謝意
7月22日。
大使館の面々と適当に別れの挨拶を済ませ、いよいよ俺はシレジア大使館を去ることとなった。
外交官身分を剥奪されたわけでも失効したわけでもないし、新たな辞令を貰っていないので正式には俺はまだ外交官だ。次席補佐官じゃなくなるけど。でもなにより面倒な事務仕事もこれでオサラバである。いやっほう!
いやだからと言って体力仕事が大好きというわけでもないけど。
大使館が用意した公用馬車に乗って、すぐにでもシレジアに帰ろうと思ったけど少し寄り道する。
向かったのは、オストマルク帝国外務省庁舎。シレジア=オストマルク同盟を画策し、ベルクソン事件を利用して政敵を追い落とし、そして東大陸帝国に非難声明を突き付けた辣腕なる外務大臣クーデンホーフ侯爵閣下に会おうと思ったのだ。
アポはない。会えなかったらそのまま退散するつもりだった。
が、侯爵は地獄耳らしい。俺が外務省庁舎に入った途端、目の前にクーデンホーフ侯爵が数人の護衛と秘書を携えて待っていたからだ。ホント、どこから情報が来るんだろうね。
「閣下。今回はありがとうございました。おかげで祖国の民は無事に麦を収穫できます」
大陸の大穀倉地帯であるシレジアも、そろそろ収穫期を迎える。収穫期前に休戦が発効したから、徴兵された農民も安心して家に帰ることができる。それに今年は例年に比べて寒かったとか暑かったとかは聞いてないから、たぶんいい感じに実ってるだろう。
「それはよかった。私も貴国の麦は好きでね、来年以降も期待しているよ」
侯爵閣下はそう言う表現で、オストマルクとシレジアの関係改善に言及した。
来年以降も、また良い収穫期を迎えられるかどうかはシレジアにかかってる。そしてその麦を使ったパンを口にしたい侯爵も協力する。そんな感じかな。
「それで、今日は何用かな?」
知ってるくせに。
「退任の挨拶をしに。今日で私は次席補佐官職を解かれますので」
「おぉ、そうか。それは寂しくなるな」
声を聞いた感じ、寂しくなる、ということは思ってないだろう。でも具体的に何を思っているかまではわからない。そこは流石外務大臣閣下。感情を読まれたら交渉で不利になるもんね。
「私の方こそ、君に礼を言わなければならない。君のおかげで、これからの人生が楽しみで仕方ないよ」
「恐縮です」
オストマルク帝国影の帝王が何を楽しみにしているのか。それはちょっと怖くて聞けなかった。
侯爵は忙しいとのことで、退任の挨拶は15分程度で終わった。
この同じ庁舎に居るであろうリンツ伯爵とも今後の事を話すついでに挨拶しようかな、と思ったけどやめておく。一昨日の事を思い出すとどうも恥ずかしくて会いにくい。まぁ伯爵ならなんとかするでしょ。
じゃあフィーネさんは……と思ったけど普段彼女ってどこにいるんだろうな。家だろうか、それとも士官学校か、あるいはそれ以外か。
……うん、面倒だな。彼女に会うのもやめよう。そんなに時間に余裕があるわけでもないし。
あ、そうだ。もう一人挨拶しなきゃいけない人が居たな。こっちもアポなしだけど突撃してみるか。
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「ユゼフさん。お久しぶりですね」
「申し訳ありません。散々お世話になったのにお礼も挨拶も出来ずに」
「大丈夫ですよ」
リゼル・エリザーベト・フォン・グリルパルツァー。東大陸帝国軍の内部情報を俺に売ってくれた人であり、友人の婚約者である。プラチナブロンドの長い髪と体の一部のでかさは世の男性陣の目を惹くこと間違いなし。
婚約者が友人でなければ口説こうなどと思ったかもしれないけど、そこは自重する。
思えばイケメンの商家の息子を婚約者に持つ大社長の美人令嬢って勝ち組ってレベルじゃねーわ。
「それで、今日はどんな御用ですか?」
「御用、という程の用ではないのですが……今日を以って私は帝国を去ることになったので、お別れの挨拶に」
「あら、そうなのですか……」
リゼルさんがしゅんとしてる。ちょっと可愛い。
「愛しのラデックさんのお話ができる貴重な友人が……」
あ、違ったわ単なる惚気だったわ。帰国したらラデックを2、3発殴らなきゃ。
ラデックの話題をできる人がいなくなると分かったリゼルさんは、その後怒涛の勢いで惚気話に花を咲かせていた。遠距離恋愛ってのもあるからだろうが、にしてもラブラブである。
俺はその惚気全開の話題を適当なところでやめさせて、本題に入る。
「コホン。えー、今日は別れの挨拶ついでに、リゼルさんにちょっとご相談があって来ました」
「相談ですか?」
「えぇ」
そう言って俺は懐から財布を取り出す。中に入っているのは当然オストマルク硬貨。安月給の俺のなけなしの財産だが、オストマルクから去るとあってはこれはもう無用の長物。シレジア硬貨に両替しても良いけど、その前に少し買い物がしたい。
「大してお金があるわけではありませんが……これで買い物をしたいんですよ」
「買い物ですか? なら普通の市場の方がいいかと思いますが?」
「それはそうなんですけどね。普通の買い物ではないので?」
「……はて?」
「贈り物をしたいんですよ。世話になった人に渡そうと思ったんですが、忙しいのと恥ずかしいのとで買えなくてですね。それに私はセンスがないみたいなので」
前世じゃそういうのは知恵袋で適当に調べて密林でポチればなんとかなったけど、そんな便利なシステムがこの世界にあるはずがない。センスがあってそれを用意できる人と言うのは、オストマルクじゃリゼルさんくらいしか知らないのだ。
「なるほど。それで私が代わりに見繕って、その人に渡せばいいということですか?」
「そういうことです」
「ふむ……。わかりました。本来なら手数料を取るところですが、友人の頼みということで無料でお受けいたします」
「ありがとうございます」
良かった。手数料と称してお金半分取られるかと思ったわ。
「それで、渡す相手はどなたですか?」
「えーっとですね。リゼルさんも良く知ってる方です。具体的に言えば、高級官僚の父親を持つ士官候補生で、情報整理能力に長けて、でもあまり感情を表に出さない某才女なんですが」
「……ふむ。最後の一文を省けば心当たりは1人しかいませんね」
え? あの人そんなに感情表に出さないでしょ? 無表情が大得意だし。それともリゼルさんには結構感情を表に出すのだろうか。
「彼女には散々お世話になったので。お願いします」
「わかりました。私もその方にお礼がしたかったですし、いい機会です」
こうして俺とリゼルさんの今年最後の商談が成立した。
だいぶ待たせてしまった御者さんに詫びを入れながら、公用馬車に乗り込み、一路シレジアを目指す。と言っても1日で着くわけがないので、幾度か宿場町で休息を挟む。そして3日後の7月25日には、ついにオストマルク=シレジア国境付近に到着した。
欲を言えばクロスノに寄りたかったが、それだと王都到着が数日遅れてしまうから自重した。ベルクソンやアンダさんにも挨拶はしたかったが、仕方ない。
8ヶ月しかいなかったけど、もう今日で最後なのだと思うと感慨深い。明日には再び俺はシレジアの土を踏むことになる。
「……オストマルクの物価が安くなるか、俺の給料が高くなったら、また来ようかな」
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ユゼフがシレジア=オストマルク国境に到着した頃、ある2人の女性が、東大陸帝国弁務官府前の喫茶店で長閑に会話をしていた。
1人は、オストマルク帝国士官候補生にして伯爵令嬢のフィーネ・フォン・リンツ。
1人は、グリルパルツァー商会社長令嬢にして男爵令嬢のリゼル・エリザーベト・フォン・グリルパルツァー。
「時間的に言えば、大尉はそろそろ国境に到着した頃でしょうか」
フィーネが唐突にそう呟くと、それに反応したリゼルはすかさず茶化す。
「フィーネさんは、あの方が本当に気に入ってるようですね」
「まさか」
フィーネは無感動に即答し、紅茶を飲む。今回はちゃんと中身も入っていたが、リゼルはその行動をも予測していた。この数ヶ月、彼女らは何度か一緒にお茶をしていた。その時に、リゼルはフィーネの癖を見抜いていたのである。
無論、その癖を指摘するようなことはしない。それを見ることが、リゼルの楽しみのひとつだからである。
「あ、そうそう。時間で思い出しました。渡したいものがあるんです」
リゼルはそう言うと、持参した鞄の中から小さな箱を取り出し、それをフィーネの目の前に置いた
フィーネは訝しみながらその箱を手に取り、箱の正体をリゼルに問い質す。
「これは?」
「ユゼフさんからの贈り物です。『謝意は形のあるもので』」
「……」
フィーネはその言葉を覚えていた。なぜなら、自分が言った台詞である。リゼル、いやグリルパルツァー商会によって東大陸帝国軍の子細な情報が手に入った。その情報はユゼフにもたらされ、彼がフィーネに「エミリア王女の下にこの情報を届けて欲しい」と願い出た時、彼女が言った台詞だ。
『謝意はいずれ形のあるものでお願いします』
彼女はそれを冗談で言ったのだが、律儀にもあの男はその約束を守ったのである。
その行動にフィーネは感動を覚えるよりも前に呆れ果てた。まったくもって行動が読めない人物である、と。
「……開けてもよろしいですか?」
「どうぞ。と言うより、今開けてほしいですね」
リゼルのその言葉は「一見鉄仮面に見えるフィーネがどんな反応を見せるか」というものだったが、そんな事情を知ってか知らずか、フィーネは思い切ってその箱を開けた。
箱の中の物を取り出すと、彼女はそれが何かをすぐに理解した。
「……懐中時計、ですか?」
「はい。ヘルヴェティアの時計職人が作った、1年で1分しか狂わないと言われる時計です」
「…………」
この世界にも当然時計はあるが、職人がひとつひとつ丁寧に作るということもあって、とても高価なものになっている。ましてや、時計職人を多く擁することで有名なヘルヴェティアの高精度懐中時計ともなれば、価格は跳ね上がる。
当然、ユゼフのような安月給で買える物ではない。だからこそ、フィーネは理解した。
「……ありがとうございます。リゼルさん」
「ふふ。おかしいですね。それを贈ったのはユゼフさんですよ」
「でも、私は貴女にお礼を言います。ありがとうございます、と」
リゼルも、直接自分の手で友人に贈り物をするのが恥ずかしかった。だから、リゼルはユゼフを言い訳にしてこの贈り物をしたのだと。
2人が贈ってくれたこの時計は、それが壊れて動かなくなった時も、フィーネは後生大事に懐にしまい続けたと言う。
前話投稿時、フィーネさん関連の感想が20件以上来て驚きを隠せない作者。なお、次回以降彼女の出番は暫くない予定。




