310話
こんな感覚、随分と味わっていない。世界選手権でも、負けはあっても背中に冷や汗が流れていくのを感じたことはなかった。怖さ、それと怒りが同居しているような。奇妙な心境。
「全てさ。俺があなたに勝つのであれば、これくらいしないと勝てないと思ったんでね。その目論見はどうやら当たっていたようだ。あなたは俺の進んでほしい方向へ進んでくれた。感謝するよ」
ここまでは予想通り、というよりもシシーが「こうなってくれたらいいな」という願望を素敵になぞっている。これは普通じゃない相手だからこそ。芸術作品がひとつ、またひとつと仕上がっていく。
そんなワケがない。相手の手を全て予測など。しかもこれはフィッシャーランダム。ドゥ・ファンは冷静を保つため、あえて鼻で笑う。
「進んでほしい方向だと? バカな、どう配置されるかまではわからなかったのなら、今この状態はお前の読みからは外れているはずだ。どう説明する」
百歩譲って、配置がわかっていたのなら、まだそんな可能性はある。いや、ほぼないが、それはまだ許容できる範囲。だがこれは。ギフトビーネも知らされていない配置。それなのにどうやって——。
本当に調子のいい時。世界トップともなれば、初手を指した瞬間、チェックメイトが見えるなんて戯言を抜かしたヤツがいた。だが、それとはルールもなにもかもが違う。
ふむ、とあえて思慮深くシシーはその反論を受け止める。
「たしかに。エスパーでもない限り、未来のことは見えない。チェスは無数に枝分かれしていって、全てを追うことなどできない。だから少しずつ狭めていったんだ。ここまで言えばもうあなたならわかるだろう」
そのための先手。先手でなければ不可能であっただろう一連の流れ。それはつまり——。
「バードオープニング……」
全ては最初、そこからドゥ・ファンは罠にかかっていた。そう指すように仕向けられた。言葉も使って巧みに。
マジシャンが少しずつ種明かしするように。仕掛けたシシーは口も滑らかに。
「そう。このオープニングならまず◆d5だと思っていたよ。勝ちにいくのならね。そこからはある程度、あなた相手なら読むことができる」
「私、なら?」
自称するのもおかしな話だが、ドゥ・ファンはランキングだけで見れば世界でもトップに位置する人物。それを操るなど。しかも下の者が。瞬きも忘れて思考する。が、見つからない。答えが。
ここからは分のいい賭けだった。相手が強ければ強いほど、そのシシーの策の沼にハマって抜け出せない。そういうものを敷いていた。フィッシャーランダム、バードオープニング。そしてドゥ・ファン。この三つが噛み合ったからこそ。




