27.顛末
「……先生?」
「見つかっちゃったね、芦屋さんにも」
いつもどおり、柔和な表情の柴田はすみれからパッと手を離すと、透子に向かって微笑んだ。
高い位置から落とされたすみれが、キャッと一声あげて呻く。
「美味しそうな子が一人増えてよかったわ! 先生最近文化祭の準備ですごぉく忙しくて。……この前は誰かに食事を邪魔されちゃうし、お腹がすごくすいていたのよ。この前、芦屋さんのところに、すみれさん? 来たでしょう? 綺麗で美味しそうで髪が綺麗で。すごく食べてみたかったのよ」
「し、柴田先生? え? なんで?」
「あなたを探して、誰かがくると困るの。さ、はやく終わっちゃいましょ?」
赤い舌がちろりと覗く。
見開かれた柴田の瞳は、人間であれば白目の部分が血のようにどろりと赤い。
華奢な手の爪も黒く、獣のように伸びている。いつか見た小鬼とは比べ物にならないほどに、禍々しい。
透子は悲鳴をあげそうになって、がんっと本棚に押し付けられた。
「や、やめなさいよ、化物ぉ! 透子さん、逃げて!」
隠れていた桜がまろびでて、柴田の足にまとわりついて阻止しようとする。
桜はお腹を蹴られて、ぎゃんっと壁に打ち付けられ。床に投げ出された透子は桜の側によった。
すみれは頭を打ったのか、気を失ってしまっている。
「桜ちゃん、どうしてすみれちゃんといたの……?」
柴田と距離をとりながら聞くと、桜は震えながら言った。
「すみれさんが、透子さんの母上の学生時代の写真が見たいって言うから、お見せしようと思って……そしたら、その人が……」
透子は舌なめずりした柴田から後退った。
「どうして開始前に来てくれなかったの?」
「間に合うように帰って来れるかがわからなくて。皆に会わせる顔がなかったのよ! 急に関西に行くからってドタキャンして、申し訳なくて 英語劇、見ましたわ……! 透子さん、すごく立派にドロシーを演じていたわ!」
桜の親戚に不幸があったのは、本当の事だったらしい。
透子が大丈夫だよ、と桜を抱きしめる。
柴田がにこにこと二人の様子を観察しながら微笑んだ。
「大丈夫よ! 桜さんもすごく頑張っていたけど、透子さんもばっちり代役をこなしていたわ。先生、どうなることかと思っていたけど、皆が力を合わせる姿に、すごくすごく、感動しちゃった」
柴田の言葉に二人は怯えて身体を寄せ合った。
「なんで、先生が……」
柴田は、アハハと明るく笑う。
「先生ねえ、人間の黒髪がすごぉく好きなの。若い女子の黒髪の味に勝るものはないわ今は嫌な時代になってみんな脱色しちゃって。だから、校則の厳しい高校は天国よ?」
髪の長い女の子を物色しては、髪を切って食していたらしい。
「今日は美味しそうな子が三人も! 安心してね。生気を吸い取ってもちょっと廃人みたいになってしまうだけで、命だけは助けてあげるから」
身勝手な言い分に透子は柴田を睨んだ。
あづま庵にバイトする予定だった大学生は、確かに命はある。
だけどいまだに抜け殻のようになっていると和樹から聞いた。なのに、そんな、勝手な言い分が許されていいわけがない。
「こんなに派手に動いたら、ぜ、絶対捕まってしまうんですからね!?」
桜の憎まれ口に柴田は残念そうに視線を伏せた。
「そうねせっかくいい狩場だったけど、透子さんみたいな目のいい子が来たから困るわ。私も場所を変えなきゃ。だから、逃げる前に貴方たちで私を満足させてね」
柴田はにこにこと笑いながら鋭く伸びた黒い爪を舐める。
桜はひぃ、と透子にしがみつく。
「どっちから、もらおうかなあ」
柴田が舌なめずりをする。
……と同時に、透子は視線の先で、すみれが薄目を開けているのに気付いた。すぐにでも駆け寄りたいが、彼女は首を振って指をさす。
すみれの指の先、……柴田の肩越しに、息を殺した人影が千尋がいるのが見える。
そろり、と金属バットを持って近づいてきているが、遠い。三メートルはありそうだ。
……透子は、桜の手を握りしめながら、柴田に問うた。
時間を稼ぎたい。
彼女はさっきから、ずっと喋っている。こういう種類の人間を、透子は知っている。
叔母だ。叔母と同じで、彼女はきっと、鬱屈した思いがあって、それを透子たちに聞いてほしいはずだ。
「な、なんで……、なんで髪の毛を狙うんですか?」
柴田はきょとん、とした。
それから、透子の髪をつまんで、乱暴にひっぱりあげた。「痛い!」透子が叫ぶと、いい声ねえと微笑んだ。
「昔ねえ、神坂の陰陽師に火でやかれたの。顔面に油をかけられて……。ああ、思い出したら腹が立ってきた。他の怪我は治ったのよ? なのに……髪の毛だけは戻らなくて」
柴田は透子を突き飛ばした。
「仲間から聞いたの、自分にない個所は、人間から喰って補えば元に戻るはずだって」
「……補えてないじゃない! 何人食べたって! 無駄なんじゃな……」
桜が憎まれ口を叩き、ガンっと柴田が彼女の頭の上を蹴る。
「うるっさいのよ、帰国子女ぉ! しゃあらぁっぷ!」
めりこんだ足を柴田が外すと、コンクリートの壁の破片が、ぱらぱらと桜の額を経由して床に落ちていく。
桜は震えあがりながら、気が動転したのか両手を頬にあてて呟いた。
「せ、先生。いまの私の暴言に対しては、びーくあいえっと、のほうが相応しいかと思いますわ……お口にチャック……」
「あらそう? 今度はからはそっちを使うわね」
せせら笑った柴田はべろりと舌を舐めた。
彼女を見上げ得ながら。透子は言った。
桜の手を握って彼女を促す。
「……次が、あればいいですね、先生?」
あ? と首を捻った柴田の背後で千尋がバットを振りかぶる。
「桜ちゃん、走って!」
透子が叫び、千尋は無言のまま柴田の後頭部に勢いよくバッドを振り下ろした。
「ぐがああああっ」
柴田が絶叫し、反撃しようとしたのその顔に、白い影が覆いかぶさる。
「だいふく! やれっ!」
だいふくが、千尋の命令に従いガリガリと彼女の顔に爪を立てて目を潰す。
絶叫しながら柴田は蹲った。
桜が千尋の胸にちゃっかりと飛び込んだのを確認してから透子はすみれの元に急いだ。
「すみれちゃん、すみれちゃん!」
「痛ッ……あー、大丈夫、頭なぐられたけど死んだふりをしていただけだから……」
くらくらと立ちあがった従姉を支えて逃げようとする。
「キャッ」
しかし、足首を掴まれて透子はころげた。
本棚にぶつかってばらばらと本が落ちてきて、顔から血を流した柴田が手首に爪を食い込ませて唸っている。透子は扉の向こうを指差した。
「桜ちゃん! 走って誰かを呼んできて」
「わ、わかったわ」
桜を追おうとした柴田の手に向かって、千尋が容赦なくバットを振り下ろし、ぎゃあああ、と柴田は叫ぶ。
「千尋くん、すごい」
だいふくが、にゃあ、と足元で鳴いた。
「だって千尋だもん。だいふく、知ってる。千尋は視えないだけで、いっぱい、色んなことが出来るんだよ!」
えっへん、と胸をはるだいふくに、頭を押さえた柴田が……ニタリと笑った。
次の瞬間、あはは、と笑って影のように、溶けた。途端に、千尋があたりをきょろきょろと見渡した。透子は右だと叫んだが間に合わず、柴田に蹴られて本棚ごと吹っ飛ばされる。
「千尋くんっ!」
柴田はだいふくを見ながら、口笛を吹いた。
「ネコチャンに、いいこーと、聞いちゃったあ。神坂君は視えないんだあ? いくら攻撃力が高くったってねえ、見えなきゃただの、無能よ、むーのーお! アンダスタン?」
だいふくが尻尾をばたばた震わせながら可愛らしいポーズで口を前脚で覆った。
「だ、だいふく。お口チャックする……」
柴田は姿を隠せるらしい。
透子やだいふくには柴田が見えるけれども、見鬼の能力がない千尋には位置が確認できないらしい。
柴田は千尋から姿を消したまま、笑った。
「でも、無能でも神坂の血筋だものねえ。二人分食べたらすごく精力がつきそう」
黒い爪が伸びたので、千尋を庇うように立つ。震えを押さえるように手首を押さえて、冷たい感触に、はた、と気づく。
……柴田のそれも、きっと何かの術だ。能力だ。
じゃあ、封じる事が出来るのではないか。透子は、数珠を手首からそっと外した。
痛みに耐えながらも立ち上がった千尋を視線で追いながら、言い聞かせるように言った。
「私、怖くなんか、ないんだから。千瑛さんがくれた呪具をもっているんだから……私の力が増幅されるの、だから、あなたなんか怖くない」
千尋が、顔をあげる。
透子はお守り代わりにつけていた手首の水晶の数珠を外して、握りしめる。
いつだったか、千瑛が唱えていた呪文をもちろん、透子に術なんか使えるわけはないけれど出鱈目な印を組んで、唱える。
透子の数珠は呪力の増幅なんかしない。
その反対で、「つけた人間の能力を封じて」しまう。それは鬼に対しても同じだろうか?
そうだといいが。
透子が、数珠を握ると柴田の姿が見えなくなってしまう。
そんなことをおくびにも出さずに透子は記憶の中にある千瑛の真似をした。
今、ここで必要なのは術を使う能力ではない、目の前の英語教師を騙すための舞台度胸だ、透子は数珠を柴田に見せつけるように高らかに掲げて、叫ぶ。
「六根清浄!急急如律令ッ!」
「させないわよッ!」
姿を消したまま、柴田が叫び、鋭い爪が透子の手を切り裂く。
痛みにうずくまった透子を見下ろして、柴田がせせら笑った。数珠を戦利品のように手首に嵌めて、二人を見下ろす。
「あなたの呪文、何も効果がないわよ、お嬢さん! せっかくだからこの綺麗な数珠はもらって」
最後まで聞かずに、千尋が動く。
蹴散らされたバットの代わりに傘を掴んでその切っ先を柴田の喉に向けて、力任せに体当たりをした。
「馬鹿野郎! 数珠のおかげで、あんた今、俺にも視えてんだよッ! 無能な俺にもなあっ!」
ばきぃっと大きな音がして、柴田が千尋ごと窓ガラスに吹っ飛ばされる。
「落ちっろおおおおおおお!」
ガシャン、と大きするぎる音がして、スローモーションのように舞い散る硝子を目で追いながら、透子は手を伸ばした。
勢いをつけすぎた千尋が窓の外に吸い込まれそうになるのを防ぐように、手を伸ばす。
落ちていこうとする千尋のシャツに手が届く。
だが、勢い余って透子も引きずられそうになる。
コマ送りになる視界で、ああ、自分も落ちるかなと思った瞬間
後ろからものすごい力で引き留められた。
「……やあ、間に合った……」
がっしりとした腕に引き寄せられて上を向くと、白井桜の兄の悠仁が、やあ、と朗らかに微笑んでいる。
透子と同じように悠仁が捕まえてくれたおかげで落下を免れた千尋が脱力したように、床に崩れ落ちた。
「大丈夫、二人とも? それにすみれさんも」
「大丈夫、です。白井さんはどうして?」
すみれが、イタタ、と頭を押さえながら悠仁に尋ねた。
「もともと、観客席にいたんだよ。桜から呼び出されて……」
透子は勢いよく立ち上がった。
桜は、どうなっただろう。
「桜なら、窓の外を見たらいいと思うよ」
透子はふらふらしながら窓の外を見る。同じようにボロボロになった千尋も本棚伝いに立ち上がって、窓枠に手をかける。
さすがに先程のまでの騒ぎで人がちらほら集まっていて、二階から落ちた柴田はなにやらヒクヒクと動きながらも、地面に縫い付けられたようになっている。
そのすぐそばに背の高い男性二人を見付けて千尋が目をみひらいた。
「千瑛、和樹……」
千瑛が笑顔で手を振って、不機嫌そうな和樹が柴田を足で踏んでいる。
桜は千瑛の横で心配そうにしている陽菜に抱き着いてわんわんと泣いていた。
そろそろと這い出てきただいふくもぴょん、と窓枠に飛んで一階を見下ろした。
「鬼さん、つかまったねえ! よかったあ」
千尋が調子いいなお前、と呆れながらだいふくをぽか、と殴る。
「ごめんねえ、だいふく、お口にチャックする」
悠仁とすみれが「猫が喋った?」と驚いているが、それを説明している気力が二人とも、ない。
「柴田先生の身体が、なにか青いもので縛られている……」
「俺には視えないけど、和樹の結界じゃないかな。あいつ、そういうの、得意らしいから」
言いながら、ずるり、と千尋がしゃがみ込む。
「つ、疲れた」
透子もそれに倣ってしゃがみこんだ。
ぬるりと何かが手に触れたので、まじまじと手を見ると鋭利なナイフで切り裂かれたかのように、手から流血している。
柴田に数珠を奪われたときに切り裂かれた傷だ。
「疲れた、本当に、手が、痛いな……」
痛みと虚脱感で透子は目を閉じる。
透子!とすみれの叫び声が聞こえたのに大丈夫だよと口の中だけで答えた。
透子はそのまま
意識を失った。




