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1.孤独な少年


 今日も声が聞こえる。

 聞きたくもない、耳障りな声が。視界に入る者たちの――他人をさげすむ心の声が。


 (いか)り、(ねた)み、(そね)み、そして(にく)しみ。


 王宮の中は負の感情であふれていた。ここにいるのは、不快で、汚い、醜悪な根を持った者たちばかり。

 本当に僕に――父上に忠誠を誓う者など、ここには誰一人としていなかった。皆何かを(たくら)み、他人の大切なものを奪い……壊していく。

 ここはそういうところだった。そんな、(したた)かな者しか生き残れない場所だった。


 その日、僕はいつものように部屋を抜け出し、人気のない裏の庭園へとやって来ていた。

 そこには美しい白いユリの花が咲き乱れていて、それだけが僕の心を()やす。ここだけが、誰もいないこの場所だけが、僕が僕でいられるところ。

 僕が唯一、自分の気持ちを吐き出せる場所――。


「大嫌いだ、皆、皆ッ!」


 母上も侍従も、教師も侍女も、皆、皆――。


「大っ嫌いだ……ッ!」


 僕は独り花壇のレンガに座り込み、心のままに声を上げる。


 ここには僕の味方など一人もいない。誰一人として、決して僕と目を合わせようとしない。

 僕のこの赤い目を恐れて。僕に心を読まれることを……恐れて。

 そう、だって僕を産んだ母上でさえ、僕を気味悪がり、遠ざけるのだから。


 ――僕は思い出す。

 僕が三歳になったばかりのときの、決定的な出来事を。母上の銀のブローチが無くなった、あの日のことを……。



 母上が結婚前に父上からもらったという銀のブローチ、それがある日突然無くなった。

 母上は大騒ぎをして、使用人に王宮中を探させた。けれどどうしても見つからなかった。

 だけど、僕はそれを不思議に思っていた。

 だって母上のお付きの侍女が、「ブローチは私が持っている」と言うのが確かに聞こえたから。それなのにどうして皆、見つからないと言うのだろうと。


 だから僕は言ってしまった。その侍女が持っているよ、と。


 僕の指に差されたときの真っ青になった侍女の顔を、僕は今でも忘れられない。あのとても驚いた、恐怖と畏怖(いふ)に染められた顔を……。


 その時、僕はようやく知ったんだ。僕に聞こえているこの声は、他の誰にも聞こえていないのだと。僕だけに聞こえる心の声なのだと。

 僕のこの赤い瞳が、皆の心を読んでしまっていたのだと。


 その翌日、侍女は牢獄の中で自害した。見張りが気付いたときには既に死んでいたらしい。


 母上は泣いた。死んだ侍女は母上のお気に入りだったから。ブローチ一つで彼女を殺してしまったと、とても嘆き悲しんだ。

 そして同時に僕を恨んだ。あなたのせいで――と。そう叫んだ母上の悲痛な心の声が、今でも僕の耳から離れない。


 ――あれからもう四年が経とうとしている。


 けれど母上は、あれ以来僕と目を合わせようとしない。

 それは使用人もまた同じ。朝僕を起こすときも、食事の支度をするときも、勉強を教えるときも、乗馬や剣の訓練をするときでさえ、彼らは決して僕と目を合わせない。誰も、僕の顔を見ない。

 だけど、そう、かろうじて父上だけは、僕の目を見て話してくれる。けれど父上は僕よりも母上が大切だから、母上に気を遣って、最近は僕と会ってくれなくなった。


 僕の赤い右目。今は色を入れていて一見普通の紫だけど、それを外せば血のように赤いおぞましい色。

 どうして僕はこんな目を持って生まれてしまったのだろう。どうして僕には人の気持ちが読めてしまうのだろう。聞きたくもない、知りたくもない声なのに、どうして……。


「どうして僕は……生まれてきてしまったんだろう」


 僕が母上を不幸にした。僕のせいで母上は笑わなくなった。僕がいなければ……僕なんか、生まれてこなければ……。


 あぁ……性善説を最初に唱えたのはいったい誰だっただろうか。生まれながらにして人は善い心を持っているなどと、いったい誰が言い出したのか。そこにいるだけで吐き気をもよおしそうな場所にいて、どうしてそんなことが……人の愛が信じられるだろうか。信じられるわけがない、誰も、何も、自分自身さえ――。


 本当に大嫌いだ。こんな自分が、弱くて、卑屈で、本当に大嫌い。

 消えてしまえばいい、こんな自分、消えて無くなってしまえばいい。誰にも必要とされない、誰にも愛されることがない、自分なんて……。


 そうして僕は夢に逃げ込む。いつも、一人、ただ……一人で。


 そうしなければ、僕は自分でいられなかった。壊れてしまいそうだった。話し相手もいない、そんな毎日に、狂ってしまいそうだった。


 媚びを売るためだけに近づいてくる貴族も、上辺だけ取り繕った友人も、僕の目を見なければいいと思って……本当に僕を馬鹿にしている。僕には全部聞こえてるんだ。お前たちの声が。僕を恐れ、ただ利用しようとするその(いや)しい心の声が。


 もう――全部消えてしまえ。全部全部、消えて無くなってしまえ。

 この世の全て、僕自身も……闇にのまれて……無くなってしまえばいい。



『――本当に?』


 そんなとき、夢の中の僕が問いかけてきた。


『君は本当にそれでいいの? 本当にそれで満足なの?』


 もう一人の僕は、微笑む。


『僕は知っているよ、君の本当の願いを。僕には聞こえているよ、君の心の叫び声が』

「……っ」


 暗い暗いトンネルを抜けた先、そこに広がる荒れ果てた庭。それを囲むように長く続く無限の回廊。

 そこには怪物が住むという――それはもう思い出せないほど昔、母上が読んでくれた絵本に出てきた、孤独な怪物。


 そこに住む怪物は、寂しそうに僕に微笑む。僕だけに、微笑みかける。

 優しく、悲しく、深い愛に満ちた瞳で。


『アーサー、僕は君の傍にいるよ。ずっとずっと傍にいるよ。僕だけは何があっても、君の味方でいるから。――だから、そんな顔をしないで』


 夢の中で、怪物は笑う。


『僕が、いるよ』


 何度も何度もそう繰り返す。それは甘く、切なく、僕の心を(とら)えて放さないように――。


『忘れないで、僕がいることを。ずっと君の傍にいる。……約束、するよ』

「――っ」


 僕の頬をそっと撫でる、その怪物は――僕の瞳から絶対に目を逸らさなくて……。彼だけは、僕の赤い目を怖がらなくて……。


 それが夢だとわかっていても、ただの夢だとわかっていても、僕は何度も、何度でも、彼に会いに行く。


『愛しているよ、アーサー』


 僕の望む言葉をくれるのは彼だけ。夢の中の、もう一人の自分だけ――。


『僕が君の力になるよ。君のその力、それは王の力だ。偉大な力。君だけに、扱える』


 目の前の自分の赤い右目が、妖しく光り――そして、(うごめ)いた。


『アーサー、僕が力を貸してあげる。僕が君を助けてあげる。君の敵になるものを全て、この僕が壊してあげる。――さぁ、この手を取って』


 そうして僕の目の前にゆっくりと掲げられる彼の青白い右手。それは酷く不気味で、まるで死人の手のようだと僕は思った。けれど、不思議と嫌な気はしなかった。


 これで楽になれるのだと――ただ、そう思った。



 気付いたときには、僕はその手を取っていた。

 瞬間、僕の心に広がったのは、形容しがたい高揚感(こうようかん)


 僕は彼に手を引かれ回廊を抜け出した。暗く長いトンネルを抜け、僕らはようやく、目覚める。



 再び僕が目を開けると、そこはいつもどおりの裏庭だった。


 辺り一面にユリの花が広がっている。それはとても美しく、まるで毒花のように狂い咲いていた。

 僕はその中から、一際(ひときわ)美しく咲くユリに手を伸ばす。鼻孔に漂うのは、甘く(かぐわ)しい匂い。それは人の心を惑わす毒の花。


「君はとてもきれいだね。だけど……」


 僕の掌の上で咲く、純白の花弁――僕はそれを、強く握りしめた。


「あんまり目立つと、散ることになるよ」


 ハラハラと、白い花びらが舞い落ちていく。寂しげに、悲しげに――。



 ――それは僕の、七歳の誕生日のちょうど前日のことだった。

 そしてその日を境に、僕はもう二度と、裏庭に立ち入ることはなかった。


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