アセノフグラート会戦
東部戦域がユゼフの想像を超えてキリス軍優勢となったのは、多少の事情がある。
遡って8月8日。
この日、キリス軍が国境を越え、第七次戦争が勃発したのは周知の通り。そして開戦初日に起きたカピタン平原の戦いは、キリス軍が数において有利だったために勝利した。
この時カピタン平原において5000のキリス第二帝国軍、正式名称「キリス第二帝国中央軍」を率いていたのは、キリス第二帝国皇帝バシレイオス・アナトリコンⅣ世の甥であるティベリウス・アナトリコンだった。
ティベリウスは皇族将軍ということもあり、その前評判は決して良いものではなかった。かつてシレジア王国王女エミリア・シレジアがそうであったように、彼もまたその良くない評判に晒されていた。
そして宮廷内闘争の果てに、彼は最前線へと飛ばされる。無論戦死を期待されてのことだったのだが、ティベリウスは大多数の人間の予想を良くも悪くも裏切る能力の持ち主だったことが判明するのである。
つまり、彼には生まれ持っての軍事的才覚を持っていたのである。
カピタン平原の戦いに勝利したティベリウスだが、所詮3000対5000の戦いであり、戦局になんら影響を及ぼすものではないと理解していた。
戦局を大きく動かすためには、国境紛争に終始せずにオストマルク領への進撃が必須である。そのためには潤沢な戦力と、なおかつ潤沢な補給が必要不可欠であった。
「ハドリアノポリスにそれだけの物資は存在しない。となると、本国に応援を頼むしかないだろう。しかし……」
彼は宮廷内闘争に敗れて最前線に来た身である。そんな人物に対して「叡智宮」にいる政敵たちが気前よく大規模な増援を寄越すわけがなかった。彼らからの支援を得るためには、ある程度大きな戦果が必要だと考えたのである。
ティベリウスは十数分間にわたって考え続け、そして決心し手紙を書き始めた。
『我、オストマルク帝国軍なる侵略者を排除することに成功するも、尚確信的勝利を得るに至らず。至急、来援を求む』
ありきたりな増援を求める手紙であったが、他と異なるのは、これが叡智宮に宛てたものではないということである。ティベリウスはこの手紙をグライコス地方最大の都市、中部戦域の重要拠点であるサロニカに送ったのである。
サロニカに駐屯する中央軍は3個旅団、およそ1万5000。それを指揮するのはティベリウスと旧知の仲であるエル・テルメ中将だった。彼は伯爵家当主にして元軍人官長であり、その時にティベリウスと知己を得ていた。ティベリウスにとっては数少ない信頼できる軍人であった。
友人の頼みを受けたテルメ中将は本国政府に対応を求めることなどはせず、独自の判断によって行動することを決めた。
「部隊を2つに分ける。第11・第13旅団はサロニカに残り中部戦域のオストマルク軍を牽制。ただし絶対に国境を越えてはならぬ。それ以外の指揮はグレコ少将に委任する。第12旅団は私と共に東部戦域に向かい、当地の中央軍を支援する」
この第12旅団、後にテルメ旅団と呼称されることになる5000の部隊はサロニカをグレコ少将率いる2個旅団に任せて進撃を開始。中部戦域が手薄になるが、この戦域におけるオストマルク軍の動きが不活発であったために問題とはならないと、テルメは考えたのである。
テルメ旅団は進路をエーゲ海沿いに東北東に取る。1個旅団は心許ないだろうがティベリウスにとっては貴重な増援であることには変わらない。
行き先は無論ハドリアノポリス……ではなかった。テルメ中将の作戦は、ティベリウスにとっても、そしてオストマルクにとっても予想外のものだった。
8月10日。
部隊がサロニカとハドリアノポリスの中間地点カリテアに到着した頃、テルメ中将は命令した。
「これより、我が旅団は山を越える。臆病者は平地を進みティベイリウス殿下と合流、それ以外の者は私に続け!」
御年57歳になるエル・テルメ中将はその年齢に似合わない声量によって麾下の部隊に告げたのである。
この老人、簡単に言ってくれたが、旅団の目の前に切り立つ山々の標高はいずれも1000を超え、ものによっては2000を超える。開拓されておらず、街道などという豪華なものがあるはずもなく、あるのは鬱葱と生い茂る針葉樹林と獣道のみ。ここを通る人物は密出国者か余程の狂人かと誰もが思った。
しかし今回の場合、エル・テルメ中将は密出国者であり、余程の狂人であった。
テルメ中将は臆病者以外はついて来いと言ったが、殆ど全員が彼の指示に従ったのである。集団心理故の行動であったかもしれないが、この勇気ある行動、あるいは狂人の行動が全体の戦局を大きく動かしたのである。
伝令の兵を残して、険しい山岳地帯をテルメ旅団は重量のある補給物資と武器を抱え、地図もなく太陽と月の方向を頼りにひたすら進む。常人には計り知れないほどの体力と精神の消耗を彼らを襲っただろうが、しかしその努力は無駄ではなかった。
8月16日。
テルメ旅団は1割程の脱落者と遭難者を出すという強行軍を経て、ついに山岳地帯を突破することに成功したのである。
ここで機会を待ち、ティベリウスと共同歩調を取る。テルメ旅団は敵地にいるため下手に偵察や伝令も出せなかったが、テルメ中将はティベリウスを信頼し待つことにした。
しかし今度はテルメ中将が驚く番だった。
この時ティベリウスの指揮下にいたのは1個師団、約1万人。彼はこの1万人を自身の軍事的才覚によって柔軟に運用、有効活用し、テルメ中将が山を必死に超えている間に欺瞞の為の攻勢と進撃によって前線を押し上げていたのである。
8月17日。
オストマルク軍3個師団を指揮するクライン大将はティベリウス師団の進撃を妨害するため、2個師団を率いて駐屯するプロブディフを発つ。その命令は至極真っ当であったのは確かだが、それこそテルメ中将が望んでいた好機だったのである。
クライン軍団とティベリウス師団が、プロブディフから少し離れたアセノフグラートという農村において交戦を開始。
それを見計らい、テルメ旅団も行動を開始する。目標は言うまでもなく、クライン軍団の後方基地となっていたプロブディフである。
「ひたすら攻撃しろ! 動くものは全て殺せ! 目につくものは全て焼き払え! 侵略者どもをここから追い出すのだ!」
テルメ中将は山越えによる鬱憤を晴らすかの如く苛烈な命令を下す。前線が上がったためにプロブディフ市民の避難は開始されていたものの、それでもまだ多くの民間人が残されていた。しかしテルメ中将は敵の士気や補給物資を完全に消滅させる意味でも、徹底的に都市を焼くことを命令したのである。
後詰として待機していた部隊が必死に応戦するものの、突然の攻撃によって為す術もなかった。彼らは民間人を逃がすための時間稼ぎくらいしかできず、プロブディフを放棄せざるを得なかった。
無論、この動きはクライン軍団の知ることとなる。クライン大将は焦燥でもって軍団に反転命令を出したものの、問題はこの時ティベリウス師団と相対していたことにある。
後方を襲われて混乱し、士気が崩壊寸前にまで陥ったクライン軍団の後背を見逃すティベリウスではなかった。
彼はとっておきの、そして後に大陸中にその名を轟かせた切り札を切った。
「鐡甲重騎兵連隊を突撃させろ!」
それはキリス第二帝国中央軍の伝統ある部隊、鐡甲重騎兵連隊。
半ば伝統だけの部隊となっていたこの騎兵連隊は、馬も人間も鎧に身を包んで文字通り重みを増している部隊である。魔術の威力が上昇してからは無用の長物となり、典礼的な催しだけに従事していたはずの重騎兵連隊だった。
ティベリウスからして見れば、中央政府から増援と称するいらない部隊を押し付けられた形となるが、そんな時代遅れのものでさえ、彼は活用せしめたのである。
軽騎兵と比べて機動力が落ちるとは言え、なおもその速力は凄まじく、かつ太陽光を眩く反射しながら突撃してくるその鉄の塊は、クライン軍団にとっては恐ろしいという次元を超えていたに違いない。
背後を襲われ、蹂躙されたクライン軍団は崩壊。
数の利こそあったクライン軍団は生き延びることに成功。軍団の半数以上の死傷者を出しつつもプロブディフを奪回し、逃げ込むことに成功した。
だがプロブディフは最早後方基地としての機能はほぼ失われていた。
家や物資はテルメ旅団によって焼き払われ、民間人は多くの死傷者を出している。そしてもっと不幸なことに、プロブディフは完全に中央軍に包囲されてしまったのである。




