292話
「あいつ?」
ここまで来てお預け? 少し戸惑うシシー。飾り気のない素顔。
目を瞑るとドゥ・ファンの瞼に蘇るその姿。少しだらしないけれど。心に引っかかる人物。
「ララ・ロイヴェリクだ。提案を呑むならあとはこっちでなんとかしておく。お前では、私に勝てない」
私が勝つ。そうなるとお前は、いや、お前はどうでもいい。だが、彼女が悲しむ。それは——避けてあげたい。
チェスに運勝ちなど存在しない。脈々と受け継がれてきたチェスの戦術というもの。限りなく不確定な要素を排除した、美しき計算式。それは限りなく『運』というものを排除するために磨かれてきた。
チェスやシャンチー、将棋などのボードゲームにおいて『強い』ということはどういうことか? それはたった一戦では判断がし辛い。何戦も時間をかけて測るものであり、どんな指し方で、どういった結果を残したか、という総合的な判断でしか下せない。
しかしだからこそ。そういった意味では今、相手のほうが確実に強いとしても。百戦に一回しか勝てない相手だとしても。その一回をこの痺れる状況に持ってくることができた時の快感をシシーは味わいたい。
「確実に勝てる対局なんてどこにある? 期待していたんだが……あなたには少々失望したよ。俺と同じ考えの相手だと思っていたんだがね。余計なものが多すぎる」
ピントが自分に合っていない。悲しい話。刹那的な輝きを放つからこそ人は美しいのに。長期的な命など。求めるものではない。『毒蜂』とは、そういうものだと考えていたのに。
「……バカが」
吐き捨てるようにドゥ・ファンは言い放つと「ついて来い」とエレベーターに向かう。行き先は上の階。特殊なカードで読み取り部にタッチすると、勝手に動き出す。二〇人以上は乗れる大きさで、振動などもなく全ての動作が静か。
ポケットからこっそりとシシーはICチップが埋め込まれたカードを取り出す。
「俺も渡されていたね。触れる時間によって止まる階が決まっているのか。特別待遇だ」
さらにホテル内での支払いも全て対応しており、好きなだけ使える。『毒蜂』へのささやかなプレゼントでもあるとのこと。
喋るつもりもなかったドゥ・ファンだが、心のザワつきを静める様に口を動かす。
「わかっていたなら、私を待たずに先に行けばよかっただろう。なぜ待っていた?」
そうすれば。こんなにイライラすることもなかったのに。これも作戦のうちか?




