場違いな客人
大陸暦638年7月25日。
キリス第二帝国西部、オストマルク帝国との国境地帯にある城塞都市ハドリアノポリスはその日、気温が30度を超える猛暑の日だった。市民は服を脱ぎ捨て、都市近郊を流れるマリツァ川で水浴を楽しんでいた。
そんな水浴を楽しむ半裸の市民の1人である男が、国境を超えてやってくるある一団を目にした。
国境地帯と言うこともあって交易商人である可能性を彼は考慮したが、ここ数日キリスとオストマルクは些か緊張関係にあってそういう者達はめっきり少なくなっていたことも思い出した。久しぶりにやってくる交易商人がいったい何の商品を運んできたのか彼の興味は尽きなかったが、彼が望んでいる商品を運んでいない事を、そのすぐ後に気付くことになる。
ハドリアノポリス城門に近づくその一団は、彼が良く知っている商人とは違う、全く異質のものだった。
商人にしては豪奢な馬車。
商人にしては小ぶりな荷馬車。
商人にしては贅沢な護衛。
商人にしては華美な装飾。
そして酷暑のキリスに似合わない、厚い服装。
全ての視覚的情報が、商人ではないことを断言していた。
一団はハドリアノポリス城門に到着し、そこにいた衛兵に何者かと問われる。
豪奢な馬車に乗っていた婦人は旅慣れていないのか疲労感を顕わにしつつ、しかし毅然と、かつハッキリと衛兵の質問に答えた。
「私は大陸帝国皇女、エレナ・ロマノワ。キリス第二帝国への亡命を希望する者です」
このハドリアノポリスにやってきたロマノフ皇帝家の一団が、キリス第二帝国を大きく揺るがし、多くの者の運命を左右させるに至ったのは必定と言えた。
亡命者の情報はあらゆる手段で以って直ちに帝都キリスへもたらされ、そこに住まうこの国の最高権力者にある決断をさせたのである。
その決断がもたらす影響は、キリス第二帝国内に留まらなかった。
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俺の情けないいざこざから2週間程経った7月28日。今日もクラクフは晴天なり。
この2週間の2人との仲は……うん、まぁ、色々あったね。
具体的に何があったとかは聞かないでほしい。恥ずかしいから。とりあえず色々あったんだよ。
さて、特別参与としての俺の仕事の方は順調である。順調に仕事が増えてる。当然、俺の下にやってくる書類の量は膨大で、しかも機密に関わるようなものばっかりだから他人に任せることもできず四苦八苦。
たまの休みを取っても色々あってとっても疲れる。
休みを「取っても」色々あって「とっても」疲れる。
HAHAHAHAHAHAごめんなさい。
とりあえずこの2週間で手に入った情報というのを簡単にまとめよう。
まず、東大陸帝国の国内改革は極めて順調。反対派貴族の権勢も日を追うごとに弱体化し、それに反比例するように国民生活は向上しているらしい。今までが今までだっただけに、皇太大甥セルゲイに対する好感度はうなぎ上りである。
それと、帝国内の綱紀粛正の波と監視の目がきつくなり始めたため、段階的に例の貴族捕虜たちを開放し始めている。一気に解放すると足がつきそうなので不定期に、かつ徐々にだ。
シレジア王国の事情はあまり変わっていない。
カロル大公派の動きは大人しく、エミリア王女派も勢力を拡大できていない。国内情勢は膠着状態だ。
カールスバート復古王国、リヴォニア貴族連合については変わりなし。
そしてオストマルク帝国については……、
「ユゼフ少佐、よろしいですか?」
執務室のドアの向こう側から、聞き慣れた女性の声がした。
「どうぞ」
「失礼します」
と、入室してきたのはフィーネさん。とりあえず従卒のサヴィツキくんに紅茶を淹れてもらい、そして彼女を対面に座らせることにした。フィーネさんの腕の中には分厚い束の書類がいくつもあるし、多分長話になりそうだ。……なんだか書類を見ただけで目が痛くなる。
「……どうしました?」
「なんでもないです。ちょっと疲れただけで」
なんで仕事というものはやる前から疲労するのだろうか。
「少しは肩の力を抜いた方が良いですよ。なんなら私がお手伝いしましょうか?」
「あ、いえ大丈夫です。さすがにこの程度の仕事は自分でやらないと、情けなくて仕方ないですからね」
2人の女性の事を同時に好きになってしまいあまつさえそれを伝えてしまったあげくに仕事を女性に任せるというのは流石にまずい。そこまで外道になるほど俺は厚顔無恥ではない。
「あ、そういえばフィーネさん。昇進おめでとうございます」
「……耳が早いですね。ありがとうございます」
フィーネさんは昨日27日に、帝国軍中尉に昇進した。情報省第一部シレジア王国担当情報武官という役職は変わっていないが、いずれにしてもめでたい事である。
「何か祝い品でも贈りますかね」
情報面で色々お世話になっているしそのお礼を兼ねて……というつもりで言ったのだが、フィーネさんはというと
「ではお祝いの会を我が伯爵邸で行いましょう。ついでに父に挨拶して……」
「あー、それはちょっと」
フィーネさんんことは好きだがリンツ伯のことは、その、うん、怖い。暫くエスターブルクには行きたくはないのだ。それに結婚云々についても色々問題が……。
「どうして少佐はそんなに父のことを敬遠するんでしょうか。そんなに婚約の挨拶したくないんですか?」
「そもそも婚約はしていませんよ」
「恋仲にはあります」
「……この状態でも恋仲って言うんですかね」
現状、俺はサラとフィーネさんのことが両方とも好きである。お恥ずかしながら。そんな情けない俺に対して彼女たちは達観しているのか諦めているのか、その状況に甘んじてくれている。
なのだけど、この状況は果たして付き合っている状態なのかはよくわからない。付き合っているというよりは好き合っている状態。そんな中「俺はサラとフィーネさんと恋仲にある」と断言してしまうのは些か語弊があるし第一自分の事なのに自分を殺したくなるくらい不誠実なことなのではと考えてしまうのだ。
「私は恋仲にあると思っています。あとはユゼフ少佐が婚約を呑んでくれれば」
「……婚約を呑まなければ?」
「呑まなくても私は少佐のことが好きですよ」
…………。うん、何度聞いても恥ずかしくなる。
恥ずかしげもなくそう言えるフィーネさんに対し俺と言えば、
「ま、まぁ、それは私も、なんですが……」
彼女の目を見て言うことはできないと情けないことになっている。いや本当にこんな俺でごめんなさい。
「ふふ、少佐も正直になりましたね」
クスクスと、彼女は笑った。ダメだ、このままこの話を続けると恥ずかしさで死んでしまう。
「しかし少佐。父に会うかどうかはともかく、エスターブルクに行くことは既に決定事項と言ってもいいですよ?」
「……なんでです?」
俺がそう聞くと、彼女の顔が一変して真面目なものとなった。いやいつも生真面目な表情をしているフィーネさんなので些細な差ではあるのだが、慣れると結構見分けはつく。
「少佐が我が国に押し付けた一家が、キリス第二帝国に亡命しました」
フィーネさんは持っていた資料を俺に見せながら説明を始める。一家、というの東大陸帝国皇女エレナとその子供ヴィクトルⅡ世の事。それが俺の計画通り、キリス第二帝国へ亡命した。7月25日時点で、彼女らは国境の城塞都市ハドリアノポリスにいるらしい。
「そうですか……。まぁ後はキリスの決断次第ですが……オストマルクとキリスが緊張関係にある中、オストマルクから亡命してきた東大陸帝国の皇族。バシレイオス・アナトリコンⅣ世はさぞ混乱している事でしょうね」
傍から見ればなんのことだかさっぱりわからない状況である。情報収集能力の低いキリス第二帝国なら、なおさらである。
「まったく、少佐の考えることはいつも悪辣です。我が国に面倒なことを押し付けて……」
「それはお互い様ですよ。それに我が国とキリスは国境を接していませんので」
「はぁ……」
フィーネさんの溜め息は、それはそれは深く大きなものだった。
というわけで新章「砂漠の嵐」スタートです。
あ、湾岸戦争じゃないですよ。念のため
それと活動報告にも載せましたが、大陸英雄戦記の序盤、書籍版第1巻に相当する第1話から第46話までをちょっとずつ書籍版に合わせて改稿します(現在『シレジア=カールスバート戦争』編まで改稿済みです)。
書籍版、WEB版ともども『大陸英雄戦記』をよろしくお願いします。




