272話
よく漫画やら映画やらで、過去のことを夢で見ると、なにかから逃げ出したい気持ちがあるから見るのだと言われている。彼女にはそんな過去があるわけでも、今もそんなものはない。なにがあっても自己責任。だから後悔などない。
薄く目を開いたドゥ・ファン。そこは見知った天井。数時間前に煙を吸い込んで、今後もどんどん変色していくのだろう。電気がついていないので、うっすらとしか見えないが。ホテルなどだと、屋外に出なければ吸えないのが辛い。寒空の下で、なんてやっていられるか。
枕元の携帯で時刻を確認する。画面の電源の明るさに目を細めながら確認。現在午前の三時。一時間ほど前に誰かからメッセージが来ている。起きたら読もう。今はいい。こんな時間に送るほうが悪い。そんなことを考えていたらちょうどもう一通。誰かに監視でもされているのだろうか。無視。
同じベッドにはブロンドの髪をした女性が眠っている。部屋にはほんのりとタバコの香りがする。どれだけ眠っていたのかはわからない。自分が先に寝てしまって、こいつがその後吸ったのか。それとも記憶がある時の残り香なのか。どっちでもいい。
少し酒が欲しくなった。パリに二四時間営業のスーパーなどはあるが、酒類は深夜販売してはならないという規則がある区も多い。ここもそう。ビストロに行くか、バーに行くか。お腹は空いていない。バーだな、と決めて外に出てタバコに火をつける。
吐いた煙が風にたなびき、夜のパリに溶け込む。そこかしこに落ちている吸い殻。公共の場で吸ったら罰金。屋内で吸ったら罰金。その場で罰金。手持ちがなければ後日罰金。ちなみに公共の場の場合、そこの責任者はさらに重い罰金を払うことになるので、必死に食い止めようとする。
行きつけのバーに行っても吸えない。ならばいっそ到着するまでに吸えるだけ吸っておこう。さらに寄り道回り道して本数を増やす。フランスでは『タバ』というお店でしかタバコは買うことはできない。一応、バーなどでも置いてあるところはあるが、値段がかなり引き上げられているので、基本買うことはない。
そういうこともあり、ある程度残したところでバーへ。石造りの建物の表には目立った看板もなく、普通は通り過ぎてしまうような外観。店内はキャンドルの灯りのみで、どこか柔らかく音楽も微かにジャズがかかっている。まるで誰かの秘密基地をバーにでもしたかのよう。
いつ行っても人が少ないところがいい。というかほぼいない。誰も気づかない。だが酒の種類は豊富。カウンターが五席しかないので、ほぼないが、隣り合ったりすると話しかけられたりする点が少しネックではある。天井も低いため、より密度が高く感じる。




