちていたが、迷妄の最中にも彼女たちは進み続けていた。

 殆どまともな思考判断が出来なくなっていたにも関わらず、リーンズィたちは一つの傷も負っていなかった。

 蒼い炎の首を持つ騎士のおかげである。空間・時間の両方で狂乱の剣舞を続けるディオニュシウスが、三人、正確にはミラーズを含む集団について、これを害そうとする一切合切を切り捨て、どこか知らぬ時間枝へ跳躍してそこでも愛した少女の同位体を保護するために虐殺を行い、果てしない放浪を経てこの時間軸のミラーズのところに戻ってくる……。


「アルファⅡモナルキア・ヴォイド……彼を頼りにしてアルファⅡウンドワートを救出する。それが私たちのミッション」


『お帰りなさい、リーンズィ。ようやく正常思考に復帰しましたね』嘲りの声が妙に心地よい。あるいは囁きモードになっていてミラーズに息を吹き込まれているような感覚があるからかもしれないが。『首無し騎士からのレポートが五万件を突破していますが開封しますか? 推定される汚染時間枝はその十乗に到達しています。非人道的な規模の可能性世界が、我々のせいで手遅れですね』


 ふわふわと浮かんでいる聖少女の虚像が楽しげに物騒なことを言うが、真面目に相手にしてはいけない。


「と言うことは、私とミラーズ、そしてレアせんぱいが楽しく暮らす世界が増えたのだな」


 不死病清浄状態だった世界が幾つ失われたのか知らないが、代替世界などというものは冷静に考えればまさしく無限に存在するのだ。そこに分岐を幾つか描き足した程度、巨視的には取るに足らない変化である。内容は気にならないでもないが、情報リソースを圧迫するという点においては、ディオニュシウス、かつてヴォイドだった不死病患者からのレポートというのは、酷い言い方だがスパムメールと大差ない。


「ヒナは……? ヒナは、リズちゃんと楽しく暮らせないの?」


「……そこではヒナも楽しく暮らしているだろう」


「嬉しい。リズちゃんならヒナの全てを見せても良いよ……」


「ここはそういう空間では無い」


 病床で長く過ごした思春期の少女が、もはや滅びる恐れの無い不死身の肉体を得れば、果たして欲望はどのように暴走するのだろう。もしかすると際限が無いのではないか。可能世界選択能力のせいで大抵の欲求は上手く解消に運ぶのだ。この娘はもしかすると自分よりも歯止めが利かないたちなのではないかと怖くなった。

 ……そんなことはどうでもいい。

 リーンズィは任務への志向性を寄り強固なものとした。

 単にレアせんぱいのいる場所に帰るのでは無い。皆で帰還する。ミラーズはもちろん、ヒナも、一緒に、リーンズィの安らげる場所へ帰るのだ。

 第二十四攻略拠点へ、家とすべき場所で憩うのだ。

 ……ヒナには、何か裁判のようなものがあるかもしれない。スチーム・ヘッドを殺して回ったことに対して罰が無いとも思えない。だが、ファデルはきっと彼女を破壊まではしないだろう。


 その後には、楽しいことだけが待っている。

 非論理的な思考だ。しかし、リーンズィは信じることに決めた。


 帰ろう。皆で帰ろう。

 帰るために、地獄の真ん中へ向かって突き進もう。

 何があっても大丈夫。ミラーズに囁かれた言葉が脳裏に木霊する……。


「えっと……ケットシー、ケットシー。もっとペースを上げないといけない纏わり付くのを緩めて欲しい。正直重いのだが……」


「おも、重くないもん」ヒナは胡乱な口調で反論した。「スタイルは他の子に負けてたかもしれないけど、スレンダー? だから人気なんだもん……胸なんてあんまり大きくても動くのに邪魔だし……放送委員会にもたまにクレームが入るらしいし……」


『ところでリーンズィ、貴官の周囲にはスレンダーな女性しかいませんが、これは貴官の趣味ですか?』


「いやケットシーはこう言うが実際は平均よりもある方だと思う、ところでミラーズをリクルートしたのは君だし私はそこから派生して産まれた人格なのだから私は一向にすらりとしたボディが好きだが元凶は全般的に君の趣味ということになるのでは?」


 リーンズィは真顔で言った。思考が一層クリアになる。憎まれ口を叩いている間は世界が荒れ狂っている様を認識しなくて済むからだ。その調子です、とユイシスが親指を立てる。

 ユーモアは大事、ジョークを言えるようでないと精神が持たないというのは、このような高認知負荷環境を見越しての助言だったのかと漠然と考える。


「ヒナ、これは新しい撮影所への道なんだ。尺が無いので、早く行くように……ディレクター? から言われている。急がないといけない。前進しないといけないんだ」


「そうなんだ」ケットシーは卒然として顔色を失った。「じゃあ頑張って歩かないと」


 歩みはまともなものになったが、ケットシーの錯乱は依然としてリーンズィよりも激しいものだった。


「ペンギンっておいしいの?」とか「女の子に剣を教えるとかお父様は実質浮気者。お母様に死んで詫びるべき」「和解イベントの前にケンカをすると視聴率が上がる」などと胡乱なことを口走り、とにかく絡んでくる。あまりにもベタベタしてくるので、リーンズィの頭の中のレアが「どうして私以外にベタベタさせているの!」と、とうとう癇癪を起こし始めた。


 思考を反らしながら、ベルリオーズとの決戦に備え、身体チェックを続ける。高負荷環境での精神問題も無視できないが、新たに装着したアルファⅡモナルキア装備のせいで身体の重量バランス調整が崩れかかっている。

 おまけにヒナは殆どしなだれかかるような姿勢で、親か姉妹、さもなければ恋人にもで頼るかのように無防備に体をリーンズィに預けている。歩くのがやっとと言った様子だ。

 何とかしてその気にさせないと行けないが、やはりこうなった原因を確かめる必要がある。


「ケットシー、ケットシー」体を傾けてくる黒髪の少女に耳打ちする。「君はこの状況をどう見る。どんな感想を抱く?」


「……なんか自動生成の変なCGを延々見せられてるときみたいなしんどさがある……」


 得心する。ケットシーが何故こうもマタタビで酩酊した猫のように振る舞っているのかと言えば、おそらく彼女も本能的に『この状況をまともに認識してはならない』と理解しているからだ。

 それで無意識のレベルでリーンズィと同じアプローチを取っている形だ。シィーなら無念無想などと宣い平然と歩いていたかもしれないが、ケットシーの行動には余すところなく私的、ショウビズ的な邪念があるので、そうはいかないのかもしれない。


「ほらリーンズィ、行きますよ」と笑みを湛え、耳をくすぐるような声音で囁きかけてくるミラーズの、その柔らかな手指の体温のおかげで、地獄へ進軍するための脚が活力を取り戻す。


「ケットシーも。この先にこそあなたのお父様がいるのです」


「お父さんが……?」ケットシーの声に俄に殺気が奔った。「どういう意味」


「エージェント・シィーは大罪人なのでしょう。ならば居場所は地獄でしか有り得ません。そして私たちが向かう先はまさしく地獄、破滅の渦の中心ではありませんか。そこは地獄に違いありません。あなたはそうした場所を目指して飛び続ける一本の矢のような人ででしょう?」


「金色のふわふわ髪の子もヒナのヒロインなんだね。モブにしては可愛すぎるし、やっぱり」


 ほう、と息を吐きながら、蕩けきっていた顔に、修羅の眼光が帰還する。


「その時が来たら、いつでも斬れる。あの狼型の、リスポーンする人の殺し方、完全に掴んだから」


 別人のような気迫を湛えて、ケットシーはリーンズィのガントレットから身を離し、マウントしていた蒸気機関搭載型の鞘を降ろして、腰部ハードポイントに移設した。

 リーンズィたちの正面では、首無しの騎士が、世界の在るべき順序、ヒトに許された認知宇宙の法則を薄紙のように破って無視している。

 天使の和毛の匂いを纏う死と退廃の花嫁が紡ぐ、言葉ならざる言葉に従い、ただ的を切り続ける。


 ディオニュシウスは調停防疫局の旗で編んだマントに蒼い炎を滾らせて、迫り来る塔の波に打ち砕かれる寸前に、百年も前からそう定められていたかのように姿を消す。そして、その個体が消えるよりも早い段階で既に出現していた新たなーー全く異なるディオニュシウスが当然のように別角度から塔を強襲。隻腕にて不朽結晶連続体の大剣による致命的な一撃を叩き込み、リーンズィたちに危害が加わる前に、塔をオーバーフローに追い込み不滅たる者の復元を、まさしく不可ならしめている。塔の軌道次第では四方八方から同一の人工脳髄シリアルを持つ別個体が波状的に飛び出してきて煙のように消えていく。


 混乱を催す現実に、しかしリーンズィは幸福な空想をする。清潔なベッドの上で抱き合って眠り、目覚めて最初に視るのは、レアの紅玉のような瞳が良い。

 彼女よりも早く休眠から目覚めて、その顔が羞恥の色に染まるまで、ずっと見つめていたい。


「帰ろう。家に帰ろう。私たちの住処に帰ろう」


 レアせんぱいのいる場所へ。

 そのために地獄へ進め。破壊の渦の中心でベルリオーズと戦っているウンドワートを救出し、今度は逆にここから脱出する。それだけでいい。超越存在の行動原理を理解することも、眼前で展開される論理破綻した光景を受け止めることも重要でない。

 ただ空想世界への帰還を。

 即物的で安らぎがあるばかりの現実を渇望して。

 三千世界の狂気が渦巻く、絶対的破滅の中心へと、前進を続ける。

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