昔の話1
あの出来事が何年前のことになるのか、正確にはわからない。
ただ自分もあいつも、随分と若かった事は確かだ。
「――――おい。こんなところで寝てないで、返事をしろ!」
「……んっ? あぁ、お前か」
高く聳える欅の木の下で、人をなぐり殺せるほどの分厚い本を読んでいる自分に気安く話しかけてくる人間など、この貴族学校にはそう多くない。
誰もが家の事を考え、誰もが家の繋がりを重視して友人を作る学校。そんな世界で、真の友人を作れたのは幸運な事だが、でも気安く敬語もなく呼ばれると言うのは些か問題ではないのか、そう思うのだ。
「王国随一の公爵家の人間である俺の事を『お前』呼ばわりするのは、あんただけだよ」
「お前もそうだろう、アルフレト。この学校で俺に敬語を使わないのは、お前くらいなもんだ」
だからと言って、敬語を強要することはない。
こいつからタメ口で話しかけられることにはなれたし、敬語はもう聞き飽きた。……それに、嫌じゃない。
「で、まーたお前は難しい本を読んでるのか?」
「教養を身につけるのも貴族の義務だからな」
「そら熱心な事で。じゃあついでに、俺の稽古の相手してくんねぇか?」
「断る」
決まっている。
アルフレトは剣術の達人。公爵家嫡男である彼は、一通りの武術をこなせる武の秀才。自分も高貴なる身なのである程度は稽古しているが、それでも彼には敵わない。
「この間の稽古で、俺の右腕をへし折ったのを忘れたのか?」
「いいじゃねぇか。すぐに治癒魔術師が治したんだからよ」
「そういう問題ではない」
もしこいつが公爵家の人間でなく、もしこいつが自分にとって友人と言う位置にいなければ、今頃この貴族学校にはいられなかっただろう。それだけの惨事を起こしておいて「いいじゃないか」と済ませられる彼の神経の図太さは、いっそ見習いたいほどである。
「それに、お前はもう十分強いだろう? 公爵家嫡男たるお前は、どちらかと言えば領地を継ぐために勉学に励んだ方がいいはずだが?」
「……政治とか経済とかは苦手でな。そういうのはお前さんに任せる」
「自分の領地くらい、自分で何とかしろ」
「ひっでぇな、友達だろ?」
「友達と言うのはこういう時に使う帝国語ではないはずだ」
そうは言っても、なんだかんだと自分は彼に政治だの経済だの、外交だのを教えてしまうのだ。他人に教えることは、自分の中での理解を深めることにも繋がるのだと無理矢理頭に言い聞かせてきたが、その実は、単に自分はアルフレトという人間が気に入っているだけではないかと思う。
「いいかよく聞け友よ。俺は勉学が苦手だ。嫌いとも言っても良い」
「威張るな」
「だから俺は考えた。俺は、武で以って領地を、領民を守るとな!」
「無視した上に発想がバカだ。貴族学校を一年生からやり直せ」
「昔からよく言うだろう。バカと天才は紙一重だと」
「その紙は時に本一冊分の厚みがあることをお前は知った方がいい」
よく喋り、よく剣を構える友人。
だが、こんな歳にもなって「武で以って領地を守る」などと言うのは異常だろう。こいつの父親が治める公爵領は王国において屈指の経済力を誇る地域だと言うのに、である。
「しかしあらゆる脅威から身を守るのは、最終的には『武力』だろ?」
「……否定はしない。だがいつまでもその『最終的な力』に頼るのもダメだろう」
「ふむ?」
わからない。
そんな顔だをしている。
「『武力』なんてものは最終手段だ。使わないにこしたことはない。いくらアルフレトが強かろうが、戦えば疲れるし傷もつく、最悪死ぬ。だが、領地や領民は戦いの後も残る。そして領地がまた脅威にさらされたら、どうするんだ」
「……もう一度立ち向かえばいい」
「領民全員が、お前みたいな脳筋だったらそうだろうな」
だが実際はそうではない。
多くの人間は、戦うことを嫌がる。それが差別と死をもたらすことを知ってもなお、立ち上がらない人間は多くいる。いや、その方が多数派だ。
だから、こうして俺は本を読んでいた。
神聖ティレニア教皇国初代統治者が重用した政治学者、ルクレツィア・デ・マキャベリが著した「君主論」という本を。
「領民の為に立ち上がる領主とは……確かに好感が持てる。でも、それでは領地は守れないんだよ。時には法や倫理、道徳、宗教に反する行為をしなければならない。それが上に立つ者の義務だ」
「……難しくてわかんねーな」
「…………目的の為には手段を選ぶな。端的に言えば、そういうことだ」
あぁ、思えばこの時から、自分の人生は決まっていたのかもしれない。
アルフレトという人間には、好感を持っていた。
領地・領民の為に剣を取って自ら最前列に立とうという気概は、尊敬に値する。
……いや、もしかいたら、自分は彼に憧れていたのかもしれない。
「やっぱり、難しいことはカロル大公殿下とやらに任せた方が良さそうだな?」
「……たまには自分の頭で考えたらどうだ、アルフレト」
あぁ、全く。こいつが領地を治める時がいつか来るとは、にわかには信じられない。




