20.兄弟
和樹が運転する車内では意外な事に静かなジャズが鳴っていた。
知っている曲調だったのでつい、千尋はオーディオの画面に視線を走らせてアーティスト名を確認した。
口が悪く、性格も悪い異母兄と千尋は仲が悪いが、音楽の趣味が合うらしい。
そもそも血がつながっていると知らなかった小学校低学年までは「本家にいる和樹くん」は千尋の一番気が合う仲のいい友達だった。
両親もその当時は本家の離れに住んでいて、本家に居候していた和樹とは庭を隔てた別の家屋に住んでいたから、毎日毎日一緒に遊んだ。
兄弟だからか、育った環境が一緒だからか。
たまに嗜好が似ていることに気づいて、ハッとする。
千尋の視線に気づいた和樹は静かな声で言った。
「曲が嫌なら適当に変えていいぞ」
「……変えない。俺、このユニット好きだからこれでいい」
「ふぅん?……確かに、結構いいよな」
「うん」
沈黙が落ちた。
どうせ眠れはしないが、千尋は助手席のシートに身を沈めて目を閉じる。
和樹が兄だ、とわかってから二人の関係は百八十度変わってしまった。
まず、それまで和樹に比較的好意的だった母が壊れた。千尋が和樹と遊ぼうとすると「千尋も私よりその子を選ぶのね」と泣きわめいて怒る。
千尋は、和樹と出来るだけ口をきかないようにした。
和樹だけじゃない。父親とも、だ。
お母さんはお父さんと和樹のせいで悲しい思いをしている。
それならば、千尋が我慢して母親だけを選べば、きっと元通りに笑ってくれる……、きっと、千尋を好きになってくれる。そんな思いは呆気なく、砕かれた。
どんなに千尋が言葉を尽くしても、学校でいい成績をとっても、スポーツの大会で賞をとっても。母は困ったように「よかったわね」と口元で笑うだけ。
決して、千尋を見ようとはしてくれなかった。
だが……、父親との離婚が成立し二年たたないうちに幼馴染と再婚すると、母はそれまでが嘘のように明るくなり妹が生まれてからは別人のように笑顔で溢れた。
ただしそれは再婚相手と、妹と三人で過ごす時だけのものだ。
千尋がその輪に加わると、その笑顔はぎこちなく曇る。
母だけではなく親切な義父も千尋の前では極力口を開かず忙しそうにしていて、それでいて、千尋と妹を二人きりにさせることは絶対になかった。
……妹に危害を加えたり、しない。そんなこと、考えたこともないのに。
小学校六年生になったある夜、千尋は寝苦しさにリビングに降りて漏れ聞こえる母の声に足を止めて耳を済ませた。母は穏やかな声で、うっとりと言った。
「私、いま、本当に幸せ。……貴方と再婚して、この子を産んではじめて幸福が何なのかわかったの。#それまではずっと不幸だった__・__#」
母親は妹を膝に抱いて、新しい夫と肩を寄せ合いながら微笑む。
足音を立てないように部屋に引き返してベッドに潜ってその日から、千尋は上手く眠れなくなった。
自分の存在が、母の不幸の根源だったのに。
好かれようだなんて、なんて愚かな努力をしたんだろう。
それからは母親を避けて祖父母の家を転々としては白眼視された。
仕方なく頼った実の父親からは、居場所を与えられる代わりに、駒のように扱われるようになった。
千尋は神坂の家の者としては無能だが、それ以外は出来のいい息子は連れまわすのにちょうどいいアクセサリーらしく、父の取引先との家族団欒の場には必ずと言っていいほど引っ張り出され、満面の笑みで紹介された。
赤信号で車がとまったので、千尋は目をあけた。ひどい頭痛がしてくる。
「……和樹、父さんは俺にどうして本家に行けって?」
「いつもの通りだろ。本家のお嬢様が仮病で熱を出して引きこもっている。お前に相手させてご機嫌をとらせたいんだよ――もてる男はつらいよなあ?」
「会いたくない」
「連れ戻されるぜ」
本家の末娘は千鶴子というひとつ年下の少女だ。
可愛い子だが、病弱を理由にひどく甘やかされてわがまま放題で千尋は苦手だ。
――だが、千尋が彼女にひどく気に入られているのは知っていた。
千鶴子の機嫌がよくなれば、本家の主も機嫌がよくなる。
本家第一の父としては、当然の義務だと思っているんだろうし、本家から父の会社への資金援助もされるのかもしれない。
「簡単だろ、笑って相槌打って、べたべたして触ってくる手を好きにさせておけばいい」
千鶴子の手つきを思い出し千尋は吐きそうになった。
たまらずに窓の外を見ていると和樹が無言で窓を開けた。
風を感じながら、千尋はポツリと呟く。
「父さんもよくやるよな。資金のために息子を権力者に売るって、どんな気分だろうな」
得意じゃない皮肉を口に乗せると和樹が口を曲げた。
「あのクソ親父に人の心があるとでも? 高値で売れたって笑って言うだろ」
和樹が苛立たし気にアクセルを踏んで、車が加速する。和樹だって父の身勝手さに傷ついている。それを知っているから、余計に苦しい。
『もう、かずき兄ちゃんとはあそべないんだ、だって、ままが怒るから』
遊ぶ約束を全部裏切って、先に手を離したのは千尋の方だった。
小さな和樹だって一人で泣いていたはずなのに、身勝手な理由で逃げて、逃げた先で千尋はほかのだれかの身勝手さに傷ついている。
車内はとても静かで、音楽だけは優しい。
不揃いな旋律を聞きながら出来れば、このドアをあけて走って逃げたいな、と思う。
星護神社に帰って下らない話がしたい。
千瑛、佳乃、小町。
二人と一匹がいる場所だけが千尋にとって優しい居場所だ。
……いいや。
(また学校でね)
(チヒロ、抱っこして!)
その居場所にもう一人、と一匹が加わったことを思い出して少しだけ、頬が緩む。
目が覚めたら、星護神社にいればいいのに。
眠れないと知りながら、千尋は無理やり、目を閉じた。




