323話
「それくらいなら我慢するさ。生きていれば、それでいい」
負けたのだから、高望みはできない。それだけ伝えると、さっとシーウェンはエレベーターに消えていった。
またしても重い沈黙。無理はない。場を荒らしに荒らした当人がいなくなったことで、じっくりと考える時間ができた。そしてシシーは自分の中での答えが出ている。
「……負け、だな。俺の」
「いえ、勝ちです。相手が認めたんですから」
そこははっきりとグウェンドリンは断る。勝ちか負けか、で言ったら勝ち。負けと負け、という形にはできない。
そうなんだろうけども。今はシシーには勝ちに喜びが中々に味わい辛い状況なわけで。なんて言ったらシーウェンには呆れられるのだろうけど。
「勝ちを譲ってもらっただけだ。勝ったとは言えないね」
ガチャガチャ、と手元のキューブをいじる。無意識に。ただ指の動くままに。
気持ちは当然グウェンドリンにもわかる。自身もまだ戸惑いがある。プロフェッサー達になんて説明しようか、などが頭をぐるぐると。それでも。
「なんと言おうと勝ちです。単純な棋力だけではなく、使えるものは使って、醜かろうがなんだろうが勝てばいいんです。そういう世界ですから」
そういう世界。先ほどまでルールなど無用だったのに。こういう時だけ持ち出すのは、少しずるいかなとも思うけども。
初めての『毒蜂』デビュー戦。楽しかったし、充実した時間だった。結果勝つことも……できた。が、ほろ苦い思い出としてシシーは永遠に刻みつけられた。
「……そうか。そうするしかないか」
「はい。そうしてください。このあとはどうしますか? 上で休んでいかれます?」
ひとまずはこれで今日の対局は終わり。色々と片付けもあるためグウェンドリンに時間はない。
もっと人手は欲しいが、あくまでプロフェッサーの趣味なので、最低限の人数で行われている。他に人員募集の役割の人は、次のドゥ・ファンを今日から見つけなければいけない。それに比べたら準備と片付けくらい安く感じる。
たしかに疲れているが、これは心地よい疲れ。夜道を歩きながら噛み締めたいシシー。
「いや、時間も時間だし帰るよ。帰りながら反省して。次に彼女と対局する時のためにね。中華料理店でチェス、それもまたいいだろう」
その時は普段のルールで。地球の裏側、と言ってしまったからには、向こうを訪れた際にはぜひとも勝たなきゃ。ベルリンだと、真反対はニュージーランドあたりの海。さすがにそこで中華はないか。
しかし、シーウェンに見せたときのように、その話題を出されるとグウェンドリンは浮かない顔。
「……それは……おそらく無理、だと思います」
気づいてはいたが、なにかを隠している。揃え終わったルービックリベンジをテーブルの上に置いたシシーは、そこを追求していく。
「生きているんだろう? 彼女が帰るまでに刺客でも放っているのかい? 彼女は腕っぷしも強そうだよ」
カンフーというやつ。ジャッキー・チェンの映画でよく見る。なんとなくマスターしていそうではある。
大きく深呼吸をしたグウェンドリンは、手にした小瓶を見つめた。
「そういうわけではないんです。先ほどの毒。あれは——」




