エピローグ
「傷と後遺症が残らなくて、本当によかったわねえ」
花瓶の花を変えてくれながら佳乃さんがほぅっと息をはいた。
柴田教諭と大立ち回りをした翌日、星護高校は緊急の休校になった。
透子と千尋は打撲と擦過傷で入院することになり、今日は三日目である。
透子の手の傷は案外深くてきっと縫われて傷が残るだろう、と思ったが、目が覚めたら綺麗に治っていた。
あとは体力が回復すれば明日には退院だ。
「怪我の治癒をするのが、得意な人がいてるんよ。本家の千鶴子お嬢さんなんやけどねえ」
佳乃さんが目を細めた。
本家のお嬢さんは滅多にその力を使ってくれないが、お気に入りの千尋に頼まれて、仕方なく透子が寝ている間に、傷を癒してくれたらしい。
透子としては複雑だが、今度お礼を言わなきゃ、と思った所で見舞客が——すみれと白井兄妹がやってきた。
「はやく良くなって星護神社に戻れたらいいね」
すみれは微笑んで、それから、と、じゃーんと何やら家の間取りが描かれた情報を見せてくれた。透子がきょとんとしていると、ふふ、と笑う。
「大学院受かったから。報告」
「ええっ! 本当? おめでとう」
それから、と苦笑する。
「これは、新しい部屋の間取り。1DKの新居も決めてきた。一人で住むには十分だし」
そういわれて、ようやくすみれに、一緒に住まないかと誘われていたことを思い出して透子は一瞬言葉を失ったが、従姉は笑って遊びにきてねと笑う。
「あの柴田だっけ? 危ない人相手のハッタリと大立ち回りをしてた、透子かっこよかったよ? なんか本当に陰陽師みたいだった。星護町に馴染んだね、透子」
透子は頷いて、言った。
「ごめんねすみれちゃん。一緒に住もうって誘ってくれて本当に嬉しかった」
すみれは、わかった、と笑って透子の頭を撫でた。
怖いものがある時そっと引っ張ってくれた優しい手だ。
「お互い、がんばろ。新生活」
「うん」
すみれは悠仁に見送られて帰って行く。
残された桜と透子のところに陽菜がやってきて、にぎやかに喧嘩をし、桜はお見舞いの定番ですからね、と張り切って林檎をむいてくれた。
「って白井、皮剥くの、めっちゃ下手じゃない? まさか包丁握ったことがない?」
「私は! 十七年間、ずーっとお手伝いさんがいる家で育ってきましたの! ですからこれは初めての作品ですのよ!」
ごつごつしたリンゴの欠片をもらって透子は苦笑する。
林檎を咀嚼し終えてから、意を決して桜を鬼だと勘違いしていたことを告げると、まあ! と桜は目をみひらいた。
「私の一族は、長男には悠仁って名付ける習慣がありますの。女子には桜にちなんだ名前を。櫻子、さくら、桜、八重……ちなみに関西遠征の用事は、この旧姓白石さくら大伯母の葬儀ですわ、大往生で……あ、ちょうど会葬御礼が手元にあります」
桜に葬儀場が印刷した挨拶状を見せられて、透子は頭を抱えた。
ひとりで盛り上がって。
盛大に勘違いをしていたわけだ。恥ずかしい。
恐縮仕切りで謝罪すると、桜は、ほほほと笑った。
「いいわ。私は心が広いので許してあげます。——ただ、今度おうちに招いてくださる? ――千尋くんがご在宅の時に!」
透子は、はい、と折り目正しく返事をした。
桜と陽菜は笑って病室を出ていく。
彼女たちと入れ違いに、だいふくと小町がにょっと顔を出した。
千尋がこっそり連れてきたのだ。だいふくは「透子!」とベッドに飛び乗って、三毛猫の小町は見送りのつもりなのか、陽菜と桜についていく。
――小町は二人の後をついていきながら、不思議そうに「なぉーん」と長く鳴いた。
「どうしたの、小町ちゃん?」
桜が首を傾げると、三毛猫は前足で、桜の足元をちょいちょい、とつつく。
桜の細い足首から伸びる……影が。
あるべき……影が、そこにはなかった。
「まあ! いけない」
口元を押さえた桜は三毛猫を抱き上げ。
三毛猫はにゃあ、と首をかしげる。
「小町ちゃん。教えてくれてありがとう……だめね、ついうっかり影を作るのを忘れていたわ——、小町ちゃん、私が二人の側にいて心配?」
「なおん」
「でも安心して、私も悠仁も穏健派なの。田中さんも私が邪魔して助けてあげたし……」
桜はちろりと赤い舌で唇を湿らせた。夕陽に照らされて白目部分が血のように赤い。
「ああいった馬鹿な手合いも駆除されたことだし、このままひっそりここで暮らすつもり。 星護の街は気に入っているし、あやかし神社のお姫さまも、王子様も可愛いし……仲良くしたいわ。だからね、二人にも、だいふくちゃんにも私の事は秘密になさって?」
「にゃあん」
三毛猫が困ったように鳴き、前を歩いていた陽菜が訝し気に振り返った。
「何独り言をブツブツ言ってんの。おいてくよ、白井!」
「まあひどい! 待ってちょうだい!」
——今度はきちんと影を引き連れて、白井桜も病院を後にした。
そろそろ面会が終わろうとする時に「元気か?」と千尋が現れた。
「千尋くん!」
よいせっとベッドの隣に椅子をひきよせて腰掛けた千尋の顔や手にはあちこち、絆創膏がある。
彼も色々傷を負ったはずだが、特別な治療はせずに自然治癒に任せるらしい。
千鶴子に出来るだけ借りを作りたくないんだよな、ということらしい。
「痛みとかないのか?」
「もう、大丈夫」
千尋はよかった、と笑い、色々ありがとうなと言った。
柴田の身柄は、和樹経由で神坂の家にひき渡されたらしい。
生け捕りされた鬼はその存在を消滅させられるか、もしくは契約を結んで式神になるらしい。そのどちらになるか、は千瑛は笑ってごまかして教えてはくれなかった。知らない方がいいのかもな、と透子は思う。
最後の印象は最悪だが――英語劇を教えてくれた柴田は、普通に親切で優しい教師だった。つい、ふさぎこみそうになった透子の意識を千尋の声が引き戻す。
「いきなりハッタリで呪文唱えた時は、びっくりしたけど、助かった。透子すごいな」
「全然! みえるだけで何もできなかったし」
「それを言うなら俺は役立たずだったよ、すごく」
透子は首を捻った。
確かに千尋は見鬼の能力はないかもしれないが、それ以外は——すごいんじゃないだろうか。だって、あんなふうに鬼に打撃でダメージを与えるなんてありえない、多分。
千瑛が今は黙っていてほしい、と言うから透子は黙っているけれど。
千尋自身やその両親が言うように、彼は無能なんかじゃない、ような気がする。
透子はそんなことを思いながら、千尋を見上げた。
「千尋君、あの時の柴田先生への呪文はハッタリだったんだけど、せっかく、見鬼の能力があるんなら、役に立ちたいな、って思ったの。だから——星護神社にいて、千瑛さんたちから色々教えてもらいたいなって思う」
うん、と千尋が頷く。
「だから、これからも星護神社に居候すると、決めました!」
透子は決意を込めて手を差し出す。
千尋は呆気にとられて、ややあって、笑いだす。
だいふくがチョンと透子の手に猫パンチをくわえたので、千尋は一人と一匹の手の上に自分の手も重ねながら笑い、その手に力を籠める。
「こちらこそ。——星護神社にようこそ」
透子も千尋の手をぎゅっと握り返した。
「これからも、どうぞよろしく」
不完全な少年少女は、どちらも傷だらけで。
それでもほがらかに微笑みあった。
了。




