78話
「たしかに。そうだね……イクスって呼んでくれたら」
納得したようにイクスは名乗る。しかし、本名とは思えない。
シシーも感じ取り、同じように濁す。相手が先なんだから、これで対等。
「ビーネとでも呼んでくれ。本名じゃないが」
それを聞き、またイクスの足が止まる。
「ビー……ネ?」
今度は唇をわなわなと震わせて、信じられないとでも言うように。それと同時に、湧き上がってくるもの。
「なんだ? なにか文句あるのか?」
同様にシシーも足を止め、振り返る。目に入るのは、うずくまるイクス。カタカタと震え出す。寒さ、ではないようだ。
問いにも返さず、イクスはフードの奥で感情を爆発させた。
「ハハッ! まさか! うん、まさかね! 大当たりなんじゃないかな、うん! うん! ハハハッ!」
待ちきれない。そんな様子で、シシーを追い越していく。そしてその声は冷静そのもの。先ほどとは一気に温度が変わっている。
「ほら、早く。急いで」
(なんだコイツ……? まぁいい、強いヤツさえアテンドしてくれれば、あとはどうでもいい)
警戒しつつも、シシーは言葉に従う。彼女がいないと、『それ』と対局することもできないのだから。そのまま三分ほど歩き続けるが、ほとんど人とすれ違うことはない。
「本当にいるんだろうな?」
「……」
まるで機械のように、イクスは歩き続ける。疑念を持ったシシーの問いには一切答えない。かと思いきや、
「さっきの店さ、コーヒーもいいけど、ケーキも美味しいんだよね。一緒に行こうよ」
と、まるで友達のように話しかけてきたりもする。シシーが無言でも、さらに喋り続ける。止まらない。かと思いきや、話の途中でまた止まる。キョロキョロとあたりを確認し、スピードを上げたり下げたり。
そして、その時は突然やってくる。横に並んだイクスが、ピタッと足を止める。
「ここ。ここの三階」
「……ここか?」
ずっと見慣れていた、寂れたレンガ造のアパート。そこも同じようなものだが、目的地だとイクスは言う。言うや否や、スタスタと中に入っていく。足取りは軽く、階段を一段飛ばして進む。
中も相当にくたびれており、ところどころ壁に穴や亀裂が入っている。左官工もしばらく入っていないのか、かなり年季の入った荒み方だ。そして空き家が多いようで、生活音がほとんど聞こえない。ホコリもたまり、手すりに触れると手に付着する。
(同じベルリンでもこんなところがあるとはね。廃墟みたいなものだ)
そして、三階。階段から二つ目の部屋に案内される。
ドアに鍵はかかっていないようで、イクスがそのまま開ける。軋んだ音を奏で、おどろおどろしく中が明らかになる。ワンルーム。少しずつ晴れてきたのか、かなり暗いが月明かりでうっすらと見える。真っ直ぐ前、窓際にテーブルとイスがふたつ。その上には……チェス盤。そしてチェスクロック。




