炎上
大陸暦637年10月27日。
この日、カールスバート共和国首都ソコロフにある大統領府前の広場には、多くの民衆が集まっていた。その規模は計り知れず、見渡す限り人で埋め尽くされている。そしてその場にいるほぼ全員が、大統領府のバルコニーに立つ人間を注視している。
その人間こそ、この国において最大の権力を手中に収めているエドヴァルト・ハーハ暫定大統領である。
彼は広場に集まった民衆に対し手を振り、目の前に映る民衆の群れの規模に思わず笑みを浮かべた。高らかに、張り上げた声で、そして遠くにいる者へも伝わるように広範囲な通信魔術を使いながら民衆に語りかける。
「カールスバート国民とは何か、ラキア人とは何か!?」
彼は一語一語、ハッキリと丁寧に、そして猛々しく語る。
民衆も、彼の言葉を一語一語聞く。
この演説会の目的は簡潔にして明瞭である。
明日にでも起きるであろう、カールスバート共和国の内戦。そのための準備として、国民の支持を集め、そして自ら指揮する国粋派の勢力を伸張する。最大の敵である共和派の民衆の支持を奪うための策である。
「我らラキア人は、安楽椅子に座り自らの欲求のために血税の使用を厭わない者に対して忠誠を誓う奴隷であるのか! それとも、酒と女に溺れた惰弱な権力者が密室の内に決めた事項にただ従うだけの衆愚であるのか!」
彼は、そのような表現で王政と共和政の批判をした。
かつてのカールスバート王国の国王は、政治に興味を示さず政治の腐敗を招き、それが経済の低迷に繋がり、革命によって崩壊した。
かつてのカールスバート共和国の大統領は、密かに愛人を作り、酒も金も困らずその日々を大統領府で過ごしていた。それに対して民衆の抗議行動に応えた軍部が、その政府を倒した。
「否! 否である! ラキア人は、自らの手と足で以ってその幸福を掴み取る誇り高き人民の事である!」
オストマルク帝国の首脳部が聞けば卒倒しそうなくらいの民族主義的な演説によって、場は盛り上がる。ハーハは、その民衆の歓声に酔いしれていた。
だが注意すべき点は、この場に集まっている「民衆」と言うのは半分が国粋派の軍人である。偉大なる指導者であるハーハ大将の演説を聞きに来た者もいるが、大半はいわゆる「サクラ」に該当するだろう。
ハーハ大統領が民衆の支持を得ている。そう国内外に印象付けるための演説。無論、このことについてはハーハは知っている。だがそれでも、彼はその他半数の一般的な民衆からの支持を得たことに高揚し、甘美な興奮の中に包まれていた。
その後、彼は20分に亘り言葉を吐き続ける。ラキア人としての民族の誇り、国家としての誇り、それを守るのは軍部であり、そして軍部が頂点に立っている今こそがカールスバート全盛期であると。その全盛期をより良いものにするために、国民は一致団結しなければならないと。
その後、演説は高らかな歓声と共に終わりを告げる。
満足したハーハは数分間民衆に手を振った後、バルコニーから去った。
瞬間、大統領府は燃え上がった。
大統領府は瞬く間に各階に延焼し、20分後には建物全体が燃えていた。
炎上する大統領府を、ハーハの演説の為に集まった数万の群衆はまず呆然と、そして次に悲鳴を上げながら見ていた。ハーハはどうなったのか、放火なのか、そのような声が次々と上がる中、誰かが叫んだ。
「卑劣な軍国主義者に対して、共和主義の象徴たる大統領府がその身を以って抵抗したのだ! 言わば、これはハーハに対する天罰である!」
3時間後。
軍による懸命の消火活動によって、大統領府はようやく鎮火した。だがかつて白く美麗な輝きを放っていた大統領府は黒く焦げ、そして一部は崩落し見る影もなかった。必死の救命活動が行われたものの、中は多くの焼死体で埋め尽くされていた。
ハーハ大統領は死んだのか。救助隊の誰もがそう思った時、大統領府の地下室が開かれた。
現れたのは、間違いなくこの国の国家元首だった。
「……閣下! 御無事で!」
「あぁ、緊急用の地下室があって助かった。共和主義者共の数少ない功績だな」
ハーハ大統領は軽い火傷を負ったものの命に別状はなく、すぐに事件の解決を図るよう部下に命じ、そして自身は厳重な警備の中大統領公邸に避難した。
翌10月28日。
共和国軍憲兵隊が、大統領府放火事件の犯人を逮捕したとの声明を発表した。曰く、
「昨日の大統領府放火及び大量虐殺事件の主犯である、共和主義者にして自治市民党の党首を名乗るツィリル・ハンスリックを本日未明に逮捕、拘禁せり。右の者は法律に則り、厳正な裁判においてその罪を問われることになるだろう。またこの事件に関与したと思われる者も判明し、現在憲兵隊によって捜索している」
この声明と同時に、暗殺未遂事件の共犯とされる783名の共和主義者の逮捕者リストが、共和国軍憲兵隊各員に配られた。無論、この逮捕者リストの存在は憲兵隊に残っていた共和主義者を仲介して共和派幹部に漏れた。
そしてそのリストを見た共和派のある幹部は、もはや他に手段なしと見て、決断した。
「一斉蜂起を行い、ソコロフを悪逆非道なる軍国主義者共の手から解放する」
大陸暦637年10月29日。
この日付こそが、カールスバート共和国内戦の勃発日として大陸の歴史年表に刻まれた日である。




