317話
「お前、最初から頭にはなかったな? この一局で終わらせるつもりだった。違うか?」
勝ちの手段のひとつでもある引き分け。それを破棄していた。この対局。一点集中。そのために朝から準備をしてきた、と。
流石にバレたか、とシシーはわざとらしく驚いてみせる。本来であればもっと、何度もこの緊張感を味わいたいが、それ以上に濃密な一度を選んだ。それ以外にも理由がある。
「……二局目になったら、あなたは修正して、最初から勝つためだけの指し方をするはずだから。そうしたら勝てない。それくらいの差があるというのは自負しているよ。だからこの一局で決めるしかなかった」
勝つため。相手の力量がわかっているから。勝つ可能性が一番高い時に勝つ。油断して、最善手を指し続けてくれることこそが、唯一と言ってもいい勝ち筋だから。
「……だろうな」
容赦なく語り合いが続く。この対局、一体いくつの違反行為をしているのかドゥ・ファンにももうわからないが、むしろ今までのどの対局相手よりも、相手のことを知ることができた。だから、
「お前のことは嫌いだ」
なんてストレートに、本心を伝えてみたりもする。それ以外に、こいつに対する感想がないから。嫌い。それだけ。
◇ナイトe6。キョトン、と目を丸くしたシシーは、それを聞いて心が躍る。
「どうしたんだい? 突然。愛の告白かい?」
全くコイツは。一生分かりあうことはないな。そうドゥ・ファンは結論を出した。
「嫌いだと言っているだろう。その上からの目線。なめた指し方。一応曲がりなりにも私への敬意があってもよかっただろう」
ラグビーでオールブラックスが試合前にハカを踊るように。トンガのシピタウのように。事前研究はともかく、鼻につく言動。とはいえ自分も、今までに格上相手に精神的な攻撃はやったことあるけど。いや、私はいいんだ。◆クイーンe6。
◇ポーンf5。しかしシシーのやることは全て、楽しむことと勝つことに集約されている。その結果が今。
「そんな胸を借りるようなチェス、俺には指せない。あなたの胸には飛び込んでみたいけどね」
この人なら。触れられたとしても、それが快感に変わるかもしれない。愛おしい。ただ、それだけ。予感がする。
コイツはなにを言っている? 無視して粛々と次の手をドゥ・ファンは考え指す。◆ナイトg3。
「お前とはもっと早く会いたかったな。そうすればもっと嫌いになれた」
本音がさらにもう少しだけ漏れる。今まで『もっと早く会いたい』なんて考えたことのある相手なんていなかった。いるとすれば、きっとあいつくらいなもので。もっと早く会えていれば、あいつは。そんな後ろ向きなことばかり。
もうすでに盤面はまとめにかかった状態。一手指すごとに寿命が伸びたかのような、刺激が脳を走った対局。名残惜しそうにシシーは◇ポーンg3。
「……あぁ、そうだね」
間髪入れずにドゥ・ファンは◆ポーンf5。もうなにか悩むような状況でもない。
「……勝負あったな。長いようで短かった。だが——」
「少なくとも十年ぶんくらいの価値はある勝負だった。ここまで命を燃やすことのできる対局なんて、今後一回あるかどうかかもね」
棋譜として残らない、だからこそ美しい。チェスというものを編み出した人、広めた人、その他全て関わった人にシシーはお礼を言いたい気分。最初は興味なかったけど。今日さらに魅力に取り憑かれてしまった。◇ビショップh3。
なんだかな、コイツは。結局最後までよくわからないヤツだった。いや、わかりたくもないが。しかし、こういうヤツが自分にとって大事だったりする。敵、というやつだな。身近に置いておくべき。いや、いてほしくないが。そんなドゥ・ファンは満足。
「最後まで気に食わんヤツだ」
◆クイーンh6。そうして初めてソファーに深く座る。もう、これ以上はない、とでも言うように。宣言しろ。態度で伝える。
その見解はシシーも同じ。今一度盤面を俯瞰して見てみる。あぁ、きっと俺達二人以外にはわからないだろうけど。お互いの全てがこの中に詰まっている。なにもかも忘れて。この中にダイブすることができた。だからこそ言わなくちゃ。
「……わかっている。俺の……負けだ」




