砂の都
キリス第二帝国。
かつての大陸帝国の継承国家を僭称し、後にその地位を捨てて独立した国である。
香辛料貿易を始めとする南海貿易と、幾度かの隣国との戦争を繰り返してこの国は成長し、栄華を誇っていた時代もあった。だがそんな黄金時代も今は昔。再び台頭する東大陸帝国と、急成長するオストマルク帝国に阻まれ、今この国は危機を迎えている。
そのキリス第二帝国の帝都はキリス。
古代においては都市国家であり、そして今は「砂の都」という異称を持つこの都市は、その異称に違わず砂漠地帯に位置している。比較的寒冷なシレジア王国に対して緯度も低いため、夏は皮膚が焼けるほどに暑く、冬の夜は一転して水が凍るほども寒くなる。
かつては同じ大陸帝国の一員だったとはいえ、やはりこの気温と天候の違いからくる文化の違いは都市の構造や建築物の外見にも反映されている。異国から来た数多くの旅人や商人を魅了させてきた。
そんな砂の都キリスの中心部に、この帝国でもっとも豪華で、そして大きな建物がある。それがアナトリコン皇帝家とその身辺の者が住まい、国家の中枢機関として長らくその役目を果たしている「叡智宮」である。
遡ること6月16日。
叡智宮では、皇帝自らが出席する御前会議が開かれた。
議題は、シレジア王国と東大陸帝国が結んだ条約、即ち「エーレスンド条約」について。
第24代皇帝バシレイオス・アナトリコンⅣ世が最上座に座り、順に大宰相、軍人官長、法官官長、財務官長、書記官長がそれぞれの席に座る。
最初に発言したのは初老の男、他国において外務大臣に相当する職である書記官長だった。
「以前より、恐らく春戦争あたりからオストマルク帝国はシレジア王国と急接近しております。反シレジア同盟という枠組みから外れ、新たな大陸東部の秩序を作る。その中枢国家としての地位を彼の国は狙っているのだと推測されます」
書記官長が語った言葉は、特に尖った物であったわけではない。春戦争におけるオストマルク帝国の行動を見れば、それは十分に推測されるものだった。
だが彼が「しかし」と付け足すと、御前会議の場は些か緊張した空気を張り巡らされる。
「1ヶ月前、シャウエンブルク公国にて締結されたエーレスンド条約は、我が国にとって重大な害となる恐れがあります」
「……書記官長殿、それはどういうことなのだ?」
そう疑問を投げかけたのは、この国の軍事を司る軍人官長だった。彼は身を乗り出して、書記官長に対して威圧的な態度でもって答えを待つ。
そんな態度を見た書記官長は一瞬怯んだものの、だからと言って事実を捻じ曲げられる程軍人官長の威厳は大きくもなく、彼は淡々と部下が調べた情報を報告する。
「具体的な経緯は不明ですが、エーレスンド条約においてシレジア王国は、東大陸帝国に対して『賠償金なし、領土割譲なし』という極めて穏便かつ宥和的な内容を提示しました。国境に非武装地帯が作られはしましたが、その地域の主権は東大陸帝国に帰属したままです」
「それがなんだと言うのだ?」
「……この内容を考案したのが、一部の情報筋によるとオストマルク帝国だというのです」
書記官長の放った言葉に、軍人官長も、皇帝バシレイオスⅣ世も、誰もが驚愕のあまり沈黙した。
キリス第二帝国は、長きにわたって東大陸帝国、オストマルク帝国と軍事的、あるいは経済的な紛争を繰り返していた。また東大陸帝国とオストマルク帝国も、双方を仮想敵と見做して対立している。
つまりキリス第二帝国の周辺情勢は、巨大な3つの帝国が互いを互いにあらゆる力でもって牽制し、紛争し、そして現在は宥和による交易が開始されようとしていた。
しかしそのような状況下で、エーレスンド講和会議の場においてオストマルク帝国がシレジア王国を経由して、東大陸帝国に大幅な譲歩をした。
キリス第二帝国の目にはこれがどう見えるのか、書記官長はもはや説明するまでもなかっただろう。
そして結論を、この場にいる誰よりも地位の高い男が代弁した。
「あの帝国は、結託して我が国を潰そうとしている。エーレスンドはその下準備ということか」
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「なるほど、確かにキリスにとってはそう見えても仕方ありませんね。オストマルクが北と東の隣国と適当なところで手打ちして、かつ友好的な関係を築いて軍事的負担を減らす。その間に南に軍を動かしてキリスを討つ。そんなところですか?」
「そんなところだと思いますよ。もっとも、これはバシレイオスⅣ世の被害妄想というものです」
フィーネさんのが語った情報の内容は興味深いものだった。
今までシレジアと国境を接する国の情報しか収集してこなかったから、こういう遠隔地の国の情報は新鮮味を覚える。それに、俺の思いつきの提案がキリス第二帝国の皇帝陛下を困惑させてると考えると、なんというか申し訳なくなってくる。
顔は知らないけどごめん。会うこともないだろうけど謝ります。オストマルクが権謀術数を張り巡らせたんじゃなくて俺の脳内で適当に決めたんです。
しかしいくら弁明したところでキリスにはそう見えている。砂の都には今猛烈に砂嵐が舞っているのだろう。恐ろしい。
「この6月16日の御前会議以降、キリスの各官僚は慌ただしくなっています。特に書記官僚と軍人官僚の慌てようは凄まじく、何度かオストマルク大使館に訪問があったらしいです」
その訪問とやらが友好的なものなのかはわからない。状況を考えると情報収集の一環と見た方が良いだろうけど、そのうち大使を呼び出して注意喚起というか釘を刺すのかもしれない。
ちなみにここでフィーネさんの言っていた「官僚」というのはキリス第二帝国における「省」のことだ。その長は官長になる。長官じゃないよ。
それはさておき、このキリスの無駄なオストマルク警戒は無駄で終わるかもしれない。何せオストマルクが警戒しているのは東大陸帝国。宥和なんてちっともしていない。
国家の情報収集能力の低いとこういう勘違いが起きるのか。他人のことをあまり言えた立場ではないけど、これは良い反面教師になりそうだ。
「無駄で終わればいいんですけどね」
と、フィーネさんはやや不穏なことを言った。
「どういうことです?」
「キリス帝国軍が動いているんですよ。国境地帯に」
「……それは、オストマルクとの?」
「当然です」
え、なにそれ。もしかして「やられるくらいなら先制攻撃だ」とか思っている人間がいるとでもいうのだろうか。
そんなバカはおらんやろ……いないよね? まさか国家の中枢に居座る人間が総じてバカなわけないよね?
「でもオストマルクは、現状何もできないでしょう? 露骨に軍を動かせば、キリスに大義名分を与えてしまうようなもの。それにオストマルクが築こうとしているのは反東大陸帝国同盟。当然、キリス第二帝国も同盟に引き摺り込みたいと考えている。とすれば、ここで仲を悪くするのはダメでしょう?」
「……少佐は妙なところで頼りになりますね」
「それって褒めてるんですか?」
「えぇ。べた褒めです。惚れてしまいます」
「…………」
「ふふ、少佐。これは本当ですよ」
そこは「冗談ですよ」って言ってほしかった。
「いずれにせよ、今後もキリス第二帝国の動向は注視しなければなりません。最悪の事態もあり得ますからね」
そう言いながら、フィーネさんは資料を片付けにかかる。帰るという合図なのだろう。個人的なアレのせいで微妙にやり辛かった仕事がようやく終わると思うと、肩の重荷が取れる。
「ユゼフ少佐、少し質問があります」
資料とカップの中身を片付け終わったフィーネさんがそう尋ねてきた。
「どうしました?」
「聞くところによると、特別参与殿は大変お暇らしいですね? クラクフの補給参謀の方に聞きました」
「そ、そうですかね……」
あの野郎、今度会ったらズボンのポケットに泥団子突っ込んでやる。
「それと、マリノフスカ少佐も最近は訓練で忙しいとか」
「……は、はぁ」
なぜだろう。今すぐ背後にある窓から飛び降りてここから全力で逃げたい。ここ3階だけど。
「エミリア殿下の下にも挨拶に行きましたが、その時についでに聞きました。少佐の予定表について」
「…………殿下はなんと?」
「『特にないです』と」
「…………」
殿下、そこは正直になる場面じゃないです。心を鬼にしてもいいんです。私に仕事をくれてもいいんですよ!
彼女は明らかに外堀を埋めてきている。外堀どころか内堀も城壁も何もかも埋めてきている。
「ところで少佐。よろしいですか?」
「……はい」
面倒事に巻き込まれる、そんな予感しかしないが一縷の望みにかけて聞いてみることにする。それ以外に選択肢ないが。
「今日、夕食の御予定は?」
いつぞや聞いた台詞と全く同じ、彼女の表情も同じ。ただその時と違って、俺の隣にはサラがいない。
「……な、ないですけど」
そして俺は、正直に答えてしまったのである。




