2.神話の裏で
ルイスの静かな語り口は、まるで遠い異国の御伽噺を語るかのようだった。
窓から流れ込む金木犀の甘い香りが、千年の時を超えた記憶の扉を、ゆっくりと開いていく。
「――これは今より凡そ千年前の、我が国初代国王カイルに纏わる記録です」
彼はそう前置きして、遥か彼方の光景を幻視するように目を細めた。
*
むかしむかし、あるところに、聖女の奇跡によって救われた国がありました。
初代国王カイルは、聖女ソフィアの力により国に安寧をもたらしました。大地は豊かに実り、争いは消え、国はかつてないほどの繁栄を極めました。
やがて二人は結ばれ、ソフィアは王妃の座につきました。
それから数年の後、二人の間に待望の王子が誕生します。
国中の民が祝杯を上げ、その誕生を喜びました。
母であるソフィアと同じ、夜空のように美しい漆黒の髪と瞳を持って産まれたその王子は、ユリウスと名付けられました。
ユリウスは何の不自由もなく、人々の愛を一身に受け、聡明で温厚な少年へと成長していきました。
王も、王妃も、そして民も。彼らは皆、幸せでした。
国王カイルが隣国との和平の為、公女マーガレットを側室に迎え入れても、その幸せが変わることはありませんでした。
カイルは変わらずソフィアを深く愛していましたし、マーガレットもまた、国の民と同じようにソフィアの不思議な力を神聖なものとして受け入れ、敬っていたからです。
けれど少しずつ、音もなく降り積もる雪のように――穏やかな日々に陰りが見え始めました。
側室マーガレットが、王子を産んだのです。
第二王子――ローレンス。
彼は、父親である国王カイルによく似ていました。太陽のような金色の髪に、夏の空を思わせる真っ青な瞳。顔立ちは凛々しく、何事にも物怖じせずに立ち向かっていく勇敢さを持ち合わせていました。
第一王子ユリウスの持つ先見の明や、何事にも平等に真摯に向き合おうとする思慮深さには及びませんでしたが、彼には人を強烈に惹きつける天性の魅力がありました。
それでも、国王カイルやソフィア、そしてマーガレットが、そのことについて何かを憂うことはありませんでした。
ユリウスとローレンスは年が離れていながらも、誰が見ても仲の良い、慈しみ合う兄弟でした。城の中の人間関係は、すべてが良好に見えていたのです。
けれど、それを良く思わない者たちが国の外にいました。
マーガレットの生家である、公爵家の一派です。
彼らは公にこそ出しませんが、ソフィアの持つ人知を超えた力を忌み嫌い、心の底で怖れていました。何よりも、ソフィアの何の後ろ盾もないその出自が気に入らなかったのです。彼らは公女であるマーガレットこそが、真の王妃にふさわしいと考えていました。
マーガレットが王子を産んだことにより、その燻っていた火種が、パチリと音を立てて燃え広がりました。
ソフィアは、その不穏な空気にすぐに気が付きました。
そもそも彼女は、王妃の座になど興味はなかったのです。彼女はただ、愛するカイルと、愛する息子と、穏やかに過ごしていたいだけだったのですから。
彼女はカイルに進言しました。自分の代わりにマーガレットを王妃にして欲しい、と。
カイルもソフィアの苦悩を深く理解し、悩み抜きました。けれど、長きにわたりこの国を支え、奇跡をもたらしてきたソフィアを、そう簡単に王妃の座から降ろすわけにはいきません。民が納得するはずがないのです。
とうとう王妃ソフィアは、ユリウスを連れて離宮へと籠もってしまいました。その頃にはもう、王城の中はソフィアにとって安寧の場所ではなくなっていたからです。
ソフィアは、不死の身体を持っていました。
彼女はカイルと出会ったあの日から二十年の月日が流れた今でも、その姿はあの日のまま、何も変わっていませんでした。
絹のように流れる黒髪は見る者を魅了し、その透き通った肌は白雪を思わせるほど。彼女の美貌は、時が止まったかのように衰えることを知りませんでした。
けれど、息子であるユリウスは違います。
ソフィアの血を強く引いた彼の身体は、他の人間よりは確かに丈夫で、老化も緩やかでした。成人を迎えているというのに、その身体つきはほんの十歳の少年のままです。
ですが、怪我をすれば赤い血が流れますし、病気にだってかかるのです。
後ろ盾のないソフィアにとって、悪意の渦巻く城はもう、愛しいユリウスの命を脅かす危険な場所でしかありませんでした。
国王カイルは苦渋の決断を下し、ソフィアが病気だと国民に宣言して、王妃の座にマーガレットを据えました。
その頃には、マーガレットの心にも変化が訪れていました。生家の期待と甘言に晒され、彼女もまた、我が子を王にという野心に心を燃やし始めていたのです。
ソフィアがそれを悟らぬはずがありません。これを機に、ソフィアはユリウス一人を連れて離宮からも姿を消してしまいました。行き先を、誰にも告げることなく。
愛する妻と子を失った国王カイルは、心痛のあまり病に臥せってしまいました。
そして第二王子ローレンスが成人である十六を迎えた頃――とうとう、王は崩御しました。
このとき焦ったのは他でもない、新王妃マーガレットとその生家です。
なぜなら、第一王子ユリウスの王位継承権は失われていないままだったからです。兄であるユリウスが生きている限り、正当な後継者は彼であり、このままではローレンスが正式な国王として認められることはありません。
マーガレットは、息子ローレンスに命じました。
――ソフィアとその息子、ユリウスを殺しなさい、と。
それと同じころ、隠れ住んでいた地でカイルの訃報を聞きつけたソフィアは、独り涙を流していました。
彼女は自分が城を去ったせいで、カイルを殺してしまったのだと悔やみ、嘆きました。そして、ローレンスの兵が自分と息子を殺すために迫っていることも、その鋭い感覚で悟っていました。
自分はどうなってもいい。けれど、息子ユリウスだけは、何としてでも逃がさなければならない。
彼女はユリウスを遥か遠くの故郷の森へと逃がし、すべての因縁を断ち切るために、単身ローレンスの元へと向かったのです。
*
ルイスの話が途切れた。
部屋の中には重苦しい沈黙だけが漂っている。
私は言葉を失っていた。神話として語り継がれてきた物語の裏に、このような悲劇が隠されていたなんて。
窓の外を見つめていたルイスが、ゆっくりとこちらへ向き直る。
逆光で表情は見えない。けれどその声は、深淵の底から響くように低く、震えていた。
「……そして、母上は死んだ」
ルイスは俯いたまま、ぼそりと呟いた。




