307話
盤面を深く覗き込んだまま微動だにしないシシー。時間だけが過ぎていく。
「……」
もう喋る気力もないか。それでいい。その姿を憮然とした態度でドゥ・ファンは見つめる。一分チェスなどならまだしも、時間は充分過ぎるほどにある。じっくり考え、その中で最善手だと思うものを指していくだけ。
チェスは楽しく遊ぶべきものだ。楽しいから遊ぶ。こいつはチェスというものを見ていない。たまたま、楽しいという感情を得るための媒介がチェスなだけ。つまり、本気になれていない。
「……リザインしろ。そして——」
「随分と喋るね。それは余裕のなさか?」
体勢は変えないまま、シシーが言葉を挟む。表情は見えないが、どこか恐ろしさを秘めているような。そんな声色。
この状況。そんな余裕はないはずなのに。ドゥ・ファンが眉を顰める。
「……なに?」
「あなたが俺より強いのは明白だ。それこそ千回に一回というのは本当だろう。俺だってそれくらいはわかる。世界最強の女性だ。現実的じゃあない」
そこでようやくシシーは顔を上げる。それはやはり笑みを浮かべていて。盤面の傾きとは真逆なようで。奥深くに闇が潜んでいる。
胸騒ぎがする。なんだ? なにか見落としている? もう一度駒に目を落とすドゥ・ファンだが、わからない。なにか抜けている?
「……お前はなにを言っている?」
強がり……にしては奇妙だ。そもそももしなにかあるなら、タイミングもおかしいだろう。言う必要もない。あとは淡々と手を進めていくのみ。なのに。なぜ……?
耐えられない、とでも言うように、自身の体を抱きながらガタガタと小刻みに震えるシシー。内側にある『なにか』を抑えるのに必死で。もう少し。もう少しだ。もう少しで——
「それじゃあヒントだ。『兵は詭道なり』という言葉があるだろう? 戦いは力のぶつかり合いだけじゃない。騙し打ちが有効ってことさ。勝負は始まる前に九割決まっている」
孫子の兵法第一章『計篇』より。中国、ということで少しだけわかりやすめに。これで届くだろう。
「……騙し打ち? 負け惜しみか? 実際にお前はこうして——」
と言ったところでドゥ・ファンは止まる。
心臓が、強く跳ねる。
……待て、騙し打ち、ということはすでに手は打たれている、ということ。すでにそれは『発動している』ということ。だが、こうしてチェスの勝負は始まっていて。しかも変則的なルール。騙すもなにも——
ふと、ここまで流れを思い出す。ロビーにいたコイツ。グウェンドリンによるルール説明。手番を決めるやり取り。それらが走馬灯のように、雑音を交えて記憶から漏れ出す。
《確認したいこともあったし》
《参加賞は用意してあります》
《検討しますけど、その裁量はこっちで考えます》
《コンピューターで検討した程度だ》
《好きなほうを選べ。あいつとグルになっていると思われてもかなわん》
もしそうならば。矛盾は、ない。いや、そうであるならば。コイツのこの余裕にも納得がいく。ドゥ・ファンの体が震える。
「……まさか」
まさか。コイツは。そんな、バカな。
目を大きく見開き、シシーはタネを明かす。
「気づいたか。そうだ。俺にとっての参加賞。それは『フィッシャーランダムというルール』だ」




