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2.ウィリアムの変貌


 クロークにコートを預けた私たちは、二階へ上り曲線状の廊下を進んでいった。

 ここはボックス席専用の回廊である。片側には個室への重厚な扉がずらりと並び、その前では入室前の着飾った貴族たちが談笑している。

 ふいに聞こえてくる――私たちと同じくらいの歳の――年若い令嬢たちの声に耳を傾けると、どうやら結婚話に花を咲かせている様だった。

「あの方のお相手は子爵ですって」「まぁ、私たちもうかうかしてられませんわ」「素敵な殿方が現れてくれないかしら」などと、色めき立っている。


 その無邪気な声に、私は今さらながら実感した。さきほどエドワードらが言っていたように、このオペラ座という場所は貴族たちのれっきとした「社交場」であることを。

 婦人同士で娘の縁談や流行について談笑し、殿方ならば政治や経済について、そしてお決まりの愛人との密会など。貴族にとってのオペラ座は、単なる観劇の場ではないのだ。

 それもあって、私は長らくこういう場から遠ざかっていた訳で……。

「…………」

 華やかな空気とは裏腹に、憂鬱な気分が胸に広がる。

 そんな私に追い打ちをかけるように、回廊の隅からひそひそとした声が聞こえてきた。こちらに視線を向ける数人の令嬢たち。――他の誰にも聞こえないであろう程の、私を(あざけ)る囁き声だった。


「あら……あの方、サウスウェル家の……。隣にいらっしゃるのはファルマス伯爵よ」

「まぁ、本当。そう言えばあの方、少し前に事故で声が出なくなったのだとか」

「それはお気の毒ね。でもいい気味じゃありませんこと? あの方ご気性が荒いから、声が出ないくらいがちょうどいいんじゃなくて?」

「まぁ! そんなことを言ったら可哀そうだわ」

「でもファルマス伯はお気の毒よ。そんな状況で婚約を破棄するわけにはいかないじゃない? 内心はきっととてもお困りでいるはずよ」

「そうね、きっとお困りよね。本当にお優しい方だから。――それなのにあの方、あんなに平然と隣を歩くなんて……わたくしなら情けなくて外になんて出られないわ」

「ふふっ、本当よね。あの『悪女』の異名は伊達では無かったということではなくて?」

「まぁ、あなた、さすがにそれは言い過ぎよ」

「でも本当のことですもの」

 扇子で口元を隠しながら、くすくすと嗤う声。


 ――あぁ、なんて馬鹿馬鹿しいの。これだから貴族の集まる場所は嫌いなのよ。

 けれどわかっている。これは自分の蒔いた種だ。

 たった三ヵ月かそこらで、二年もかけて広めた悪評を払拭できると思えるほど、私は自分を傲ってはいない。

 私は彼女たちの声を聞かなかったことにして、そのまま横を通り過ぎようとした。

 ――けれど。


「こんばんは。美しいご婦人方」


 ――ウィリアム?

 唐突に立ち止まったウィリアムを顧みると、彼はいつになくにこやかな表情で令嬢たちに声をかけていた。

「私の名が聞こえた気がしたのだが」

「――っ、ファルマス伯爵……!」

「よければ、いったい何を話していたのか聞かせてはくれないか?」

「……っ」

 令嬢たちに向けられる満面の笑み。しかしその瞳は、凍てつくように冷たい。

 けれどそんなことを知る由もない令嬢たちは、麗しいウィリアムの微笑みに頬を赤く染める。

「き……聞かれていただなんて。お恥ずかしい……」

「――それで? いったい何を話していたのですか?」

「そんな……大したことは。ただ私たち、伯爵とアメリア様があまりに仲睦まじいので、羨ましいと話しておりましたの」

「ええ、そうですわ。お似合いのお二人ですわね、と」

「そう、その通りでございますわ」

 そう心にもない言葉を平気で口にする令嬢たち。本当に面の皮が厚いらしい。

 だがウィリアムは、優雅に小首を傾げてみせた。

「なる程、そういうことなら私がこれ以上言うことは何もありません。ですが、これだけは覚えておくように」

 彼は一歩、彼女たちに踏み出した。

 その瞬間、場の空気がぴりりと張り詰める。

「彼女は私が生涯唯一愛すると決めた女性。彼女を侮辱する者は、誰であろうとこの私が許さない。たとえあなたのお父上が公爵であろうとだ――イザベラ嬢」

「――ッ」

 名を呼ばれた一人の令嬢が、弾かれたように顔を蒼白にさせた。

 よほどウィリアムの笑顔が恐ろしいのか、彼女はウィリアムから顔を逸らし、ぶるぶると肩を震わせる。

 そして何も答えられずに、私たちから逃げるように背を向けた。

 他の令嬢たちも、慌ててその後を追うように立ち去っていく。


 ――何よ、今の……。

 おかしい。ウィリアムがおかしい。いままでの穏やかな彼なら、こんな好戦的な態度を取るはずがない。

 これではまるで別人だ。いや、確かに実際のウィリアムにはそういう無慈悲なところがあるのかもしれないけれど、まさかこの様な人目のつく場所で……。

「ちょっと……ウィリアム。今のは……何なの?」

 私が問いかけると、彼は短くため息をつく。

「そのままの意味だ。君を侮辱する者は誰であろうと許さない」

 私を見つめ、当たり前の様に言ってのけるウィリアム。

 そんな彼の冷えた瞳に、私はただ茫然とした。

 だが驚いたのは、私だけではなかったようだ。エドワードとブライアンも、私の横で目を丸くしている。


「……お前、変わったな。冗談抜きで」

「俺、実はお前のことずっと面白みのない奴だと思ってたけど……撤回するよ」

 そう言って、ウィリアムの肩に両側から腕を回す二人。

「なぁ、ウィリアム。お前、何かあったんだろ?」

「言えよ、俺たち聞いてやるからさー」

「――放せ。男に抱きつかれる趣味は無い」

「いいや、放さないね」

「アメリアと何かあったんだろ、吐け」

 そして二人に強制連行されるウィリアム。その横顔は、やはり私の知る彼のものとは違っていて……私は悟る。

 やはり気のせいではなかったのだ。

 三日前、街に出掛けたあの日から、まるで別人のように変わってしまったウィリアム。

 ルイスの告げた「全ての準備が整った」という言葉。エリオットが生きているのかもしれないという可能性――。

 もしかしたらそれが、今のウィリアムの振る舞い方に関係しているのかもしれない。だとしたら……。

 そこまで考えて、私は小さく(かぶり)を振った。

 ――いや、やめよう。今考えたって仕方がない。考えるのは屋敷に帰ってからでも遅くない。

 私は小さく息を吐いて、隣に立つカーラ様に視線を向ける。

 すると彼女は――。


「ロ・マ・ン・ス! ですわ!」

「――⁉」

 これでもかというくらい、瞳をキラキラと輝かせていた。

「今のウィリアム様、とても素敵でしたわ! まるでおとぎ話に出てくる王子様のようで!」

 両手を胸の前で組んでうっとりとした表情を浮かべるカーラ様。

 それはウィリアムのことが好きというよりは、物語の中の王子様に憧れる少女の様な無垢な瞳で……。

「……そ、そうだったかしら?」

「ええ! 間違いありませんわ!」

 確かに彼の言葉は嬉しかった。

 人にかばってもらえるなんて何十年ぶりだし、その相手がウィリアムで……まさか、第三者に対して私のことを愛していると、唯一愛すると決めた女性だと言ってもらえるなんて、嬉しくないはずがない。

 嬉しい。確かに嬉しい。

 けれど、同時に困惑しているのもまた事実。

 考えなければならないことが多すぎて、わからないことが多すぎて、今の私には、彼の言葉を素直に喜ぶことができない。

 それに言わせてもらいたい。あんなに黒い笑顔を浮かべた王子様など言語道断。というより、おとぎ話の中の王子様のような人物など、現実には決して存在しないのだ。


 私がそんな複雑な心境でいると、カーラ様は何か勘違いしたのだろう。

「あ――っ、ち、違いますのよ! ごめんなさい、私ったらまた無神経なこと……。ウィリアム様のことをお慕いしているとか、そういうわけではありませんの。だからそんな怖い顔をなさらないで?」

 申し訳なさそうに私を見つめる彼女。

 その不安げに揺れる透き通った瞳を向けられると、逆にこちらがいたたまれなくなってしまう。

「大丈夫です、わかっていますわ。あのようなウィリアム様を初めて見たものですから、少し驚いてしまっただけなのです」

 私の言葉に、彼女は安堵したようにほぅと息を吐いた。

 そして「では参りましょうか」と愛らしい笑みを浮かべる。

 こうして私たちは、再び歩きだした。

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