皇子 VS 騎士
明けて6月12日午前3時丁度。
ヴァラヴィリエ補給基地を警備する帝国軍少将セルゲイ・ロマノフは巨大な眠気に襲われていた。
彼は今夜にでも基地が襲撃されると予想して徹夜をしたのだが、既に空が白み始めても一向に敵は表れなかった。
無論、払暁奇襲という可能性はあったためセルゲイ自身は警戒は怠らなかった。だが、旗下の将兵たちもそう思っていたかと言えば違う。彼らは、自分たちの指揮官が状況判断を誤って架空の敵を警戒しているのではないかという不安を抱き始めていたのである。それを増長させたのが、ザレシエ会戦における帝国軍元帥ロコソフスキの慎重すぎる指揮が、かえって彼の死を早めたという事実である。
そのためか、午前3時を過ぎた時点で「敵の夜襲はない」と進言する下級士官が続出した。
このような事態が数十分に亘って繰り返されれば、並の将帥であれば自らの判断に迷いを生じさせただろう。だが、セルゲイは下級士官たちの判断をその悉くを退けた。
そのセルゲイの予想が半分正しいことが証明されたのは午前3時20分のことである。
「閣下、東から騎兵集団です!」
「なに!?」
セルゲイは西に騎兵集団がいるという情報から、主力を基地の西に展開させていた。だが、王国軍ミーゼル騎兵隊は無防備の東側から襲ったのである。基地の東側にいるのは、休息中の友軍と大量の食糧と物資のみである。
セルゲイは直ちに起床ラッパの号令をかけたが時既に遅かった。ミーゼル騎兵隊約300騎は既に基地外縁に到着し、中級魔術「火砲弾」を斉射していたからである。脆弱な柵しか持たない基地は一瞬にして火に包まれ、そして貯蔵していた食糧物資に次々と引火した。
王国軍ミーゼル騎兵隊の先陣を切るのは、視力に優れ、かつ馬の扱いに長ける赤髪の女性士官サラ・マリノフスカ大尉率いる第15小隊である。
彼女らは火系初級・中級魔術を乱射しながら突撃し、帝国軍の微弱な抵抗を払いのけた。
「魔術の出し惜しみはしないで、全力で焼き尽くしなさい!」
サラは、火砲弾着弾の爆音や騎兵の轟音、そして帝国兵の悲鳴に負けないような大きな声で部下に命令する。と言っても、既に突撃に成功した彼女が下した命令は単純明快。「全てを破壊しろ」である。
第15小隊に続き、ミーゼル騎兵隊の本隊も補給基地を襲撃。手当たり次第に物資を焼き、狼狽する帝国兵を切り捨てる。果敢にも槍を構えて騎兵を迎撃しようとした小隊が少なからずいたが、騎兵隊が日の出を背にして突撃してきたため目が眩み、陣形を組む前に蹂躙された。
その数分後、セルゲイ少将率いる帝国軍歩兵約1000が基地に戻ってきた。既にこの時、基地の4割が焼失しており、休息していた兵も多くが逃げるか殺されたかしていた。
「クソッ。総員、陣形を固めろ!」
セルゲイは直ちに陣形を整え、突撃してくる王国軍騎兵隊第15小隊の前面に躍り出た。このまま第15小隊が突撃すれば、馬は怯んで速度を落とすか、槍によって串刺しにされる。隙間から初級・中級魔術を撃てば敵は倒せるはずだと。
このセルゲイの判断は正しかった。騎兵に対しては歩兵の密集陣が効果的だと言うのは戦術の常識である。
だが、この点に関してはサラの方が上手だった。彼女は小隊を右に回頭させ、帝国軍歩兵の密集陣の外側、初級魔術がその威力を減衰させて脅威とならない距離を保ちながら反時計回りに回り始めたのである。
「みんな! 弓を準備して!」
彼女がそう命じると、第15小隊は騎兵の速度を落とさないまま剣を鞘に納め、そして背中に装備していた弓を構えたのである。この瞬間、第15小隊は剣騎兵から弓騎兵に兵種を変更した。
サラの合図とともに、数十本の矢が上空から降り注ぐ。帝国軍約1000の部隊に対して数十本の矢は少ないが、弓は初級魔術並の連射速度で中級魔術並の威力を持つ強力な兵器である。密集して動かない歩兵など、大きな的でしかなかった。
弓は、両手で扱わなければならない。そのため弓で攻撃するときは手綱から手を離し、足だけで馬を操らなければならず、それを実行するにはかなりの訓練が必要となる。
だがサラ・マリノフスカという馬術の天才率いる第15小隊は、まるで自分と馬が一心同体となってるかのように巧みに馬を操った。
第15小隊は長距離から延々と矢を放ち続け、しかもかなりの速度で動き回るため帝国軍の魔術攻撃はなかなか当たらない。成す術なく一方的に攻撃を受けたため、ついには一部の兵が狂乱状態となって突出した。だがその度に第15小隊は騎兵の足で振り切り、再び遠距離から弓矢を浴びせかけた。サラに至っては、後ろを向きながら馬を巧みに操りつつ、弓を構えて矢を撃ち続けるという離れ業までやってのけた。
さらには陣形が乱れた密集方陣の隙をついてミーゼル中佐率いる本隊が方陣に突撃を敢行し、それを繰り返したことによって華々しい戦果を挙げることになった。
だがセルゲイの方もただやられてはいなかった。部隊の命令系統を維持し、組織的抵抗を最後までし続けた。補給基地の混乱を収め、生き残りの帝国兵をなんとか集めながら部隊を再編することに成功したのである。
この時点でセルゲイ率いる守備隊は2000にまで膨れ上がっており、また第15小隊の矢が尽きかけていたことから戦闘は王国軍騎兵隊の完全撤退をもって終了した。
この日帝国軍が失った兵はおよそ850、基地に保管してあった物資類はおよそ9割が焼失し、帝国軍の戦略に大きな影響を与えること疑いようもなかった。さらに王国軍は基地襲撃後、周辺の輜重兵部隊及び帝国軍の野営地をも襲ったため、被害はとてつもなく大きなものとなっていた。
一方の王国軍の損害は僅か17騎。
この戦いにおいて、どちらが勝者の名に値するのかは論じるまでもない。
---
完全に日の出を迎え、事態の混乱がようやく収まったのは午前5時40分のことである。
セルゲイは被害状況の把握と、タルタク砦への報告を急いだ。そして詳細な被害がセルゲイに報告されると、彼はこめかみを押さえつけて悩まざるを得なかった。
「やれやれ。これは一体だれの責任になると思うクロイツァー?」
「普通に考えれば、基地司令官か、警備部隊を十分に駐屯させなかった総司令部の責任ですが……」
「だが、総司令官がアレじゃあな」
「えぇ……」
一時的とは言え、セルゲイが駐屯していた補給基地が襲撃を受け、基地に保管してあった物資の9割が使用不能になったことは事実である。皇帝派のバクーニン元帥がこれを聞けば、セルゲイの責任を追及することは疑いようもない。
もしそうなれば、セルゲイの政治的立場が危うくなり帝冠が遠退く可能性がある。
だが、セルゲイは思いの外暗い顔をしていなかった。クロイツァーが不思議に思って問い質すと、彼は意外なことを言った。
「まぁ、ここで責任を追及されて帝都召還命令を受けた方が俺にとっては幸せかもしれん」
「……なぜ?」
「考えてもみろ。ここにあった補給物資はほぼ全滅。アテニに引き籠る我が軍の物資は、タルタク砦に保管してある物資は僅か3日分。近隣の村や町から調達するにしても、アテニにいる帝国軍はおよそ20万。それを養えるだけの物資を確保できるはずがない」
「それに開戦時から既に物資の調達を行っていましたから、農村にも物資は残っていないでしょうね」
「あぁ。帝国軍の命運は残り4日。それ以上長引けば、彼らは餓死するしかない」
セルゲイにとって、それは辛い事であったに違いない。連携に欠ける皇帝派の将帥がいくらでも死ぬのは彼は受容できるが、その旗下に居る20万の帝国臣民を犠牲にするのは耐えられるはずもなかった。
だが同時に彼は、王国軍に対する敬意をも抱き始めていた。
「叛乱軍。いや、シレジア王国軍は優れた将帥が多いと見える。常に我々の先手先手を打って、数に勝る我々に戦術的な勝利を与えていない。見事なものだな」
「ですが感心してばかりいられません。事実上アテニの20個師団は孤立しました。恐らく数日後には王国軍の大攻勢が始まるはずです」
「……そうだな。バクーニン元帥に全面撤退を具申するしかない。クロイツァー、頼むよ」
「分かりました」
こうして、6月12日の戦いは幕を閉じた。セルゲイの撤退具申がバクーニンの手元に届いたのは、翌6月13日のことである。




